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作品名:続編 小説「ボラカイ島」 作者:南 右近

第10回   焦り
焦り

 日本に正樹より少し遅れて戻ったボンボンであったが日本語の研修期間や大学時代も含めると留学生としての日本国在留資格である学生ビザはすでに延ばせるだけ延ばしてきた。
そろそろ在留資格も限界に近づいていた。入国管理局はアジアや発展途上国から来日している者に対してはとても厳しい。ボンボンも何か新しい滞在の理由を見つけなければならなかった。ボンボンは焦っていた。まだ、これはというものをつかんでいなかったから、出来るだけ長く日本にいたかったのだ。学生ビザが切れれば在留資格の変更が必要になる。正樹を案内してフィリピンに戻った時に故郷のビコールの役所からは念のために出生証明書をもらってきた。洗礼証明書も教会から発行してもらってきていた。大学院への進学も考えていたし、大使館の仕事に就くことも魅力があった。日本の企業に就職することも選択肢のひとつであった。いずれの場合も彼を受け入れてくれることを証明する書類が山のように必要になる。最高の場合は日本人との結婚も考えられるが、まだ片思いの段階ではそれは無理な話であった。いずれにしても滞在期間切れが近づきつつあり、ボンボンは非常に焦っていた。
 ボンボンは何か良い話はないかと渋谷のフィリピン大使館に顔を出してみた。当時はまだ大使館は渋谷にあった。廊下にある掲示板で商工会議所主催の新任大使歓迎パーティーがあることを知った。そこには通訳募集と書かれてあった。ボンボンは日本に来た時から大使館の連中とは嫌でも仲良くするようにしていたから、知り合いは多かった。通訳の仕事は一つ返事で決まった。商工会議所の集まりにはフィリピンに進出している日本企業の中堅どころが顔を出すということを考えると出来るだけボンボンも出席するようにしていた。日本人の知り合いは多ければ多いほどボンボンにとっては都合が良かったから、事あるごとに通訳を進んで申し出ていた。ボンボンの日本語は同期の留学生の中でも群を抜いていた。彼の語学の才能は相当なもので、電話で話をしている分には誰も彼のことを外国人とはおもわないだろう。日本に来てまだ間もない頃、日本語研修センターで担当の先生に日本語をマスターする近道は早く恋人をつくることだと言われた。しかしアジア系の留学生たちにはその言葉はあてはまらなかった。日本では欧米人のようには恋愛はうまくはいかないからだ。しかし、ボンボンはボランティアで東京の外国語の大学でフィリピン語研究を手伝ったことがあった。その時に知り合った早苗という学生と親しくなった。ボンボンが早苗にタガログ語を教えて、早苗がボンボンに日本語を教えた。早苗は長野県戸隠村の農家の出身で言葉にはそれほどひどいなまりはなかった。ボンボンは早苗に対して密かに想いを寄せ続けていたが、気がつけば何も進展しないままに長い歳月だけが経ってしまっていた。早苗は学校が休みの間は実家が副業でやっている民宿を手伝っていた。寒いこの時期は農閑期であったが、戸隠はスキー客でごった返していた。新任大使歓迎パーティーに早苗も誘おうとして何度も電話をしたが、あいにく早苗は実家に帰っていて留守のようだった。わざわざ東京に呼び戻すこともなかったのでボンボンは一人でパーティーに出かけることにした。
 浜松町の茶色いのっぽビル、貿易センター・ビルは当時は日本で二番目か三番目の高さを誇っていたとおもう。まだあまり高層ビルがなかった時代だった。東京湾を一望する大きな部屋がフィリピン共和国の新任日本大使歓迎パーティー会場だった。商工会議所のメンバーには年会費さえ払えば誰でも会員にはなれた。フィリピンで商取引をする日本の企業はさまざまな手続きの優遇措置や迅速化を求めてメンバーに加わった。そしてその代わりに高いパーティー券を事あるごとに買わされるのである。
 パーティーは新任大使の紹介、挨拶とお決まりの順番で進んでいった。何人かのゲストの挨拶も済んでバイキング形式の夕食会の時間になった。テーブルは料理を載せたもの以外にはまったくなく、椅子も壁際に少し並べてあるだけの質素な会場であった。立ったまま、皆、それぞれ大皿を手に持ちながら食べたり、時折、運ばれてくる飲み物に手を出したりしていた。自然と顔見知りが集まって、場内には幾つかの話の輪が出来ていた。その中にあって、ひときわ大きな声で新任の大使に話しかけている大男がいた。日本語で一方的に話しかけている。次第に大使は困惑した表情になってきていた。大使館のビザ担当の書記官ペドロがボンボンに合図を送った。自分の顔を大使の方向に向けながら、ボンボンに大使の所にすぐ行くように指示を出した。ボンボンは大使の後ろ側に回って通訳を始めた。まず英語をしゃべれない日本人に対しては大使も大使館の連中も興味を示さないと考えてよい。案の定、大使はこの大声で日本語しか話せない大男とは軽く挨拶をしただけで後はボンボンに任せて他のグループの中に逃げ込んでしまった。
 大使が移動した後、渡辺社長とボンボンは丁寧に名刺交換をした。渡辺社長は京都からわざわざ来ていた。社長はボンボンの名刺を見ながら言った。
「ほう、東京の教育の大学生さんかね。他の連中と違って、道理で日本語がうまいわけだ。もう長いのかね、日本は?」
「もうすぐ、卒業になります。」
渡辺社長は何杯もブランデーのおかわりをした。下腹が極端に飛び出ていて身体全体で息をしている。
「ボンボンさんは何を学校で専攻なさったのかね?」
「農業機械です。」
「教育の大学で農業機械かね。わしにはよく分からんが、また偉く難しい事を勉強しているのだね。」
渡辺社長はすでに今夜のパーティー券3万円分を取り戻すことに興味が移っているらしくスモーク・サーモンとチーズを同時に口に運んだ。最上級のブランデーもまるで水を飲むようにして空けていた。突然、社長はボンボンに妙なことを言い始めた。
「ボンボンさん、あなたは道を歩く時はどこを見て歩きますか。銭が落ちていないかと下ばっかりを見てはいませんか。いいですか、たまには上を見てお歩きなさい。電信柱にはたくさんお金が巻きついていることが分かりますよ。」
「すみません、おっしゃる意味がよく分かりません。もう少し詳しく説明してくれませんか。電信柱にお金が巻きついているのですか?」
「いいかね、お若いの、電信柱の上のほうをよく見ると電線とか電話の配線盤とか、いろいろな部品が付いているのが分かりますよ。そしてそれらを固定する為に幾つもの留め金が巻きついている。あれが金になるのだよ。電線とか配電盤は大手さんが独占しているから無理だが、留め金の方はうちのような小さな会社でも注文は取れる。」
社長はいったん話を止めて、海老のてんぷらとキャビアをクラッカーにのせて大きな口に放り込んだ。良く噛まずにのみこんでから、また話を始めた。ボンボンはもう他の客のところに移動したかったのだが、社長はそれを引き止めるように話を続けた。
「フィリピンには電信柱があるのかね?」
「はい、ありますよ。日本ほど多くはありませんが、あります。」
「田舎の方はどうかね?地方の方はどうです?」
「電気のある場所は限られていますから、郊外に行くと、あまり電信柱はありませんね。」
「そう、それじゃあ、これからどんどん増えるということですね。」
「そうだとおもいますが。」
ボンボンの返事を聞くと渡辺社長は二三度頷いて独りで満足している様子だった。それから苦しそうに壁際の椅子に腰を下ろして大きく息をついた。明らかに社長は食べ過ぎなのである。ボンボンが離れていても、平気で大声でもって話しかけている。
「ボンボンさん、わしはフィリピン以外の国はすべて廻ったよ。アジアのほとんどの国を見て廻った。それでな、来年、タイとベトナムでさっき話した電信柱の留め金を売ることが出来そうなんだよ。だからな、そんなわけでフィリピンにも非常に興味があるのだがね、なんせ、わしは言葉が出来んから、誰か信頼出来る現地の人間が必要なのじゃよ。フィリピン人は信用出来るかね?」
社長はいったい何を考えているのだ。ボンボンは困惑した。自分もフィリピン人である。そのフィリピンの人間に向かって、フィリピン人は信用が出来るのかと聞いてきている。無神経にも程があるとボンボンはおもった。ちょうどその時であった、書記官のペドロから合図があった。大使が相手をしている大手商社の部長連中のところへ行くようにと指示があった。ボンボンは新しいブランデーを手にとって、それを渡辺社長に渡しながら言った。
「社長、ちょっと失礼します。また後でまいりますので、どうぞごゆっくりと、おくつろぎ下さい。」
 中小企業の社長はなかなかこういったパーティーでは居場所がない。どうしても大手企業が中心に会は進行してしまうようだ。大使も大使館の連中も明らかに話し相手を選んでいるのだ。話し相手のいない渡辺社長はただ一人でもくもくと飲み食いを続けた。30分も経たないうちに社長は完全に出来上がってしまった。誰が見てもそれは明らかだった。よく通る声で社長が怒鳴った。少し離れた所にいるボンボンを呼んでいた。
「ボンボン、ちょっとでいいから来てくれないか。」
渡辺社長は汗を拭き取りながら、一段と焦れた大きな声で再び叫んだ。
「ボンボン、すまんが来てくれないか。」
ペドロから指図されてボンボンは渡辺社長のそばにやって来た。照れくさそうな含み笑いをしながら社長が言った。
「いやあ、今日はありがとう。少し酔ってしまったようだよ。今夜の最終で京都に戻ることになっているんだ。ボンボンさん、京都に来るようなことがあったら、ぜひ、連絡してくださいよ。一緒に食事でもしましょうよ。ゆっくりと話がしたい。ゆっくりとね。いいですか、ボンボンさん、必ず電話して下さいよ。待っていますからね。ええと、名刺はさっき渡しましたよね。」
「すみませんでした。今日はゆっくりとお話が聞けなくて、申し訳ありませんでした。」
「それでは田舎ものはこれで退散するとしましょうか。電話、待っていますよ。」
「今日は有り難うございました。どうぞ、お気をつけて。」
渡辺社長は大使にも大使館の連中にも何の挨拶もせずに、ドアの向こうに消えて行ってしまった。
 ボンボンも客をすべて送り出した後、片付けを手伝ってから、留学生会館に戻った。玄関のポストに二枚の絵葉書が届いていた。一枚目は広い農場でどこまでも続く並木道、それは学校の構内のようにも見えた。北海道にいる正樹からきたものだった。先日のマニラ旅行のお礼と新しい北海道での生活の様子が書かれてあった。もう一枚の絵葉書は猛々しくそそり立った戸隠の山の風景で何とも神秘的な雰囲気が満ち溢れていた。実家に帰っている早苗からのものだった。彼女の実家が副業でしている民宿は今スキー客でごった返していると書かれてあった。忙しくてしばらく東京には戻れないがボンボンも一度は遊びに来てはどうかと書かれてあった。正直なところ、ボンボンは早苗の両親に会うことが恐ろしかった。しかし早苗の生まれて育った故郷を一度は見てみたかったし、前々から早苗には自分の気持ちをしっかりと伝えておきたかった。


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