店の中では、鬼武者の一撃から、ようやく立ち直った福住が腹を擦りながら、目を合さずにオドオドしながら幸と対面していた。 「なっ、なんの用だ……」 「はあ? なんの用? よくそんなことが言えるわね。どの口が言ってんのよ! あん!」 鬼武者改め、鬼嫁の幸が腕を組んで与太者のように目を剥いていた。 「たくっ! 家から叩き出してから、金は払わないは、連絡も一切してこない! わざわざこちらから出向いてみれば、こんな古ぼけた食堂で、せっせっと何か作って、まともに働いている風でもない。あんた、本当に養育費、払う気あんの?」 「…………」 まさに、ヘビに睨まれたカエルの如く、福住は俯いて黙り込んでしまった。 「こりゃ、勝負にならんな、ミィーちゃん。いかに負い目があるとはいえ、完全に呑まれとる」 「ミャ……」 食堂の奥の部屋であぐらを掻いて呆れ返る福の神に、ミィーちゃんは悲しく答えるしかなかった。 「どうなのよ! 払う気あんの! 答えなさいよ!」 「…………」 「たくっ! どうして、こんな男と一緒になったんだろう。あんたとの結婚生活なんて、私にとって人生の汚点でしかないだからね!」 「…………」 鬼嫁のあまりのディスりっぷりに、福の神は口を半分開いて、「うわぁ……、そこまで言うか……」と、天を仰いで嘆いた。 ディスられ放っしで目を伏せたまま両手を固く握り緊め、沈黙を守る福住に、痺れを切らした鬼嫁が強く迫った。 「黙っていれば、その内、サジを投げて帰るとでも思ってんでしょう。違う?」 鬼嫁が鼻で笑いながら、底意地の悪そうな目を福住に向けた。 「でもね、今日という今日は、そういう訳にはいかないから。もし、払えないなら、前から言ってた通り、この食堂、売りなさいよ」 涼しい顔で、とんでもないことを言う鬼嫁に、思わず「えっ!」と顔を上げた福住に、幸はさらに追い討ちを掛けた。 「それができないなら、離婚して裁判沙汰にしてでも、この食堂を売り払ってやる!」 「やっ、やめてくれ! 金はなんとかするから……、それだけは、やめてくれ……」 大きく目を見開いて、喉を絞るように哀願する福住に、鬼嫁は小馬鹿にするように訊ねた。 「ふんっ! どうやって?」 「ちょ、ちょっと、待っててくれ」 そう言い残して、福住は急いで厨房の作業台に置き放っしにしていた「チャーハン風ねこまんま」と新しいレンゲを手にして戻って来ると、目を輝かせて、幸の目の前に差し出した。 「これ、食べてみてくれ」 「なっ、何? これ?」 顔を顰める幸に、尚も福住は一揆を起こした百姓が訴状を、その土地を治める代官に託すように、頭を下げて「チャーハン風ねこまんま」とレンゲを高く差し出した。 「たっ、頼む! 一口でいいんだ、食べてみてくれ。決して、毒は入っていない!」 幸は「ふっ……」と、軽い吐息を漏らしながら、そこまで言うならと「チャーハン風ねこまんま」とレンゲを受取り、一口食べてみた。 (んっ。なんて香ばしいの……。具材の刻み方も、それぞれの食感が残っていい感じに仕上がっている……) 「どっ、どうだった? なかなか、いけるだろう?」 必死になって味の具合を訊く福住など目に映っていないように、幸は口をモグモグ動かしながら、改めて食堂の中を見回していた。 (へぇー。古ぼけているけど、ちゃんと掃除が行届いている。家では、掃除なんか一度もしたことがない人が……) 最初は頭に血がのぼって気が付かなかった幸も、きっちと整理整頓されている厨房の調理器具や、きれいに拭き上げられたカウンター席とテーブル席を感心して眺めていた。 「おっ、気付きおったか? ミィーちゃん、こりゃ、ひょっとすると、良い芽が吹くかもしれんぞ」 片膝を立てて、アゴヒゲを撫でながら、ニンマリとする福の神に、ミィーちゃんは首を傾げて「神様、一体なに言ってんですか?」とでも言いだけに「ミャ?」と短く鳴いた。 「――と、言う手順で作ったのが『チャーハン風ねこまんま』なんだ。実に手早く、香ばしくできる。どのねこまんまも、そうなんだが――」 熱くねこまんまを語る福住なんぞ、最初っから居ないように無視し続ける幸は、そっとカウンターに「チャーハン風ねこまんま」を置いて、カウンター席に固定された丸イスに腰掛けた。 福住は額に汗を滲ませ、熱く語り続けていた。魂の叫びとも言えるその語り口は、舞台俳優にも引けを取らぬほど熱を帯びていた。 「――そもそも、その歴史は古く――」 「でっ、どうしたいの?」 「えっ! 今なんと?」 「だから、どうしたいかてっ、聞いてんの」 スラリとした足を組み、片肘着いて、カウンターを指でトントン叩くきながら、幸はきつい眼差しを福住に浴びせていた。 話の腰をボッキリ折られた福住は思わず、「やらかした?」と、自問自答した。 「早く答えなさいよ。さっきから熱苦しく話してる『ねこまんま』で、どうしたいのよ」 福住は改めて、幸に向き直すと、ゴクリと生唾を飲み込んだ。 「ねこまんまで、やり直したいんだ。ここで、ねこまんま専門の食堂を開いて、やり直したいんだ」 これを聞いた途端、幸は大きな瞳をさらに大きくして「ぷっ!」と、吹き出すと腹を抱えてコロコロ笑い出した。 なぜ、幸がそんなに笑うのか分からないまま、しばらくの間、福住は間の抜けた顔を晒していた。 ようやく笑いが収まった幸は、目尻を指で拭った。 「あ――っ、可笑しかった。久しぶりにお腹の底から笑えたわ。でっ、あんた、それ本気で言ってんの?」 「ほっ、本気だ」 「もし、本気なら、あんた、救いようのない、バカだわ!」 「うっ……」 「でも、そこまで言うなら、こうしましょうよ」 幸はそう言うと、丸イスから腰を上げ、福住に背を向けた。 「あんたの言う、そのねこまんまとやらで、この食堂を切り盛りしてみなさいよ。そうね……」 幸は背を向けたまま少し考え込むと、突然、踵を返してきた。 「今、三月の半ばだから、四月にオープンさせるとしても、準備期間として二週間ほどあるわね。うんっ、うんっ」 福住とは決して目を合さず、幸は腕を組んでアゴに手を当て頷きながら、一人で何かを思い描いていた。 だが、福住にしてみれば、自分の都合も聞かず勝手に事を進める幸に、妙な不安を覚えるだけだった。 「おっ、おい、なに勝手にオープンの日取りを決め……」 「聞きなさい」 「はいっ……」 冷静かつ、冷徹に、福住を抑えた幸は続けた。 「今から四月一日のオープンまでの半月を準備期間とするの。でっ、四月からの三ヶ月間の売上が、これから私が言う目標金額をクリアーすれば、売却の話はなし。もし、博樹がパパに会いたいてっ言うなら、会わせてあげてもいいわよ」 これ聞いた途端、福住は顔をパッと明るくしたが、 「でも、クリアーできなければ、ここの権利書、渡してもらうわよ」 この一言で、ぼんやりと無気力な顔になった。 「そうね、目標金額は――」 まるで猫が狩った獲物を弄ぶように、幸は楽しんでいた。 「目標金額は、月一〇万円の養育費三ヵ月分、プラス遅延分の二〇万、計五〇万で、どう?」 「ほうっ、五〇とは、なかなか良心的な金額じゃな。ワシなら、一〇〇は吹っ掛けるがな」 奥の部屋では、福の神はニヤニヤしながら二人の様子を眺めていたが、傍らにいるミィーちゃんはどこか不安げに見守っていた。 端から見れば、なんとも「みみっちい話」ではあるが、今の福住にとっては途方もない金額だった。 (どっ、どうする……。俺にできるのか……。しかし、手放したくない! おじいちゃんとおばあちゃんの想いが詰った、この食堂は!) 福住は迷いに迷った。食堂を切り盛りしたこがない福住にとって、それほど「五〇」という数字は、遥か彼方にある想像もつかないものだった。 例えるなら、「太平洋を、手漕ぎボートで横断しろ!」と言われているくらい想像できないものであった。 福住は改めて、幸に訊いた。 「……ごっ、五〇?」 「そっ、五〇」 「マジで?」 「マジで」 「ガチで?」 「ガチで」 「どうあっても?」 「どうあっても」 「何が何でも?」 「何が何でも」 「あのーっ、少し……」 「まかりません。ビタ一文、まかりません」 ダメ男の生態を知り尽くしている彼女は、福住の機先を制した。 腕を組み目を閉じて天を仰ぐ福住に、幸は容赦なく畳み掛けた。 「さあ、どうすの! この勝負、乗るの、乗らないの!」 仮に、今この勝負から逃げたとしても、離婚され、裁判を起こされたあげく、食堂は召し上げられる。 かっと言って、やったことのない食堂の、しかも「ねこまんま専門」の食堂の切り盛りなど、どうなることか知れたものではない。 奥の部屋では、片膝を立てた福の神がニヤ付きながら、(さあ、奴め、どう出る? クックックックッ……)と、笑い声を押し殺して眺め、傍らにいたミィーちゃんの不安は、より一層掻き立てられた。 天を仰いでいた福住は、目を閉じたまま顔を元に戻した。 もはや、己の進退は極まわった。座して死を待つなら、この食堂を枕に討って出る! カッ!と、目を見開いて福住は言い切った。 「乗った! その勝負、乗った!」 「ほうっ、乗りおった!」 相好を崩して声を上げる福の神とは対照的に、ミィーちゃんは(あーあっ……)と、肩を落として俯いてしまった。 「ふんっ!」と、鼻で笑った幸は、上から目線で言い放った。 「よかった。また、逃げ出すんじゃないかって思ってたけど。離婚して裁判を起こす手間が省けて、よかったわ」 「しっ、勝負は下駄を履くまで判らないぞ……」 「あっ、そっ。後で返信用の封筒と一緒に誓約書送るから、ちゃんと、署名・捺印して送り返してね。じゃ、これで」 ダメ男の精一杯の強がりなど、歯牙にも掛けず、テキパキと物事を処理する。そんな、どこまでも「デキる女」。それが福住 幸であった。 用件を済ませた幸が厨房の勝手口から外へ出るために、奥の部屋の前を横切ぎると、そこには、すっかりしょげてしまったミィーちゃんの姿があった。 「あっ、ミィーちゃん! こんな所にいたの? 博樹がとても心配してたわよ。パパに付いてって、大丈夫なのかって。さあ、一緒に帰りましょう」 先ほどまでの鬼っぷりとは、一八〇度変って、菩薩のような慈愛溢れる微笑みと共に両手を差し出すと、ミィーちゃんは低く身構え「フーーッ!」と、きつく唸ってこれを拒否。 思いも寄らないミィーちゃんの反応に、幸は目を白黒させたが、少し悲しそうに笑いながら、「じゃあ、このダメ男のこと、頼んだわよ」と、言い残し食堂を後にした。 ミィーちゃんのすぐ側で、このやり取りを見ていた福の神は、首を傾げて訊いた。 ちなみに、福の神の姿はミーちゃんと福住にしか見えない。 「おい、ミィーちゃん。本当にいいのか? あの鬼嫁について行った方が、幸せに暮らせるのではないのか?」 「ミャ……」 「それに、なぜそれほど落ち込むんじゃ? 『ねこまんま』は、お前も最初、あれほど勧めていたではないか?」 「ミャ……」 ミィーちゃんは心の中で、自分の身の上を静かに語り出した。 ―神様、私は幼い頃に、あのダメ主に助けていただいたのです。 人に捨てられた私は、当所なく街を彷徨っておりました。 子供でございましたから、とても心細く、それはもう風に吹かれる落ち葉のようでございました。 その内に雨も降り出し、私は逃れるように、ある団地の集会場の軒先で雨宿りしておりました。 しかし、その日も朝から水以外、碌な物も口にしていなかったせいか、腹は減るは、目はかすむは、身体も冷えて、とうとうその場でへたり込んだのでございます。 次第に薄れていく意識の中で私は、なぜこの世に生れてきたのだ。 なぜ誰も気付いてくれないのだ。 こんなにも辛く寂しい思いをするくらいならと、私は生きることを投げ出しておりました……。 そんな私を、あのダメ主は救ってくれたのです。 家に私を引取ると、やれ身体を温めろ、やれ餌の用意だ、やれ病院だと、それはもう可笑しいくらい一生懸命、看てくださいました。 その甲斐あって、なんとか私は生き長らえ、すくすくと育てていただきました。 私も主がダメなことは、重々承知しております。 ですが、例え身勝手極まりない痴れ者であっても、主は主! あの方がいるからこそ、今の私があるのです― 「今でも恩義に感じておるのじゃな」 福の神は苦笑いを浮かべながら、そう訊くとミィーちゃんはグイッとアゴを引いた。 「お前のような忠義者が側にいて、奴は果報者じゃな。しかし、あやつにもそんな仏心あったとはな。少し驚いたわい」 突っ立ったまま、「チャーハン風ねこまんま」をしきりに頷きながら頬張る福住に目を移した福の神は、もう一つの疑問をミィーちゃんに投げ掛けた。 「そんなに不安なのか? 『ねこまんま』では?」 「ミャ……」 ミィーちゃんは目を伏せがちに鳴いた。 福の神はしばらくその様子をジッと見詰ていたが、やがて「ふむっ、ふむっ」と、相槌を打ちながらミィーちゃんの心の声に耳を傾け始めた。 「なになに、確かに、『ねこまんま』という選択は悪くない。だが、あまりも準備期間が短すぎる。果して、ちゃんと他人様の口に入るものができるのか」 福の神はミィーちゃんの心を、なぞるように声にした。 「なるほど、確かに言われてみれば、そうじゃな。だが、安心せい」 「ミャ?」 「福の神である、ワシが付いとる!」 「ミャ!」 胸を大きく反って、ドンと来い!とばかりに、その胸を力強く叩く福の神の姿に、思わずミィーちゃんは歓喜の鳴き声を上げていた。 そんな神様と猫が心を通わせている頃、「チャーハン風ねこまんま」の後片付けを済ませ、ジャンバーを羽織った福住がその前を横切った。 「どこに行くんじゃ?」と、声を掛ける福の神に「バイトです」と、素っ気なく答えた福住が急に足を止めて、部屋の奥を食い入るように見入っていた。 ほんの少しの間、目を凝らしていた福住は、やがて頭を小さく振り出した。 「んっ、ないな、あれはない。やはり、人の口に入れるものだしな」 そう自分を納得させた福住は、厨房の勝手口から足早にバイトに向った。 「あやつ、なに見とったんじゃ?」 怪訝に思った福の神とミィーちゃんが、振り返ったその先には、タンスの脇で鎮座する特売の猫缶の山があった。 「……まさか、奴め、あれを使う気じゃたのか? 『ねこまんま』と『猫缶』、ひょっとしたら猫絡みで使えるかもと?」 「ミャ……」 「ミィーちゃん、さっきは大口叩いたが、ワシャなんか自信がなくなってきた……」 「ミ……」 突拍子もない福住の思い付きに色を失い、茫然と猫缶の山を見続ける福の神とミィーちゃんであった。 二日後、「果たし状」と言う名の誓約書が、福住の元に送り付けられた。
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