あけぼの食堂の最寄駅は、歩いて一〇分ほど先にあった。 その改札を出たところに福住 幸は仁王立ちでいた。 腰に手を当て、霞み掛かった春の空を睨みながら、掃き捨てるように呟いた。 「たくっ、あの人、また逃げたんじゃ……」 幸は怒っていた。養育費の支払が滞っていることはもちろん、家から叩き出されて以来、ダメ男から何の連絡もないことに、怒りが沸騰していた。 (少しぐらい、やる気を見せなさいよ! 「これ足りないけど、使ってくれ」とか、「足りない分は、必ず払うから、もう少し待ってくれ」とか、言ってくれば、こっちは考えなくもないのに! それをあのバカ!) 駅のすぐ正面にあるアーケードが架かった商店街を歩きながら、そう思う度に、彼女の目は徐々に吊り上がり、口はへの字に曲がっていった。 思い返せば返すほど、腹立たしい! あのダメ男のために、何で自分がわざわざ出向かなければ、ならないのか。 本来なら、向うが頭を下げて、お金を持ってくるのが筋ではないのか! 大きな瞳が印象的な整った顔立ちに、じわりと怒りを滲ませると、整っている分、より凄みが増した。 学生時代にバスケットで鍛え上げた上背のある細身の身体は、子供を産んだとはいえ、体型は学生時代の頃と、さほど変ることはなかった。 頭に血がのぼった幸は、本人も知らぬ間に歩幅も大きくなり、肩を怒らせて闊歩するその姿に、すれ違う人々は誰もが息を飲み、小さくなってそれぞれ道を開けた。 小さな子供の手を引くお母さんなどは、「見ちゃ、ダメ……」と、目を伏せがちに小声で注意するほど。 商店主達は「こっ、こわ……」、「……やっ、殺られる……」、「なんか今、物凄いのが通っていったぞ」と、互いに目を瞠らせて口々に言い合った。 不用意に近づこうもなら、その場でバッサリ切り捨てる! そんな危険なオーラをまといながら、幸は突き進んだ。 後に彼女を目にした商店街の人達は、「まるで、これから戦場(いくさば)に向う鬼武者のようでした」と、皆口を揃えてそう証言した。 周囲を威圧するほどの怒気を撒き散らしながら、幸は一路、本陣「あけぼの食堂」を目指した。
この頃のダメ男・福住は「ねこまんま作り」に打ち込んでいた。 例えば、「おかかねこまんま」に白菜の漬物を乗せて、味の素を掛けたり、「みそ汁ねこまんま」に大根おろしを加えて、七味を振り掛けるなど、とにかく様々な食材と調味料を試していた。 その度に、思いも寄らない味に化ける「ねこまんま」に驚き、そして楽しんでいた。 (本当だ。神様の言う通り、乗せる材料や調味料を変えるだけで、こんなにも変るなんて……。しかも、あまり金も掛けずに手早く作れて美味い。ある意味、「ねこまんま」は地上最強の調理法なのかもしれない) 次第に熱を帯びる福住の「ねこまんま研究」に、顔を綻ばせる福の神は、傍らにいるミィ―ちゃんを優しく撫でていた。 「最初はあれほど嫌がったのに、変れば、変るもんじゃな、ミィーちゃん」 「ミャ!」と、短く鳴くミィーちゃんも、主の姿を嬉しそうに見ていた。 「今まで、なに一つ本腰を入れて取組むこともなく、逃げ回っとた奴が、追い詰められた末とはいえ、ああやって何かに打ち込む姿は、なかなかいいもんじゃ」 「ミャ!」 「それに、近頃の飯炊きやみそ汁作り、それに包丁さばきも、少しづつ形になってきている。やはり、『一に掃除、二に信心』じゃな」 「ミャ!」 あの日から福住は、まず掃除から始めることを心掛けるようになった。やらなければ、唸りを上げて飛んでくるあの釣竿があるとはいえ、終わった後の爽快感は格別で、不思議に落ち着きとやる気を福住に与えてくれた。 そんな、今まで味わったことのない充実した日々を送っていた福住の元に、凶事はすぐそこまで迫っていた。 その日も、掃除を終えた福住は、気合いを入れて新たな「ねこまんま」に挑戦していた。 まず、瓶詰めザーサイにチャーシュウ、なるとを適量用意し、粗みじん切りした。 トッ、トッ、トッ、トッ、トッ まだまだ、まな板の上で軽快な音を立てることはできなかったが、福の神の言う通り、少しづつ形になってきている。 平皿に盛られた、あったかご飯に粗みじんした具材を乗せ、菜箸で和える。最後に塩、胡椒、それに胡麻油を、それぞれ少々振り掛けて味を調えた。 平皿を手した福住は、鼻を突く芳しい胡麻油の香に頬を緩ませた。 (炒めていないのに、こんなにも香ばしいなんて、『チャーハン風ねこまんま』てっ、感じかな) ニヤつきながら厨房の作業台に置くと、福住は丸椅子に腰を降ろして「いただきます」と、手を合わせた。 レンゲですくった「チャーハン風ねこまんま」を口に運んでパクリと。 (んっ、やっぱり粗みじんだな。これ以上細かくすると、ザーサイやチャーシュウ、なるとが味わえなくなる。それに、もう少し胡麻油を利かせてもいいかな) 目を閉じて一噛み、一噛み、吟味するように「チャーハン風ねこまんま」を、福住は深く堪能した。 傍らでは、福の神は目を細めてその様子を眺め、ミィーちゃんも喉を鳴らして上機嫌。 そんなまったりとした、彼らにとって至福の一時を、いきなり凶事がぶち壊した。 ガンッ! ガガガガガッ! ガンッ! 「あなた! そこに居るんでしょう! さっさと開けなさいよ!」 外では、閉まって二〇年近くも経つサビが浮いたシャッターを、鬼武者と化した幸が、親の仇と言わんばかりに乱暴に叩きながら、怒鳴り散らしていた。 ガンッ! ガガガガガッ! ガンッ! 「おいっ! 開けろ! 開けろってんだろう!」 あまりのけたたましさに、食堂の前を行き交う人々は一瞬足を止めるが、尋常ならざる鬼武者・幸の後姿が目に入ると、慌ててその場から姿を消した。 あけぼの食堂の前から約半径二メートルは、如何なる者の侵入も拒む、見えない強靭なシールドが張り巡らされ、その中で鬼が猛り狂っていた。 そんな一種異様な光景を、得意先への配達を終えた青果店・店主 財部 重治(たからべ しげはる)がツバの付いた帽子を上げて軽トラから眉を寄せて見詰ていた。 (何があったのか知らないが、そんな乱暴に叩くもんじゃないよ……)と困り顔の財部に、食堂の近所で駄菓子屋を営んでいる老女の小禄 千永(おろく ちえ)が小走りで手を振りながら、顔を顰めて声を掛けた。 「財部さん! なんとかしてよ、あの女! 子供たちが恐がってさ、中には泣き出す子もいるんだよ!」 「えっ、そうなのか」と少し驚きながら、ここの町会長も務める財部は軽トラから降りると、六〇代相応に貫禄が付いた大きな腹から帆前掛けを外し、運転席に投げ入れた。 「子供が泣き出すんじゃ、しょうがないな。ちょっと行ってくるよ」 「頼んだよ!」 威勢良く声を上げる小禄とは、対照的に財部は、被っていた帽子のツバで禿げ上がった頭の横を掻きながら少し気が重くなっていた。 (そう言ったものの、何か嫌な予感がする……。あれだけ、怒るんだから、それなりの訳があるんだろうなあ……) 怒り狂う幸に近づくにつれ、財部の足取りは重たくなっていた。 初めは気のせいかと思っていた財部も、一歩、また一歩と、進むにつれ、足の運びが鈍くなり、ようやく声を掛けられる所に着く頃には、足を引き摺っていた。 しかし、声が掛けられない、と言うより、声が出なかった。 ガンッ! ガガガガガッ! ガンッ! 「さっさと開けんかい! 中に居るんは分かってんじゃ! クソボケ――ッ!!」 財部の目の前では、鬼武者が情け容赦なく錆びれたシャッターを激しく打ち据えていた。 (ダッ、ダメだ……。とても、声なんて掛けれない。掛けたら、ただじゃ済まない!) 鬼武者の凄まじい圧に気圧された財部は、ゆっくりと白くなった顔を小禄に向けたが、彼女は小さな拳を顔の前に突き立てて、「さあっ、行け!」とばかりに鼻息を荒げていた。 まさに財部にとっては「前門の虎、後門の狼」状態。 改めて前を向き直して「ふんっ!」と、腹に力を入れた財部は、意を決して声を掛けた。 「あっ、あの――っ」 「あんっ!!」 凶暴な返事と共に鬼武者が振り向く。 血走った目をこれでもかと言わんばかりに剥き、人とは思えぬほど異様に吊上がった口元からは、湯気のような白いものがユラリと上っているようにも見えた。 「うっ! カッ、カタギじゃない……」と、顔を強張らせて低く唸った財部は身体を反らせて後退り、「ヒィ!」と、小さな悲鳴を上げた小禄は軽トラの横でへたり込むと、目をつむって震えながら拝んでいた。 「堪忍して! もう邪魔はしませんから、祟らないでおくれ!」 どうやら、小禄の目には鬼武者ではなく、荒神(あらがみ)のように映ったようだ。 鬼武者と化した幸が一睨みで二人を退けていた頃、食堂の中では、福住がレンゲを手にしたまま、あっちへウロウロ、こっちへウロウロと、檻の中の熊のように狭い厨房の中をうろつき回っていた。 「どうしよう……、どうしよう……」 まるで熱にうなされる病人のようにうわ言を繰り返し、狼狽しっ放しの福住を、作業台の上から福の神とミィーちゃんがテニスの観戦客のように目で追っていた。 「おい、うるさくて敵わん。すぐに入れてやれ」 福の神が眉を寄せて促したが、虚ろな目をした福住の耳には届かなかった。 相変わらずレンゲを手にしたまま、右に左にウロウロ。 「チッ! 情けない……」 そう吐き捨てると同時に、福の神の容赦のない一撃が福住の頬を張った。 シュ! ビシッ! 「痛っ!」 「お前この非常時になんちゅうことしてさらすねん!」とでも言いたげに福住は、張られた頬に手を当てて口を尖らるせと、福の神はアゴで指図しながら語気を強めて返した。 「シャッターが壊される前に、さっさと迎えに行ってやれ!」 一瞬、福住は何を言われているのか理解できず、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。 「ひょっとして……、私が、ですか……?」 「お前以外に誰がおる。まさか、ミィーちゃんに行かせる気か? あんな危なっかしい所に」 「いやいやいやいやいやいやいやいや、それはない! それだけは断じてない!」 福住は激しく頭を振り、レンゲを持った手を前に出して全力で拒否した。 前にも述べたが、ダメ男は往生際が悪い。見苦しいほどに悪い。 ガンッ! ガガガガガッ! ガンッ! 外からは相変わらず、怒号と共に凄まじい打撃音が店内に鳴り響いていた。 両手で耳を抑えながら、福の神は少し声を張り上げた。 「まあ確かに、お前でなくても、さすがにあれは引く。じゃが、痛い目に会うことはあっても、殴り殺されることはない」 「えーーっ! 痛い目に会うのは、この私なんですよ! 嫌です!」 福住も声を張り上げて、これに応戦。 「黙れ! 元はと言えば、お前のダメさ加減のせいで、こうなったんじゃろう。さっさっと責任取ってこい! それにしても、あーーっ、うるさい!」 ガンッ! ガガガガガッ! ガンッ! 「いやっ、しかし……」 尚も躊躇う福住に例の釣竿の先がピッ!と向けられた。 「嫌なら、これじゃ」 (ゲッ! 出た! 力業の象徴、釣竿!) 福住もまた、財部のように「前門の虎、後門の狼」状態に陥った。 目を閉じ観念した福住は、足に重い鉄球を鎖で繋がれた囚人のように、肩を落として「前門の虎」に向った。
「フーーッ、フーーッ」 一頻りシャッターを激しく打ち付けた幸は、肩で大きく息をしていた。 (そう、そっちがその気ならい、いいわ。今度は蹴破ってでも、中に入ってやる!) 幸は胸の裡でそう雄叫びを上げると、息を整えながらシャッターから少し離れ、腰に手を当てて仁王立ちした。 仁王立ちする鬼武者の雰囲気が一層険しくなると、恐れをなした財部は慌てて軽トラのそばでへたり込んでいる小禄に駆け寄った。 「大丈夫かい、小禄さん?」と、財部が差し出す手に小禄は縋るように掴んだ。 「私は大丈夫。でも、食堂はどうなるんだい、財部さん?」 片膝を着いて、財部は顔を小さく左右に振った。 「わからない。ただ、何か良からぬ事が起きそうな気がする……」 財部はそう言うと、落城寸前の「あけぼの食堂」を今にも泣き出しそうな目で見詰ていた。 その落城寸前の「あけぼの食堂」の脇にある路地から、おっかなびっくりに腰を屈めた福住は幸の様子を窺っていた。 (うあ……。怒ると見境がなくなるというか、怒り方に一層磨きが掛かったんじゃないか? やっぱり、来るんじゃなかった……) 幸は胸を反らせて大きく息を吸い込むと、腹に力を入れて静かに右足を上げ始めた。 (……? 何やってんだ、あいつ……。あっ! まっ、まさか!) 何かに追い立てられるように、思わず福住は腰を上げて路地から飛び出した。 「止めてくれーーーーっ!」 悲痛な叫びと共に、サビの浮いたシャッターの前で両手を大きく広げた次の瞬間、幸の強烈な蹴りが福住の腹にめり込んだ。 ズボシュ! 「グェ……」 カエルが轢き潰されるような奇妙な唸り声を上げて、福住は腹を抱えたままその場にうずくまると、そのまま身動きが取れなくなってしまった。 「ふん! やっと、出てきたわね。相変わらず、ドジね!」 足を元に戻した幸が、見下した目で顔色一つ変えずに吐き捨てるように言うと、軽トラの脇で怯えていた二人は「あっ! いつの間に帰ってたんだ!」と、ダメ男の帰還に目をしばたたせた。
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