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作品名:ねこまんま食堂 作者:真柴 文明

第6回   六.初めての『ねこまんま』 其の参
 火に掛けていた鍋の水が沸き立ち始めると、福住は火を止め、削り節を一掴みして、その中に入れた。
 福住の頭の上でフワリと優雅に浮かぶ福の神は、鍋を様子を見ながら差配していた。
「一、二分ほどそのままにしておくんじゃ。その間にザルと新しいボール、それにキッチンペーパーを用意しておけ」
 福住が手早く、それらを用意し終わると、福の神が的確な指示を飛ばした。
「ボールにザルを置いて、その上にキッチンペーパーを敷け。そこに削り節が入った鍋を引っくり返して、濾すんじゃ」
 福の神の指示通りに、福住は慎重に鍋を返して濾し始めると、湯気と共に、何と言えない芳しい香が立ち込めた。
「決して絞るなよ。『えぐみ』出るからな。濾したら、そのまま一分ほど待つんじゃ」
 その香に誘われたのか、福の神の大音に驚いて奥の部屋に逃げ込んでいたミィーちゃんも、いつの間にかカウンターに腰を下していた。
 対面にある厨房の作業台に無造作に置かれた口の開いた削り節の袋が気になるのか、ミィ―ちゃんはソワソワと落ち着きがなかった。
「もういいじゃろう。ザルを取ってみろ」
 福の神の言われるままに、ザルを取った福住の目に映ったのは、濁りのない上品な琥珀色の液体だった。
(うっ、美しい……。それに、なんて豊な香なんだ!)
「それが『かつお一番出汁』じゃ。吸い物やみそ汁、茶碗蒸しなど、つゆ物によく合う」
 福の神は芳醇な香を楽しみながら、頭の上から福住にみそ汁に入れる具の下ごしらえに取り掛かるように命じた。
「豆腐はさいの目に切り、長ねぎは小口切りにして、乾燥ワカメは水で戻し、水気を切っておけ」
「…………? さいの目? 小口切り? かろうじて、ワカメの下準備だけは理解できました」
 目をしばたたかせて答える福住の目の前に降りて来た福の神は、口をへの字に曲げて「包丁も握ったことがないのか?」と訊くと、福住は「はぁ……」と申し訳なさそうに答えて目を伏せた。
「たくっ……。スマホ持っとるか? 持っとるなら、それで調べろ」
「えっ! スマホ知ってるんですか?」
「そんなくだらんことに気を取られるな! さっさっと調べろ!」
 怒鳴られた福住は慌てて、奥の部屋に置いているスマホを取りに向かった。
 そんな福住の後姿を見ながら、福の神が眉を寄せて呟いた。
「福の神、なめんな……」

 スマホ片手に、ものの十分ほどで意気揚揚と、厨房に戻って来た福住を、作業台から福の神が怪訝そうに眺めていた。
「おいっ。なにやら、余裕こいとるようじゃが、ちゃんと理解したのか?」
「はいっ! ユーチューブで『さいの目切り』と『小口切り』を、それぞれ三回見ましたから」
 自信満々にそう答える福住に、今度は福の神が目をしばたたかせた。
(こやつ、見ただけで、やれると思っておるのか? どこから、そんな自信が出てくるんじゃ? 人生舐めとるな)
 基本、ダメ男は人生を舐め切っている。何の根拠も無く、なんとかなると思っている。そして、自分に甘い。
 福の神の懸念などよそに、福住は長ねぎを手に取ると、まな板の上で刻み始めた。
 トン……、トン……、トン……。
(あれ? おかしいな。もう少し早かったような気がするし、こんなに厚かったけ? まあ、いっか。初めてだし)
 調理場でよく耳にする「トットットットットットッ!」と、リズミカルに刻む音とは、似ても似つかない鈍臭い単調な音に加えて、出来上がったねぎの小口切りは、厚みが不揃いで、中には厚さが一センチを越えるものもあった。
 福住が刻み終わると、ねぎはまな板から平皿に移された。
 その無残に刻まれた哀れなねぎの姿を見た途端、福の神は色を失った。
(むっ、惨い……。惨過ぎる……。豆腐がこうなる前に、なんとか奴を止めねば!)
 豆腐救出の思いに駆られた福の神は、止めるように言い渡そうと福住に目をやったが、
「おいっ! や……」
 福の神が慌てて声を掛けた時には、すでに包丁の第一刀が入っており、「豆腐救出作戦」は不発に終わった。
 平皿に盛られた具材を見た福の神は呆れ返っていた。
 平皿の上には、厚みの揃わない「小口切り」のようなねぎと、歪な形をした「さいの目切り」のような豆腐、それに水気を切ったワカメがあった。
「よくもまあ、これほど不細工に刻めたものじゃ。ある意味、すごい。誰にも真似できん」
「いやーっ、それほどでも」と、照れ臭そうに頭を掻く福住に、
「誰も褒めとらんわ!」と、福の神は一喝した。
「しかし、具材は具材。無残に刻まれたこやつらのためにも、しっかりとみそ汁を作るぞ! さっきの出汁を鍋に移して火に掛けろ!」
 福住は真剣な面持ちで、出汁を鍋に移し火に掛けると、次に福の神は、その中に変わり果てた姿になった豆腐、それにワカメを入れるように命じた。
 出汁が煮立ち始めると、福の神はフワリと音も無く、再び宙に浮いて、福住の肩に腰を降ろした。
「ずっと、浮いておるのも、疲れるからな。しばし、肩を貸せ」
「わかりました……」
 そう短く答えた福住は神様でも疲れることがあるんだなと、妙に得心した。
 しばらく鍋の様子を見ていた福の神は、火を止めるように言った。
「うむっ、具に火が通ったようじゃな。煮立ちが沈まったら、味噌を溶き入れろ」
「溶き入れる?」
 あーっ、そうだった。こいつが何も知らんことを忘れとった……と、片手で目を覆った福の神は、気を取り直して丁寧に説明した。
「お玉で味噌をすくって、鍋の出汁にそっと漬けて、菜箸でよく混ぜるんじゃ」
 慣れない手付きで、福住が何とか味噌を溶き入れるのを見届けた福の神が、肩口から一際声を低くした。
「いいか、ここが肝じゃ。溶き入れたら、煮立たせないように、小さく火を入れる。そして、煮えばな――」
「煮えばな?」
「つまり、沸騰する直前の『フツッ』となった時にねぎを加えて、火を止める……。あーーっ、面倒臭い!」
 あまりに手間の掛かる福住に、福の神が軽くキレと、首を竦めながら福住は再び火を入れ、肩口の福の神と共に「煮えばな」を待った。
「よし! 今じゃ!」
 ここしかないという絶妙のタイミングで号令を出す福の神に、福住は間髪入れずにねぎを加えて火を止めた。
 炊き上がったごはんとは、また一味違った柔らかな湯気が豊潤な香を伴って、福住と福の神の鼻をくすぐる。
 カウンターにいたミィーちゃんも、鼻をヒクヒクさせて今にも作業台に飛び移ろうと腰を少し浮かせていた。
「うむっ、良い香じゃ。これで具材が不細工でなければ、言うことなしなんだがのお」
 苦笑を浮かべながら福の神は、福住にみそ汁を勧めた。
「ほれ、お玉ですくって飲んでみろ」
福住は手にしたお椀にみそ汁を注ぎ作業台に置くと、喉をゴクリと鳴らして見詰た。
(俺が初めて作ったみそ汁……。美味そうだけど、ネギと豆腐、もっとちゃんと刻んでやればよかった……)
 申し訳なさそうに、お椀に浮かぶ不揃いなネギと歪な豆腐をジッと見詰る福住に、「おい、冷めては不味くなる。さっさと一口飲め」と、福の神は急かした。
「いただきます」と、静かに手を合わせ、みそ汁を少し口にした福住の眼が大きく見開いた。
(なっ! なんだこの角の取れた円やかさ! インスタントや家で作ったものとは、まるで違う! それに、なんか懐かしい……)
「そうじゃろう。出汁から作ると、まったくの別物になる。どれ、ワシも一口」
 福住の肩口で腰を降ろしていた福の神は、あぐらを掻いたままフワフワと宙に浮かぶと、お椀の真上でピタリと止まり、釣をするように竿を下ろしたが、みそ汁には届いていなかった。
 福の神は下ろした竿を、手首だけで軽くヒョイと引き上げた。
 ヒュ! ポワン〜〜〜〜ッ
 なんともゆるい音を立てて、極小の丸いみそ汁の玉がシャボン玉のようにフワリ、フワリと宙を漂い、福の神の鼻先で止まると、パクリとそれを口にした。
「んっ、まだ少しばかり雑味があるが、まあ上々じゃ。それと、お前、さっき懐かしいと思ったろう」
 福の神が繰出す神業に見入っていた福住は、目を見開いたまま大きく頷いた。
「それはな、お前の舌が、爺さんの味を覚えていたということじゃ」
 この言葉に、福住は食堂を忙しく切り盛りしながらも、自分の食事を、いつもちゃんと用意してくれていた亡き祖父母の姿を思い出していた。
―そう言えば、必ず、温かいみそ汁が付いていたな。
 どんなに忙しくても、俺が帰ってきたら、笑顔でごはんを出してくれた。
 おばあちゃんはいつも「たくさん、お食べ」て、優しく言ってくれてたな。
 おじいちゃんも「どうだ。美味いか?」て、嬉しそうだったな。
 飯を炊くのも、みそ汁を作るのも、こんなに手間が掛かるのに、そんなこと一言も言わずに、ただ、俺のために作ってくれた―
 しんみりとした空気が厨房に流れると、お椀の上で浮いていた福の神が静かに作業台に降りて来た。
「まあ、爺さんと婆さんもそうじゃが、お前のために毎日、毎日、飯の用意してくれていた者が、もう一人おるだろう」
 福の神に言われた福住は、「はっ!」とある人物の顔が頭によぎった。
 それは、福住を家から叩き出した嫁の「幸」だった。
 幸は看護士として、この地域の医療の中核を担う総合病院に勤めている。
 しっかり者で、面倒見のいい彼女は、患者はもちろん、同僚の看護士たちや医師からの信頼も篤く、いわゆる「デキる女」であった。
 その「デキる女」が、なぜ福住のような「ダメ男」と結婚してしまったのか、周囲は首を捻るばかりだった。
 しかし、幸は周囲の目など気にせず、仕事に家事に懸命に取組んだ。ダメ男が職を転々としても、文句一つ口にせず、明るく優しく接した。福住にとっては、まさに女神のような存在だった。
 長男が生れて、育児という負担が加わっても、嫌な顔一つ見せることなく、幸は愛する家族のために、一日、一日をしっかりと生きていた。
 そんな嫁の姿を思い返しているうちに、福住はすっかりしょげ返ってしまった。
―あいつもそうだった……。
 目が回るほど、忙しくても、どんなにクタクタになっても、飯の用意はしてくれた。
 たまに手抜きもあったけど、それでも作ってくれた。
 でも、俺はそれを当り前のように、ただ食っていた……―
 首を垂れる福住を見ていた福の神が、慰めるように声を掛けた。
「やってくれることを当り前だと思っていたら、それだけ幸せというものは、遠のいて行くものじゃ」
 福の神の言葉に、福住は胸が締め付けられる思いがした。
 いくら悔やんでも、悔やみ切れない。日々の暮らしの中で、当り前のようにあることに、どれだけの手間と想いが込められていたのか、思い返せば返すほど、福住の胸は苦しくなった。
「おい、先にも言ったが、後悔はするな。それに、みそ汁が冷める」
 福の神に促されて、福住は親指で目尻を拭いながら、まだ湯気の立つみそ汁を半分ほどすすると、今度はその中に、あったかごはんを入れた。
 ごはんを入れたお椀を前に、福住は背筋を伸ばし、改めて「いただきます」と手を合わせ、「みそ汁ねこまんま」を一気に掻き込んだ。
 はふっ、はふっ、ズッ、ズッズッーー。
 はふっ、はふっ、ズッ、ズッズッーー。
「ふ――っ」と、一息吐いた福住は、きれい平らげたお椀の上に箸を置き、「ごちそうさまでした」と、静かに手を合わせた。
「美味かった?」
 目を細めながら、福の神は訊いた。
「はい、美味かったです。それに人間、どんなに辛くて悲しい思いをしても、腹は減るし、美味いものは美味いんですね」
 そう話す福住の声は、どこか吹っ切れたように少し軽くなっていた。
 確かに、この貧相で小汚い神様の言う通り、やらかしてしまったことを今さらどうすることもできない。だったら、それを自ら胸に刻み、今この時を愚直に生きていこう。
「おい、貧相で小汚いは余計じゃ」
 人の心の声が聞える福の神は口を尖らせたが、目はどこか嬉しそうだった。
「ふん! まあ、よい。さっさと後を片付けたら、他にどんな『ねこまんま』があるのか、スマホで調べておけ」
 福の神の助言を、福住が「はい」と返事するのと同時に、「パッサ」と、何かが倒れる軽い音がした。
 音のする方へ、福の神と福住が目をやると、「あっ……」と一緒に間抜けな声を上げた。
 彼らの目の先には、開きっ放しの削り節の袋に頭を突っ込んで、尻尾を高く上げながら、盛大に喰い散らかすミィ―ちゃんの後姿があった。


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