「おい、いつまでそうしておるんじゃ。そろそろ炊き上がるぞ」 白目を剥いて固まっている福住は、その声で我に帰った。 (はっ! 今俺は何をしてたんだっけ……? 確か、米を炊き上げている間、おじいちゃんとおばあちゃんの……?) 先ほどの大音声のせいで、福住の頭から大切なことがスッポリと抜け落ちていた。 さすが、ダメ男である。ダメ男は大切なことを、簡単に忘れたり、よく聞き逃したりする。 そのうちに「ピー、ピー」と、炊飯器が炊き上がった合図を鳴らしたが、手繰り寄せるように何かを必死に思い出そうとする福住の耳には届かなかった。 その姿を見て福の神は声を荒げた。 「おい! 炊き上がったぞ!」 「あっ! はっ、はい!」 慌てて椅子から腰を上げ、何も考えずに炊はん器の蓋に手を掛ける福住のその手に向って、釣竿が小さく唸った。 ヒュン! ピッシ! 「痛っ!」 打たれた手の甲を擦りながら、「何をするんだ!」と言わんばかりに、福住は振り返って福の神を睨み付けた。 「米を炊き上げたら、一旦そのまま十五分ほど蓋を開けずに蒸らしておけ」 福住の針を刺すような視線を、福の神はまったく気にすることなく、「蒸らし」の重要性を語った。 「この蒸らしが、飯をふっくらと仕上げるんじゃ。炊き上がった米に充分蒸気を吸いこませ、 余分な水分が釜の中に残らないようするには、釜の中を火を止めた時の高温状態にしておくことが望ましい。だから、蒸らすんじゃ」 「だったら、その竿で叩く前に、そのことをちゃんと説明してくださいよ! 自分は褒められて、伸びるタイプなんです!」 飯一つ炊くだけで、なぜこんな仕打ちを受けなければならいのか。納得できない福住は口を尖らせた。 が、福の神は「ふんっ」と鼻で笑った。 「褒めて、その程度なら褒めん方がマシじゃ。いやっ、むしろ真逆のことをした方がいいのかもしれんのお」 釣竿をヒュン!と、軽く振りながら、ニヤリと口元が上がる福の神の目は笑っていなかった。 「お前がヘマをやらかす度に、こいつを使って身体に覚え込ませるのも、一つの手じゃな」 (こいつは鬼だ! 神様の皮を被った鬼だ!) 背中に冷たいものが走るのを感じながら、福住はそう思った。 「鬼でも神でも、どっちでもいい。蒸らしが終わったら、仕上げの『ほぐし』をやるぞ。しゃもじを水に漬けて用意しておけ」 相変わらず、福住の気持などお構いなしに指示を出す福の神に、福住は半ば諦め顔になって、言われるままにボールに水を張った。 そして、その中に木のしゃもじを入れた途端、不意にある言葉を思い出した。 それは福の神の大音声で、ダメ男の頭の中からスッポリと抜け落ちていた大切な言葉であった。 福住は少し躊躇いながら、福の神に訊いた。 「あっ、あのーっ。『足るを知る』て、仏教の教えなんですよね? どうして仏教なんですか?」 これを聞いたら、「おいおい、そこじゃないでしょ」と、誰でも突っ込みたくなるような間の抜けた質問である。 このように、ダメ男はどこかズレている。が、本人はまったく自覚していない。 福の神は顔色一つ変えず「まだ、そんなことを言っておるのか」と、取り合う素振りすら見せなかった。 「ちゃんと教えてくださいよ。なぜ、神様なのに仏教の教えを語るんですか? 古事記や日本書紀なら、まだ分かりますし、納得もできます。しかし、よりによって、なぜ仏教なんですか? どうして、仏の教えなんですか!」 「あ――っ、うるさい!」と、福の神は叫ぶと同時に、釣竿の先端をピッ!と鋭く福住に振り向けた。 「なにを偉そうに吠えとる。お前ら、己を省みることはないのか? クリスマスだと言っては、年の瀬に騒ぎ立て、年が明ければ、神社に行ってはアレコレと頼む。そして、弔いには、坊主にお経を上げてもらう。節操が無いにも程がある!」 「うっ……」 「じゃが、その節操の無さのおかげで、宗教や宗派の違いで血生臭いことも、あまり起こらんかった。それは、それで良いことなんじゃろう」 そう言うと、福の神は薄っすら笑って、向けていた釣竿を肩に戻し、客席側の掛け時計に目をやった。 「もういい頃合じゃ。蓋を開けて、『ほぐし』に入るぞ」 「どうやるんですか?」と、訊く福住に「ワシの言う通りにやればいい」と、福の神は促した。 福住は水に漬けておいたしゃもじを片手に炊はん器の蓋を開けると、モワッと柔らかな白い湯気が立ち上った。 湯気が上り切ったその後には、米の一粒、一粒が見事に炊き上がり、キラキラと輝く真っ白なごはんが、その姿を現した。 (俺が炊いたごはん……。なんて綺麗なんだ……) 初めて自分で炊いたごはんを、感慨深げに見詰ている福住の頭の上から福の神の声がした。 「うむっ。上手く炊き上がったようじゃな。さあ、『ほぐす』ぞ」 またもフワフワと福住の頭の上で浮かびながら、福の神はしゃもじで釜の周囲に沿って、釜とごはんを切り離すように指示した。 次にごはんを十字に切り、ごはんを引っくり返しながらザックリとほぐすように言った。 「そうじゃ、ザックリとな。飯粒を潰さぬようにやるのがコツじゃ。こうやると、空気に触れた飯粒の周りに膜ができ、艶と弾力が増す」 二升のごはんをほぐし終わった福住の額には薄っすらと汗が滲んでいた。 「ふーっ」と、額の汗を拭う福住に「試しに食ってみるか」と福の神が炊き上がったばかりのごはんを勧めた。 「えっ! いいんですか。今朝から、あんパンと牛乳しか食べていなかっんたんで」 「お前、碌なもん食っとらんな。それでは腹に力が入らん。しゃもじで少しすくって食ってみろ」 「では、お言葉に甘えて」と、福住が湯気の立つホッカ、ホッカのごはんをしゃもじですいくい、それを手に取っり「ふーっふーっ」と息を掛けて冷ます。 いい頃合で口に入れて噛んだ途端、モッチリとした何とも言えない弾力がした。さらに噛む度に、旨味とほのかな甘みが口の中に広がる。 (うっ、美味い……) 「どうじゃ、炊き立ては最高じゃろう」 目を閉じて、炊き上がったばかりのごはんを深く味じわう福住を、宙に浮かびながら、満足げに福の神は眺めていた。 「削り節はあるか?」 口をモグモグさせる福住が、ゴックンとごはんを飲み込んだ。 「出汁用ならあります」 「それで十分じゃ。茶碗にはんをよそおって、削り節をたっぷり掛けろ。ケチるなよ」 福住は言われた通り、茶碗に熱っ熱っのごはんを盛り、少し大き目の出汁用に買った削り節の袋を開けると、その中に無造作に手を突っ込んだ。 突っ込んだ手が、クレーンゲームのアームよろしく、ガシッ!と掴んで袋から引き上げると、手には溢れんばかりの削り節があった。 手に余るほどの削り節を、惜しげもなく湯気の立つ白米にそっと乗せると、途端に削り節たちが踊り出す。 「へーっ」と目を丸くして、その踊りを見ている福住の前に福の神が静かに降りて来た。 「醤油は一度に掛け過ぎず、味見しながら、少しづつ掛け足すんじゃ。いいか、アホみたいに掛け過ぎるな」 「はいっ」と頷いた福住は、米や味噌と一緒に買っておいた醤油を慎重に数滴垂らし終えると、茶碗を持って勢いよく大きく開けた口に掻き込もうとした。 シュッ! ピッ!と、鋭い音を立てて、例の釣竿の先がカバのように大口を開けた福住に向けられてた。 「おい、『いただきます』は? それに、味見しながら少しづつ足せと言っであろう。お前の顔の左右に付いてるそれは、ただの飾りか?」 竿で耳を指しながら、顔を顰めて低く唸るように言う福の神に、「……すいません」と頭を下げた福住は茶碗と箸を元に戻してから、改めて手を合わせた。 「いただきまーすっ!」 今度は掻き込むようなヘマはしない。削り節で和えたごはんを、少し口に運んだ。 (うっ! ほんのり醤油が絡んだ鰹の風味が堪らん! それに、このモッチリとした米の弾力! 最高の組合せだ!) 噛めば噛むほど、米のほのかな甘みが出て、ほんの少し醤油が絡んだ削り節を引き立てる。何とも言えない絶妙な味に、箸が止まらない。 瞬く間に完食した福住は、茶碗と箸を置いて、「ごちそうさまでした」と静かに手を合わせてお辞儀した。 「ほぉ、ワシに言われる前にやるとは、少しは分かってきたようじゃな」 「はぁ」と少し照れながら、口直しに五〇〇mlペットボトルの水を飲んでいる福住に、「どうじゃ、美味かっただろう」と福の神が目を細めながら訊いた。 「はいっ、とても美味かったです。削り節とほんの僅かな醤油だけで、あんなにも味わい深いものになるなんて、信じられません」 「そうじゃろう。これが基本形の一つ『おかかねこまんま』じゃ。お前も分かっているだろが、作り方は至って簡単」 「確かに、削り節を乗せて、醤油を少し垂らすだけですから」 興奮気味に答える福住を見て、福の神は釘を刺した。 「じゃが、簡単だからと言って、舐めて掛かると痛い目に遭うぞ。簡単なものほど、手を抜くと、すぐに分かってしまうからな」 「はい、肝に銘じます」 素直に返事をする福住を満足げに見ながら、福の神は威勢よく言い渡した。 「さあ、もう一つの基本形『みそ汁ねこまんま』のみそ汁を作るぞ!」 「はい!」と力強く答えた福住は、その用意に取り掛かろうとしたが、腰を上げた途端、ピッタとその動きが止まってしまった。 こわごわ福の神に目をやった福住は、縋り付くように訊いた。 「あの――っ、何から始めればいいんでしょうか……?」 「とりあえず……、鍋に水を張って沸かせ……」 福の神は目を閉じて、溜息混じりにそう答えた。
|
|