三月も半ばを迎えると、対岸の大きな桜の蕾もほころびだし、食堂の周りにも、次第に春らしい空気が漂い始めていた。 昨日の朝と同様、福住はテーブル席にいた。 (福の神の言う通り、掃除は毎日やるもんだな……) そうしみじみ思いながら、掃除の行届いた店内を満足げに眺めていた。 古ぼけてはいるが、どこか懐かしい柔らかな雰囲気に包まれた店内のカウンターには、昨日の掃除道具一式とは違い、今日は五キロの米袋と出汁用の削り節と味噌、豆腐、乾燥わかめ、長ねぎ、それに塩、醤油などの調味料とキッチンペーパーが置かれていた。 「おいっ、米と味噌の用意はできておるのか?」 例のしわ枯れた声のする方に振り返ると、店舗のすぐ奥にある住居の八畳間に、ミィ―ちゃんの背に跨った福の神がいた。 慌てて席を立った福住は、カウンターに置かれた米と味噌一式を指差した。 「ちゃんと買って、あそこに用意してあります」 「うむっ、そうか。ふむふむ。言い付け通り、掃除も手を抜かずに、できてるようじゃな」 (やってなきゃ、あのムチのような釣竿でしばかれるからな……) 変な緊張感に晒される福住をよそに、福の神はミィ―ちゃんに乗りながら悠然と店内を回って、掃除具合をチェックしていた。 一通り、掃除具合をチェックし終えた福の神が「ご苦労さん」とミィ―ちゃんに声を掛けると、今度はフワフワと宙に浮き始めると、 そのまま米袋の置いてあるカウンターに、音も立てずに降りた。 福の神を送り届けたミィーちゃんは、テーブル席のパイプ椅子にヒョイと飛び乗ると、そこで毛づくろいを始めた。 カウンターで用意された食材を眺めながら福の神は改めて訊いた。 「では、米の炊き方だが、お前本当にやったことがないのか? ここは食堂だったんだぞ」 「はい! まったくやったことがありません!」 悪びれることもなく元気良く返事をする福住に、呆れる福の神は五キロの米袋を持って厨房に入るよう促した。 あけぼの食堂では、二升用の業務用ガス炊はん器を使っていた。 福住が炊飯器から黒々と使い込まれた釜を取り出すと、 「よし、まず米の量り方だが、米一合は約一五〇グラム、一升は十合じゃから約一・五キログラムになる。憶えておけ」 「はい! えーっと、書くものはと……」 メモを取ろうと辺りを探す福住の頭の上に、釣竿が容赦なく飛んで来た。 ヒュン! ビシッ! 「痛っ! なっ、何するんですか! せっかくメモを取ろうとしてんのに!」 「そんなもの要るか! 胸に刻め!」 「…………」 目を剥いて怒鳴る福の神に、福住は沈黙するしかなった。 「この程度のことで、いちいちメモなど取るな。時間の無駄じゃ!さっさっと、そこの計量カップで二升ほど量れ!」 いきなり出鼻を挫かれて「はい……」と元気なく答える福住は、米袋を開けて二升の米、約三キログラムを量り、それを炊はん器の釜の移した。 「次に洗米じゃ。近頃の精米技術は向上しておるから『米を研ぐ』というよりは『米を洗う』という感じでやればよい。まずは水を多めに入れて軽く洗うんじゃ」 言われた通りに福住は、釜に多めの水を入れ、無造作にその中に手を入れた。 「冷たっ!」 慌てて手を引いて、フーフーと温かな息を吹き掛ける福住向って、福の神が平然と言った。 「春とはいえ、まだ三月。水がまだ冷たいのは当り前だが、米を炊くには好都合じゃ」 「えっ? そうなんですか?」 「昔から『米は冷たい水で炊くと美味くなる』と言ってな、冷たい水でじっくりと炊き上げると、甘みが増す」 福住は深呼吸すると、改めて掻き混ぜるように米を洗い、「うんっ!」と気合いを入れれて、米と水でさらに重くなった釜を抱えてすぐに水を捨てた。 「うん、そうじゃ。糠臭い水が米に染み込んでは台無しじゃ。あとは三、四回水を取り替えながら洗えばいい」 なんとか、二升の米を洗い終えた福住が、額に滲む汗を拭きながら訊いた。 「水が透明になるまで洗わなくていいんですか?」 「少し濁っているくらいが丁度いい。あとザル上げはやるな」 「ザル上げ?」 「ザル上げを必要とするのは、大量に米を研ぐ必要がある店や、土鍋を使うために水加減を正確に量りたい場合とか、とにかく使い所が限られている。普通の家庭はもちろん、こんな小さな食堂には必要ない」 「へぇーっ」と感心する福住に、福の神は「お前、『ザル上げ』も知らんのか?」と訊くと、「今、初めて聞きました……」と、頭を掻きながら福住はバツが悪そうに答えた。 「ふっ、まぁよい。次は水加減じゃ。米の重さの一・二倍の水を加えてやる。まぁ今回は二升だから、三六〇〇ミリリットルぐらいでいいじゃろう」 初めての洗米に滲む汗を拭きながら、福住が一〇〇〇ミリリットルの計量カップで量った水を釜に入れると、福の神は次の指示を出した。 「しばらくそのまま、浸漬しておけ」 「『しんせき』? 何でいきなり親戚が出てくるんですか?」 「アホか、米を水に浸すことだ。冬場なら一時間から二時間、夏場なら三十分から一時間ほど水に漬けてるんじゃ。今は春先じゃから、そうじゃな、四十五分といったところかな」 「えっ! そんなに漬けるんですか?」 「水に浸しておくと、米の芯までたっぷりと水が行渡る。水を含んだ米は炊き増えし、ふっくらとした炊き上がりになるんじゃ」 米など、まともに炊いたこともない福住は、目を白黒させていた。 「さっき言った水加減にしても、米の重さの一・二倍はあくまでも一つの目安じゃ。米の種類や古米・新米で微妙に違う。まあ、ここら辺りは身体で覚えるんじゃな」 「米一つ炊くにも、とても手間が掛かるんですね……」 福住が水に浸した米を感心しながら見詰めて言うと、福の神は遠い目をしていた。 「そうじゃな、お前の爺さんと婆さんは、こういうことを文句一つ言わずに毎日、淡々とやっとがな」 福住は申し訳なさそうに、頭を掻いて「はあ……」と目を伏せた。 そんな福住の姿を、福の神は横目でチラリと見た。 「米を炊くまで少し時間があるから、お前の知らない爺さんと婆さんの姿を教えてやろう」 「えっ? おじいちゃんとおばあちゃんのことですか? 俺のしらない?」 「そうじゃ、二人の生き方と言ってもいい」 福の神はさらに遠くを見るような目付きになると、静かに話し始めた。 「二人の生き方の基本は、『知足』じゃった」 「『ちそく』? なんですか、それ?」 「お前、本当にものを知らんな。仏教の教えの一つでな、『知足』とは、『足るを知る』ということじゃ」 目を大きく見開き、呆れ顔で福住を見ていた福の神は、「ふっ」と、鼻から小さな吐息を漏らすと、改めて二人のことを語り出した。 福住の祖父・幸造は、若き日に赤坂にある名の通った料亭で研鑚を積み、そこの板長にまで上り詰めた。 しかし、客の顔が見えない板場で作る料理に、言葉では表せない違和感も持ち続けていた。 確かに女将さんや仲居さん達が「とても、喜んでらっしゃいましたよ」と、笑顔で空になった器を返しに来るが、それを見るたびに幸造の侘しさは募るばかりだった。 時折、客間に呼ばれて「板長、今日は楽しませて貰いましたよ」と、お大尽から笑顔で声を掛けられるが、(俺が見たい笑顔じゃねぇ……)と、心を曇らせた。 ある日、幸造は妻・寿賀子に「客の喜ぶ顔を見ながら、料理が作りたい。それも小じゃれた店じゃなく、誰でも気軽に出入できる大衆食堂がやりたい」と、今まで胸の中でモヤモヤと溜まっていたものを明かした。 寿賀子はこれを快く承知し、「子供も独り立ちしたし、残りの人生あんたの好きなようにやれば」と、夫の背中を押した。 そして、幸造と寿賀子は、とある下町の、対岸に大きな桜の木が見える場所に「あけぼの食堂」出した。 食堂の切り盛りは、一流料亭のそれとはまるで違っていた。 料亭にいた頃は旬の高級食材が当り前のように手に入ったが、市井の大衆食堂では、そうはいかない。 初めは戸惑っていた幸造も次第に慣れてくるようになると、大衆食堂の親父の身の丈に合った食材に、一手間加えた料理を作るようになった。 無いなら、無いで構わない。手に入らないものを無闇に求めて心を尖らせることもなく、手に入ったものに感謝し、それに己が今まで培った技量と経験を注ぎ込む。 ありきたりの品ばかりではあったが、そうした想いで出された料理に客は「んっ!」と、唸って美味そうに頬張った。 幸造は、そんな客の姿に目を細め、寿賀子もそんな夫を頼もしく感じていた。 二人の暮らしは決して裕福なものではなかったが、「もっと、もっと」と悪戯に求めて苦悩を背負い込むようなことはしなかった。 目の前にある日々の暮らしをありのままに受け入れ、「これで十分」と感謝する。まさに「足るを知る」を地で行くように、心穏やかに食堂を営んでいた。 「それが、二人の暮らしの根だった」 そう言うと、福の神は遠くを見る目のまま話を終えた。 ―知らなかった……。 おじいちゃんとおばあちゃんがそんな想いで、食堂をやっていたなんて、知らなかった。少しも……。 小さい頃から毎日顔を合わしていたのに、どうして気付かなかったんだ……。 俺は一体、何を見ていたんだ……― 初めて聞かされる亡き祖父母の姿。福住は自分の鈍感さに嫌気がさしていた。 そんな主の気持ち知ってか知らでか、毛づくろいを終えたミィーちゃんは、パイプ椅子でまったりと箱座りしていた。 少し重くなった空気を察したのか、福の神は軽い口調で話し掛けた。 「しかし、なんだな、これだけ立派な心構えで日々送っていても、いざ、身内のこと、孫のこととなると、つい甘やかしてしまう。人とは分からんもんじゃな」 「…………」 福の神に話し掛けられても、返事ができないほど、福住は落ち込んだままになっていた。 「おい、今さら、どうこうできる話しではないだろう。それより、米もたっぷりと水を含んだようじゃし、炊き上げろ」 「はい……」と、力なく答えた福住は俯いたまま、米と水で満たされた重い釜を炊はん器にセットし、スイッチを入れた。 炊飯器のスイッチを入れて戻って来た福住は、福の神がいるステンレス製の作業台の横にあった丸椅子に腰を降ろした。 背中を丸めて暗い目付きで炊飯器をジッと見詰ている福住に、傍らにいた福の神が眉を寄せていた。 「おい、いい加減にしろよ」 思わず福住は福の神に目を移した。 「反省はいい。今をより良く生きていきためには、必要なことじゃ。しかし、後悔はいかん。過去への執着に繋がる。すると、前に進めなくなる」 「でも、なぜ、もっと早く気付けなかったんだと思うと……」 福住は暗く沈んだ目のまま福の神を見ていた。 「過ぎたことなど、どうすることもできん。じゃが、今お前は己のアホさ加減に、ほんの少しだけ気が付いた。だったら、それを今に活かせ」 「今に活かす……?」 「そうじゃ。今まで自分のことだけしか考えなかったお前が、少しは爺さんと婆さんのことを考えるようになった。これを徐々に周りに広げていけばいい」 今まで「何かに感謝する」などとは、真逆の生き方をしかしてこなかったダメ男・福住は自信なさげに足元に目を落とした。 「俺なんかにできるでしょうか……」 「あのな、さっきは変えようもない過去にしがみ付くことの愚かさ言ったが、未来についても同じじゃ。先案じして、未来に思いを馳せて、あれこれ不安がっても仕方がなかろう」 この言葉に、うな垂れていた福住が顔を上げた。 「極端な例えだが、朝起きて飯を済ませて、仕事に出た途端、車に撥ねられて死ぬこともある。要は、本当に来るかどうかもわからない先のことを考えたところで、正解など見つかるはずもない」 そう言って、福の神は一息入れると、福住を見据えて吠えた。 「だからこそ、今をしっかりと生き切る! これの積み重ねが、明日を作っていくんじゃ!」 (今を生き切る……) この言葉を、福住は神妙な面持ちで何度も心の裡で繰り返していた。 ―今まで自分のことだけに執われ、腰の落着かない人生を送ってきた。 そんな自分に、果してできるのだろうか。 もし、できたなら、自分は変れるかもしれない。 いやっ、変りたい! でも……― 様々な思いを福住が頭の中で巡らしている内に、上げていた顔が 再び足元に戻った。 良いにしろ、悪いにしろ、福の神は人の心の声が聞える。 「あ――っ、面倒臭い奴だな!」 側の作業台にいた福の神が、また吠えた。 「えっ!」と、驚いて顔を上げた福住の鼻先に、例の釣竿がピッ!と突き付けられていた。 「いいか、今お前は嫁から愛想を尽かされ、家を叩き出された上に、養育費を迫られている。できなければ、この食堂を売れとまで言われている」 目の前の変えようもない現実に「うっ……」と、福住が言葉に詰まると、福の神は遠慮なしに畳掛けた。 「今のお前に、この状況を変えるほどの力があるのか?」 「…………」 「また、『養育費は待ってあげるわよ』なんて、向うが勝手に変ってくれることがあるのか?」 この問い掛けに、福住はちょっと嫁の顔を想像したが、すぐに頭を振って目を伏せてしまった。 「いえっ、ありません……。二〇〇パーーッ! ありません……」 「だったら、お前が変るしかなかろう――――っ!!」 わずか身の丈一〇センチほどの身体から、拡声器並みの大声が店中に響き渡ると、パイプ椅子でまったりとしていたミィーちゃんは驚いて奥の部屋に逃げ込み、福住は丸椅子に腰を掛けたまま魂が抜けたように固まった。
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