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作品名:ねこまんま食堂 作者:真柴 文明

第3回   三.一に掃除、二に信心
 翌日の朝九時、福住は福の神の命令で買ってきた掃除道具一式と共にあけぼの食堂の客席側にいた。
 食堂の店内は、出入口から左手に八人ほど腰掛けられる逆L字のカウンター席と、右手に四人掛けのテーブル席が四つほど並んだ、小ぢんまりとした作りになっている。
 シャッターが閉じられた店内を、時代を感じさせる電灯がぼんやりと照らしていた。
 そんな店の中で福住はチープなパイプ椅子に掛けてテーブルに片肘付きながら、カウンターに置いてある掃除道具一式と、それを物珍しそうに嗅いでいるミィーちゃんの姿をぼんやり眺めていた。
(なんで、福の神の口車に乗ってしまったのだろう……)
 なぜ、福住がこう胸の裡でほやくのか。それは昨日の福の神との出会いにさかのぼる。

 福住を散々やり込めた後、福の神はちゃぶ台の上から、息子の養育費を捻出するために、あることを勧めた。
「お前、この食堂を再開させる気はないか?」
「えっ?」
「調理道具も一通り揃っておるし、冷蔵庫などの設備も手入れすれば十分使える。何より、家賃を払う必要がない」
「むっ、無理です。調理師免許はもちろん、料理の経験もほぼゼロですから」
 福住は両手を前に出し、頭を振って思いっきり拒んだ。
 食堂を営んでいた祖父母の孫にも関わらず、もっぱら食うだけのダメ男である福住にとって、料理は自分で作るものではなかった。
「飲食業をやるのに、別に調理師免許は必要ない。食品衛生責任者になればいいだけじゃ」
「食品衛生責任者?」
 調理師免許を持っていなくても、飲食店は開ける。
 また、調理師免許を持っている料理人を雇う必要もない。特別な資格がなくても、仕事として調理をすることはできる。
 しかし、必ず必要となるのが、福の神の言った「食品衛生責任者」である。
「食品衛生責任者」とは、食品衛生上の管理運営に当ることを職務とし、飲食店を営業する場合には、必ず店に一人置かなければならない。
 また、飲食店の開業時には、保険所に「食品衛生責任者」の届出が必要になる。「食品衛生責任者」になるには、各都道府県で実施している講習会を受けるなければならない。受講料は一万円程度で、講習期間は通常一日である。
「どうじゃ。そう難しい話ではないだろう」
 福の神はそう言って、アゴヒゲを撫でた。
「でも例え、食品衛生責任者のなったとしても、肝心の料理はどうするんですか? さっきも言いましたが。俺、こう見えても作ったことありませんから」
 福住はどこか偉そうにキッパリと言ったが、ただ単に面倒なことから逃げたいだけだった。
 人間誰しも、やったことのないことや、よく知らないことには尻込みするものだが、ダメ男の場合、なんのかんのと言って、見苦しいまでに逃れようとする。
 そんな福住を気にも留めずに、福の神は続けた。
「大丈夫じゃ。お前のようなへタレでも作れるものがある」
「えっ? そんな都合のいいものが、あるんですか?」
「ああっ、ある」
「なんですか、それは! ぜひ、教えてください!」
 先ほどまでの及び腰とは打って変わって、福住は福の神の言葉に飛びついた。
 ダメ男は常に損得勘定で動く。この節操の無さによって、自分に有利だと分かると、すぐに手の平を返す。
「うむっ。それは、『ねこまんま』じゃ!」
 福住は自分の耳を疑った。そして、固まった。
(ねっ、ねこまんまてっ……。貧相な神様らしい提案だが……)
 満を持して言い放った福の神は、この心の声を聞いてムッとした。
「貧相な神様らしい提案だと。お前、ねこまんま馬鹿にしとるじゃろう」
―ねこまんま―
 一昔前なら、とても料理と呼ぶには憚られる、別名「ぶっかけはん」のことである。
 しかし、その登場は古く、戦国時代にまで遡る。
 関東を治めていた時の戦国大名・北条氏康は、嫡男である氏政が飯に汁を二回掛けるのを見て「飯に掛ける汁の量すら、わからないとは、北条氏もこれまでか」と吐息を漏らして嘆いたという逸話が残っているぐらい古い。
 福の神はそんなことも知らない福住を、小馬鹿にするような目で見ていた。
「お前、今のねこまんまを知らんから、そんな風に思うんじゃ」
「えっ?」
「いいか、元々、手軽で簡単に誰にでもできる上に、ちょっとした工夫一つで、無限の広がる品数の楽しさも味わえる。こんな料理、そうはないぞ」
 福の神の言う通り、今やねこまんまは、料理の一つのジャンルとして確立してる。
 ネットでは、レシピサイトが一項目として掲載し、多くの人が利用している上に、削り節派・味噌汁派の対立が話題になっているとか。
 だが、福住には想像できなかった。ダメ男の頭の中には、残り物やみそ汁をぶっかけた貧相なイメージしかなかった。
「でも、所詮、ねこまんまでしょ。そんなもんで食堂を開くなんて、無茶です」
「根性も技量もないお前にでも、できる料理じゃ。それにできるものが他にあるのか?」
「うっ……」
 何も言い返せない自分が情けなくなった福住は、そのまま黙り込んでしまった。
「ドイツの詩人、ゲーテはこう言っている。『見解が違う主張や、よく知らない意見に対して、自分のイメージする鋳型にはめ込んで、劣悪なものする悪習は、誰しも陥りがちな罠である』と」
 唐突に現れたゲーテの名言に目をしばたたせる福住に、福の神はこう付け加えた。
「要は、余計な思い込みを捨てて、ありのまま受け入れろということじゃ」
「しかし、ねこまんまだけの食堂なんて、やはり、無茶というか、無謀というか……」
「では、聞くが、どうやって嫁に迫られている息子の養育費を用立てるんじゃ? 他に何か手立てがあるのか?」
 往生際の悪いダメ男に福の神は問いただしたが、今の福住には、この食堂以外に何もなかった。
 強いてあるといえば、嫁に家から追い出されたときに、付いて来てくれた福々しい白猫のミィーちゃん一匹だけだった。
 煮え切らない主の姿を見ていたミィーちゃんもちゃぶ台に上り、福の神の隣に腰を降ろして「ミャーン!」と鳴いた。
「ほれ、ミィーちゃんも勧めているぞ」
 情けない主に付いて来てくれた心優しいミィーちゃんの姿を見ている内に、福住は改めてこれまでのことを思い返していた。
 自業自得とはいえ、腰の落着かない生き方に、嫁からは愛想を尽かされ、家からも叩き出された。今や、幼馴染が店長を勤めているスーパーのバイトで細々と食い繋ぐ日々。
(もう、落ちる所まで落ちたんだ。後は上がるだけだ……)
 そう開き直った福住は居住まいを正すと、畳に両手を着いて福の神を見詰た。
「飯の炊き方一つ知りませんが、よろしくおねが致します!」
「えっ! そこからなのか?」
 畳に額を着けて教えを乞う福住に呆れながらも、福の神は満足そうに頬を緩めた。
「まぁいい。謙虚に教えを乞うことは、いいことじゃ。では、掃除から始めるから、明日の朝までに掃除道具一式買って待っておけ」
「はいっ、わかりました。掃除から……?」
 顔を上げて聞き返す福住の額には、またも畳の跡が付いていた。

 そして今、朝から福住は買ってきた掃除道具一式と共に福の神を待っていた。
(確かに、おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなってから、ちゃんと掃除もしていなかったな……)
 福住はお盆と暮れ、そして春・秋のお彼岸には、テキトーに墓参りを済ませた後、食堂に立ち寄り、仏壇とその周りもテキトーに掃除をしていた。つまり、手を抜いていたということである。
「待たせたな。ちゃんと買ってきたか?」
 その声に福住が振り返ると、軍手をはめて、顔の半分を覆った大きなマスクを付けた福の神が竿を片手に奥の部屋で立っていた。
(なんか、違和感がある。軍手とマスクもそうだが、なぜ、今日も鯛を持っていないんだ?)
「お前、鯛にこだわるなぁーっ。あんなもの、ただの象徴じゃ。実用性はない。だから神棚に置いてきた」
「えっ? 実用性がないからって、え――っ!」
あんたがそれを言うのかい! それ言っちゃダメでしょう! その象徴あってこその恵比寿天じゃないのか! その鯛を抱える姿にこそ、人々はありがたみを感じるんでしょう! 第一に、あんた自身が象徴でしょうが!
 と、福住は次々に心の中で突込み倒した。
 しかし、「それを言っちゃ、お終いよ」的なことを口にしても、平然としている福の神を見て、福住は日本全国いる恵比寿天信者たちのためにも、聞かなかったことにした。
「何ブツブツ言っとる。早くせんと、日が暮れるぞ」
「早くせんと、と言っても厨房と客席に、あとトイレぐらいでしょ」
「馬鹿なのか。そんなこと当り前じゃ。ワシが言っとるのは、店舗部分も含めた、この家全体の掃除ことだ。それも徹底的にな!」
「えっ? 俺一人で全部やるんですか! 無理! 無理! 無理です! 神様は手伝ってくれないんですか!」
 目を剥いて猛反発する福住に、福の神は顔色一つ変えず手にしていた釣竿を下から上へと、軽く振り抜くと、
シュ! ビシッ!
「あがっ!」
 見事に福住のアゴを打ち抜いた。
「神様に掃除を手伝わせるとは、不謹慎にも程がある!」
 打ち抜かれたアゴに手をやりながら、福住は泪目で訴えた。
「じゃ、なんで軍手をはめて、マスクを付けてんるんですか!」
「んっ? それは掃除をすれば、当然ホコリぽくなる。だからマスクは必要じゃ。軍手は……」
 福の神はアゴヒゲを撫でながら、少し間を置いた。
「そじゃな、気分だ。雰囲気作りと言ってもいい。『これから掃除するぞーっ!』的な」
 神々しさなど微塵も感じられない物言いに色を失う福住を気にも留めずに、福の神は何か思い出したように一言付け加えた。
「あっ、そうそう。神棚は特に念入りにな」
 そう言うと、福の神は釣竿を振りかざしながら吠えた。
「それ、まずは便所からじゃ! 掛かれ!」
(マッ、マジで、全部やるのか! これじゃ、年末の大掃除と変らん! えらいことになってきた……)
 年末の大掃除など、いつも嫁任せにしてきた福住も、「ねこまんま」専門とはいえ、飲食店をやるのだから、清掃は必要だと思っていたが、せいぜい厨房とカウンター、客席にトイレぐらいで十分だと考えていた。
 しかし、何事に対しても手を抜こうとするダメ男の甘い考えを、福の神は粉砕した。
 福住はテーブル席の奥にある店舗用のトイレのドアを開けると、薄っすらと蓋にホコリが被った洋式便器があった。
 そんなことにはお構いなしに、福住は蓋と便座を上げてトイレ用の洗剤を便器に勢い良くぶちまけ、百均で買った新品のブラシで擦ろうとした。
 ヒュン! バシッ!
「痛っ!」
 頭を抱えて福住が目をつり上げて振り返ると、そこにはあぐらを掻いた福の神が宙にふわりと浮いていた。
(うっ、浮いている……?)
 顔を強張らせて大きく目を見開いている福住など、お構いなしに福の神が訊いた。
「お前、なぜしばかれたのか、分かるか?」
 福住にしても、いきなり目の前で浮かんでいる福の神に驚くのはもちろん、なぜ、自分が叩かれたのか、まったく分からなかった。
「物事には手順というものがある」
福の神は落着いた口振りでそう言うと、
「いきなり、便器を擦るやつがあるか。便器に洗剤を掛けたら、そのままにして、まずはドア・ノブを拭く」
 福の神に曰く、便所掃除にも、ちゃんと手順がある。
 予め、汚れても構わない布や雑巾を二・三枚と水の入ったバケツを用意しておく。代用品としてトイレシートでもよい。
 ドアノブとドアを拭き、そのまま床に移る。手前の床から奥へと拭き進み元に戻る。
 そして、よいよ便器本体の掃除へ移る。
 洗剤の付けている部分を丁寧にブラシで擦る。汚れがひどい所は、クレンザー系の洗剤を使えば、頑固な汚れも落しやすくなる。便器の中を掃除したら、外側を丁寧に拭いていく。最後に壁を拭いて掃除を終える。
 便所掃除一つ疎かにしない、そんな福の神の重厚な語りに、福住は神妙な顔付きで聞き入った。
「お前、今まで便所掃除一つまともにやったこともないんじゃろう。さぁ、言われた通り、さっさとやれ!」
 言われるままに、福住は百均で購入したトイレシートでドア・ノブとドアを拭き、ビザを着いて床に移った。
「心を込めて丁寧にな。んっ、そうじゃ」
 頭の上から福の神の声がする度に、福住の心はザワついた。
(少しでも手を抜いたら、必ずあの釣竿が飛んでくる……)
「その通りじゃ。手を抜くなよ」
「はっ、はい……」
 妙な緊張感の中で、なんとか便所掃除を終えた福住は、「ふーっ」と大きく息を吐いた。
「おっ、終わりました」
「どれどれ」
 フワフワと浮かびながら、掃除のチェックをする福の神の口元が緩んだ。
「んっ、初めてにしては上々じゃ。次は厨房じゃ」
「へっ? 少し休ませてください。便所掃除で腰や膝が悲鳴を上げてるんで」
 背が高く痩身の福住は腰に手を当てて伸ばしながら、苦笑いを浮かべて福の神に頼んだ。
「んっ? なんか言ったか」と、福の神は無表情なまま釣竿の先を福住に突き付けた。
「いえっ、なんでもありません……。すぐに取り掛かります……」
 福住は力なく答え、新品のバケツと布巾、それにゴミ用の大きなポリ袋を持って、トボトボと厨房に向った。
 厨房にあるグリルやシンクなどには、祖父母が亡くなった後、福住がホコリが被らないように白い大きな晒しを掛けていた。
 あまりホコリが立たないように、慎重に晒しを取ると、そこには二十年近くの月日が経ってるとはいえ、手入れが十分に行届いていた厨房機器がその姿を現した。
 それを福住は、まるでそこに在りし日の祖父母・幸造と寿賀子が居るかのようにジィと見詰ていた。
「お前の爺さんが毎日、心を込めて手入れしとったからな」
 振り返ると、あぐらを掻いて宙に浮いた福の神が、懐かしそうに語りながら福住のすぐ後にいた。
「さっきの便所もそうだが、お前の爺さんと婆さんが毎日、しっかりと掃除しとったから、あの程度の掃除でも見違えるようになる」
 そう言われた福住は、さっきの便所掃除を思い返していた。
(確かに、そんなにひどい黄ばみや黒ずみはなかったな。普通にホコリを拭いて、便器の中をブラシで擦るだけで済んだ……)
「まぁ、亡くなった爺さんと婆さんに感謝することだな」
 そう言うと、福の神は再び釣竿を振り上げて吠えた。
「頑固な油汚れや食べカスもないようじゃし、さっさと、ここも片付けてしまえ!」
 福住はバケツに水を張ると中に洗剤を注ぎ、真新しい布巾を浸けた。
 そして、固く絞った布巾で厨房の中にある機器と調理道具をすべて丁寧に拭き上げ、床も新品の箒で綺麗に掃き上げた。
 それを頭の上から、満足気に見ていた福の神は大きく頷いた。
「うむっ。やれば、できるではないか! その調子で今度は客席側じゃ!」
「はい!」
 勢い良く返事をした福住は、その勢いそのままにカウンターを拭き上げると、踵を返して獲物を狙うような目付きでテーブル席側の掃除に取り掛かった。
 福住はカウンターの真上の小さな壁に貼ってあるお品書きを、軽やかな手付きですべて引き剥がし、テーブル席側の壁に貼ってあったお品書きもすべて剥がした。
 薄っすらと変色したそれらをポリ袋へ投げ入れると、固く絞った別の布巾で天井から電灯、壁へスムーズに移りながら、手を抜くことなく丹念に拭き上げた。
 福住の無駄のない動きに、宙を舞う福の神は目を細めて、釣竿を振り回しながら、大いに煽った。
「おお……っ。見事、見事! さすがじゃ!」
 近くで主を見守っていたミィーちゃんは、宙に舞う福の神を目で追いながら、しきりに手を出そうとしている。
「ミャーーン!」
「んっ? ミィーちゃんか。後で遊んでやるから、今しばらく待ってくれ」
 そんな他愛もない神様と猫のやり取りなどそっち退けで、福住は四つテーブル席すべてを拭き上げ、床も隅々まで掃き上げた。
 そして、最後にテーブル席側の壁の上方にある台座に鎮座した小さな神棚を念入りに拭き上げた。
 店舗部の掃除を終えた福住の額には、薄っすらと汗が浮かんでいた。それを手で拭いだ福住は、コンビニで買った五〇〇mlペットボトルの水を一気に半分まで飲み干した。
(ふーっ。んっ、水って、こんなに美味かったけ?)
「どうじゃ。掃除の後の水は格別じゃろう。違うか?」
 相変わらず、宙に浮いたままの福の神がニヤニヤしながら近寄ってきたが、今の福住はそんなことなど気にすることもなく、グッとアゴを引いた。
「さあ、一息吐いたら残り半分! 住居部の掃除じゃ! 掛かれ!」
「はい!」
 掃除道具を手に、福住は勢い良く店舗奥の住居部へ向った。
(あれっ? 俺、なんか乗せられている……? まあっ、いいかっ。今いい感じできてるし……)
 ダメ男は調子に乗りやすい。そして、あまり深く物事を考えない。
 しかし、今回は福の神が、いい方に転がしたようである。
 いつの間にか、福住は時間が経つのも忘れて、一心不乱に住居部の掃除していた。風呂、トイレに台所はもちろん、八畳二間と六畳一間、そして、亡き祖父母を奉った仏壇と、脇目も振らずに掃除に集中した。
 すでに夕方の六時も過ぎ、外はすっかり日も落ち、夜の暗がりがすぐそこまで来ていた。
 店舗部のすぐ奥にある八畳間で、最後の一拭きを終えた福住は、額の汗を拭うと、つい先ほどまで掃除をしていた厨房や客席に眼をやった。
(なっ、なんだ、この清々しさは! 身体はクタクタなのに、気持が軽くなったというか、心が落着く……)
 二十年近くもの間、薄っすらホコリを被って眠っていた食堂は、かつての侘しさが消え、経年劣化は否めないが、どこか柔らかな空気に包まれていた。
 幼い頃から見慣れていた光景のはずなのに、つい見入ってしまう。
そんな今まで味わったことのない、妙な感動を憶える福住の元に、マスクと軍手を外した福の神がミィ―ちゃんの背に乗って現れた。
 その姿に、福住は目を疑った。
 ミィーちゃんはとても警戒心の強く、家族以外には容易に懐かない。そんなミィ―ちゃんを福の神は一日たらずで背に乗せるにまで手懐けていた。
(ふっ、福の神、恐るべし!)
 この心の叫びを耳にした福の神は、勝ち誇ったように福住を見上げた。
「ふふんっ。ワシとミィーちゃんは、もう仲良しじゃ」
福の神が鼻を鳴らしてそう言うと、手にしていた釣竿の先を福住にピッ!向けて言い放った。
「福の神、なめんな!」
 ミィ―ちゃんが福住の前で腰を降ろすと、福の神は後ろ向きで滑り台を滑るように、ミィ―ちゃんの背から滑り降りた。
 トン!と軽く音を立てて畳に着いた福の神は「ご苦労さん」と、相好を崩してミィ―ちゃんを優しく撫でた。
 福の神は改めて、掃除具合をチェックした。
「うむっ、ようやった。どうじゃ、掃除はいいじゃろう」
「あのーっ、さっきみたいに宙に浮かないんですか?」
 中に浮いたり、猫の背に乗ったりと、今まで見たこともない光景に福住は目を丸くしていた。
「ああっ、あれか。あれは、結構骨が折れるんでな、ミィーちゃんに乗せてもらった」
「…………」
「そんなことより、掃除をすると、スーッと心が和むじゃろう」
「ええっ、なんか気持が晴れるというか、軽くなりますね」
「お前は知らんじゃろうが、仏教には『一に掃除、二に信心』という教えがある」
「えっ? なんで神様が仏教の教えを知ってるんですか?」
「うるさい! 細かいことは気にするな! 黙って聞け!」
―仏の教えを語る福の神―
 この一風変わった組合せに、少し違和感を憶えながらも、福住はとりあえず耳を傾けることにした。
「まぁ、仏教と言えば、まず仏像を拝んだり、お経を唱えたりすることが頭に浮かぶが、この『一に掃除、二に信心』という教えは、それよりも『まずは掃除をして、身を清めることから始めなさい』と、教えておるんじゃ」
「身を清める?」
「そうじゃ、掃除というものは結構奥深いものでな、日々の暮らしの中で、色んなものにまみれて、重たくなってしまった心を軽くしてくれる」
「そっ、掃除が?」
 まさか、掃除にそんな効能があるとは、思いもしなかった福住に、福の神は静かに語った。
「心を軽くする、言い換えれば、鈍くなった感性を、今一度磨き上げて、真っ白にするということじゃ。そうすれば、今まで感じ得なかったことにも、素直に感じることができるようになる。掃除には、それくらいの力があるんじゃ」
 福の神はそう言いながら、釣竿で店舗部を指した。
「お前もさっき、この光景を見て感動していただろう。それだけ感性が鋭くなって、ありのままを素直に受けいることができるようになったんじゃ」
 福住は福の神の釣竿が指す店舗部見て、先ほど感じた妙な感動を思い返した。
(そう言えば、さっきなんか不思議な感じがしたな。何か呼び覚まされたみたいな……)
「掃除というのは、それくらい人の心の有り様を変える力があるんじゃ。美しいものに出会っても、心が重たいままなら、何も感じることができずに、見過ごしてしまうだろう」
「…………」
「だから、まず掃除をするんじゃ、毎日な」
「えっ! これ、毎日やるんですか!」
「そうじゃ。嫌なら、これじゃ」
 そう言うと、福の神はニヤリと口元を緩めながら、底意地の悪そうな目付きと共に、釣竿の先を福住にピッ!突き付けた。
(うわっ、出た! 最終兵器!)
 これまで散々、引っ叩かれてきたせいか、その竿を向けられると思わず、圧倒されてしまう福住であった。
「わっ、わかりました! 毎日やりますよ!」
 福住は半ばヤケグソ気味に返事をしたが、これも「掃除の効能」なのだろうか。福の神のある小さな変化に気付いた福住は、首を傾げていた。
(あれっ? なんか違う。少し小マシになったというか……?)
 よく見ると、福の神の薄汚れていた装束がほんの少しだけ元の色を取り戻し、ほころびが少なくなっている。風折烏帽子の崩れも、初めほど酷くはない。何より、顔色が明るくなった。
 そんな福住の視線が気になったのか、福の神は眉を寄せた。
「なに、ジロジロ見とるんじゃ」
「いやっ、気のせいか、服が少しだけ綺麗になってませんか? 顔色も良くなったというか……」
「なんだ、そんなことか。ワシはあの神棚と繋がっとるんじゃ」
 涼しい顔で福の神は、福住が念入りに掃除をした神棚を釣竿で指した。


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