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作品名:ねこまんま食堂 作者:真柴 文明

最終回   二十五.報恩
「そうか! 決まったのか、寿野さん!」
「おめでとう。これで宏充君も安心するねえ」
「づのざ〜〜ん、よがった……」
 寿野の事情をよく知っていた財部と小禄は手放しに喜んだが、涙腺が崩壊した大黒は、ただ子供のように泣きじゃくるだけだった。
 食堂の存続、我が子との再開、そして寿野の再就職と、打ち続く喜びに福住の顔が自然と緩むと、父を見上げる博樹の頬も緩んだ。
 そんな父子を温かく見守る皆の顔も笑顔で溢れていた。
 食堂の中にできたほっこりとした光景を、恵比原と幸が少し離れて眺めていた。
「幸さん。丸く収まってよかったな」
 そう言いながら相好を崩す恵比原に、幸が改めて向き直した。
「これも、会……、じゃなかった。恵比原さんのおかげです」
「いやっ、いやっ、私は何も……」と言葉を濁す恵比原は、決戦前夜のことを思い返していた。

「ここか?」
 決戦の前夜。夜も十時を少し回った頃、恵比原はお付きの天城と大国を伴って、幸と博樹が住む団地の三階のある一室の前にいた。
 天城が呼び出しブザーを押すと、中から「はーい」と軽やかな女性の声が返ってきたが、一向にドアが開く気配がしない。
「んっ?」と天城がもう一度ブザーを押したが、今度は返事すらない。
 恵比原がやれやれと鼻から小さく息を漏らした。
「どうやら警戒されているみたいだな。まあ、時間が時間だから、無理もないか……」
 夜の十時を回った時間に、ドアの前に厳ついスーツ姿の男二人と杖をついた和装の老人が立っていれば、そりゃ誰だって警戒するだろう。
 恵比原は少し眉を寄せて考えたが、天城は構わずブザーしっこく押し続けた。
「おいっ、天城。よせ、近所迷惑だ」
 恵比原は止めようと、天城の肩に手を掛けると同時に、スチール製のドアが重々しくほんの少しだけ開いた。当然、ドアチェーンは掛かったままである。
「どちら様?」
 顔を左半分だけ出した幸が、抑揚のない声と氷のような冷たい目で訊いた。
 ビックと身体を硬くした天城は、後退りしながら「こっ、今晩は……」と答えるのやっとで、次の言葉が出てこない。
 見兼ねた恵比原が「おいっ、代われ」と後ろから声を掛けると、天城は左半身をずらして前を空けた。
「いやっ、こんな夜分に申し訳ない。私は恵比原という者なんだが、実は少し尋ねたいことがあってな、こうして来たんだ訳なんだ」
 幸は人を凍り付かせるような目でジッと恵比原を見詰た。
(えびはら……? 珍しい名前ね。んっ、どこかで聞いたような……? あっ!)
 幸のきつい目が丸くなると、一旦ドアがバタンと音を立てて閉まり、中からガチャガチャとドアチェーンを外す音がした。
 そして、ドアが大きく開かれると、目を見開く幸がいた。
「恵比原……会長……ですか? あの大日の?」
 どうして大日のような世界規模の大企業の会長が、こんなありふれた団地に住む、ありふれた庶民を訪ねてくるのか。時事にも明るい幸には、訳が分からなかった。
「いやっ、いやっ。そんな大層なもんじゃない。当の昔にお役御免になった、ただの年寄りだ」
 顔の前で手を振りながら、好々爺然と柔らかな物腰で話す恵比原を見て、幸の顔も自然と緩んだ。
「こんな所で立ち話もなんですから、中に入ってください」
 幸に促された恵比原が「じゃ、お邪魔させてもらうよ」と中に入ったが、天城と大国は外で待機しようとした。
「何やってんですか? あなた達も入ってください」
 不思議そうに訊く幸に、天城が手を前に出して答えた。
「いやっ、我々はいつも外で待つということになっているんで」
「迷惑だから入ってください!」
 幸にピシャリと言われた二人は、スゴスゴと恵比原の後に続いた。
 恵比原らが通された部屋は、キッチンのすぐ奥にある六畳ほどの和室で、幸が灯りを点けるとテレビやローテーブル、タンスなどが現れ、決して高価な調度品ではないが、整理の行き届いた生活感を滲ませていた。その隣室では就寝中の博樹がいる。
 恵比原が用意された座布団に座ると、天城と大国はその後で背筋を伸ばして畳に正座した。
 幸がお盆に乗せたお茶を三つ、ローテーブルのそれぞれの前に置くと、お盆を下げて恵比原の正面にきちんと正座した。
 出されたお茶を美味そうにすする海老原に、幸は訊いた。
「あの、それで尋ねたいことって何ですか?」
「ああっそれなんだが」と、すすっていたお茶を置くと恵比原は笑みを浮かべながら改めて訊いた。
「なぜ、こんな勝負仕掛けたんだい? どう見てもあいつに……、失礼、ご主人に勝ち目があるとは思えない」
「別に『あいつ』で構いませんよ。そうですね……」
 夫を「あいつ」呼ばわりしも、顔色一つ変えずにアゴに手を当てて考え込む幸を見て、天城と大国はピックと顔を引きつらせた。
「まあ、負け犬根性というか、根性なしというか。とにかく、その性根を直したかったんです!」
 そうキッパリ言い切る幸に、恵比原は目を瞠った。
 前にも述べたように、ヘタレの福住は上手くいかなかったり、嫌なことがあると、すぐに周りのせいにしては、言い訳を繰り返して職を転々としていた。
 結婚しても、子供を授かっても、そのヘタレっぷりあまり変わらなかった。
「口先ばかりで、まったく腰が落着かないんです。つい三ヶ月前まで私のヒモみたいな生活してたんですから」
 うんざりとした顔で話す幸に、恵比原は「うんっ、うんっ」と頷きながら聞入った。
「なだめたり、すかしたり。そりゃ、こっち根負けするくらい注意しましたよ。でもね……」
 幸は額に手を当てて、大きく吐息を漏らした。たぶん、思い出したくもない結婚生活だったのだろう。
 一時は離婚も視野に入れていたが、生まれてきた子供のためにも、幸は何とか福住に立ち直って欲しかった。
「でもね……。言えば言うほど、卑屈になって、終いには『どうせ、俺なんか……』てっ、いじけてしまうんです。『子供か、お前は!』てっ怒鳴りたい気分でしたよ……」
 何を言われようが、フラフラとしたクラゲのような生き方が一向に改まらない福住は、ヘタレが骨の髄まで染込んでいた。
 業を煮やした幸は福住を叩き出し、その捻じ曲がった根性と生活態度を治そうと、ついにねこまんま勝負という荒治療に打って出た。
 話を聞き終えた恵比原が「うんっ」と大きく頷いた。
「そうか。それで、あいつの前ではあんな態度を取ったのか。そして、幸さんの思惑通り奴も変わろうと必死になったという訳か」
 コクリと頷く幸に、恵比原は思わず目を細めた。
「しかし、それだけの大芝居を打つということは、今でもそれなりに愛しているのかな?」
 今となっては、そんなこと分かりませんと頭を振った幸が、ふっと博樹が寝る隣室に目をやった。
「ただ、あの子のためにも変わって欲しかったんです。だって、あの子、パパ大好きですから……」
 福住が叩き出された後、博樹は抗議の意味で三日間、幸と碌に口を利かなかった。
 恵比原は「最後にもう一つだけ」と人差し指を立てると、少し意地悪な質問をしてみた。
「最悪、あいつが思い詰めて自ら命を絶つということは、考えなかったのかい?」
 後に控えていた天城と大国はギョと顔を強張らせて恵比原の背中を見たが、幸は目を丸くして「ぷっ!」と噴出すとコロコロと笑い始めた。
 しばらく笑い転げると、幸は居住いを正し恵比原を正面から見据えてキッパリと言い切った。
「その時は、その時。まぁ、ミィーちゃんも付いていますし。第一あの人に、そんな度胸ありません!」
「やっぱり女は恐い」と、恵比原は笑っていたが、後方の二人は(女、恐え……)と背筋が凍る思いがした。
 そして、もしこの三ヶ月で福住のヘタレが少しでも改まったなら、目標を達成できようが、できまいが、どうでも良かった。
 その時には、ここに戻してやるつもりだという胸に閉まっていた真意を、幸は恵比原に明かした。
「そうか。そういう腹積もりか。でっ、幸さんは今のあいつをどう見る?」
「うーん」と唸りながら、食堂での福住の立振舞いを幸は腕を組んで思い返した。
「まあ、ほんのちょっとだけ、マシになったかと」
「そうか、そう見てくれるか! そいつはありがたい」
 小首を傾けて答える幸に、頬緩めた恵比原はあることを頼んだ。
「もし、あいつが目標額をクリアーできず食堂を手放す羽目になっても、それを正面から受け止め、最後まで逃げ出さずにこの勝負をやり遂げたなら、食堂を、あけぼの食堂を続けさてくれんか?」
 この提案に幸は目を丸くした。
 あけぼの食堂はあくまでも福住の性根を治す場であって、それが治れば食堂にはもはや用はない。
 幸の頭には最初っから食堂の存続という選択肢はなかった。
 幸としては、食堂での経験を機に、福住にそれほど稼げなくても、ちゃんとした職に就き、親子三人で暮らしていくことを望んでいた。
 それにド素人の福住に食堂の経営など、ハードルが高過ぎる。
「なあ、頼むよ、幸さん。あいつが食堂を再開させてからというもの、着実にお客さんが付いている。それも、ねこまんま一本でだ」
 確かに恵比原の言う通り、お昼時を過ぎてもそこそこの数の客がいたし、福住にも自信めいたものが滲んでいた。
「たぶん、食堂を必死に切盛りしているうちにそうなったんだろうが、今やねこまんまとあいつは、切っても切れない。身体の一部と言ってもいいくらいだ。それほど打ち込めるものを、あいつはやっと見つけたんだ」
 静かに語る恵比原に黙って聞入ってが、幸にはやはり躊躇するものがあった。
「でも、食堂の経営なんて、しかもねこまんま専門のというのは、ちょっと……」
「だったら、ねこまんま以外の料理も勉強させて、もっと食堂らしくすればいい。何だったら、私が手を貸そう。切り盛りのことも含めてな」
 豊富な人脈を持つ恵比原に掛かれば、おっさん一人の料理の勉強や食堂の運営など、どうにでもなる。
 自信たっぷり話す恵比原が、ふっと思い出したように微笑んだ。
「幸さん、あんたは知らんだろうが、ああ見えて、あいつは何だかんだ言われながらも、地元から結構愛されている」
「えっ」と声を上げた幸が「本当ですか?」と目をしばたたかせた。
「ああっ。でなきゃ、あんなふざけた食堂、三月も持たんよ」
 訳知り顔で笑みを浮かべる恵比原を見て、ようやく幸も食堂の存続に同意した。
「ありがとう、幸さん。これで一安心だ。まあ、後はあいつが最後まで逃げなきゃないいんだがな」
 福住のことがあるとはいえ、なぜ恵比原のような人物がこれほど、あんなふるぼけた食堂にこだわるのか、気になった幸は少し眉を寄せて訊いてみた。
「恵比原さん、あの食堂に何か思い入れでもあるんですか?」
 不意に訊かれた恵比原は、鼻の頭を掻きながら困り顔で答えた。
「いやっ、昔な、あの店で少し世話になってな。どういういきさつかは、勘弁してくれ……」
 言葉を濁す恵比原に、幸は(大企業の偉い人でも、触れられたくない過去があるんだ……)と飲み込んだ。
 恵比原が「夜遅くに、すまかったね」と腰を上げたが、「あっ」と思い出したように口にすると、上げた腰をまた降ろした。
「幸さん。実はもう一つ頼みごとがあるんだが、いいかな?」
「えっ、まだ何かあるんですか?」
 きょとん訊く幸に、恵比原は笑みを浮かべて頼んだ。
「あいつが最後まで踏ん張り切ったなら、そのときは食堂で息子さんと合わせてやってくれないか?」
「えっ、ここに戻れば会えますけど? もっとも、最後まで逃げずにいれば、ですけど……」
「まあそうなんだが、踏ん張り切った暁には、少しでも早く会わせてやりたいんだ」
 さらに頼み込む恵比原を見て、鼻から「ふっ」と息を漏らした幸が苦笑いを浮かべた。
「んっ、まっいいでしょう、そのくらい。ご褒美てっことで」

(これで少しは、幸造さんと寿賀子さんに恩を返せたかな……)
 福住と博樹を囲む歓喜の輪を笑みを浮かべて眺めながら、恵比原は昨夜の幸との裏話を思い浮かべていた。
 傍らにいる幸も嬉しそうに輪を見ていた。
 ふっと恵比寿原が「あっ、あいつにも知らせてやることになっとたな」と、独り言のように呟くと信玄巾着からスマホを取り出した。
「えーっと、確かこうだったな」と、恵比原は覚束ない手で二、三行の簡単な文面を打つとメールの送信ボタンをタップした。

 その頃、国内すべての工場で働く社員たちへのお詫び行脚を終えた武富は、社長室で憮然としていた。まったく面白くないといった顔で、昨日PCに届いたカミオンからのメールを睨み付けていた。
(たくっ、どこから嗅ぎ付けてきやがった。提携はとっくの昔に解消したのに、今さらかよ……)
 お詫び行脚と平行して武富は、車両検査AIを搭載した新型アーム・ロボットの開発を進めていた。
 開発はまだ始まったばかりだったが、産業用機械専門メーカーと協議を重ねながら一つ一つ問題を乗り越えていた。
 そこに、いきなりカミオンが一枚噛ませろと横槍を入れてきたが、昔のこともあって無碍にもできない。
(儲け話になると何でも喰い付いてきやがる。お前らダボハゼか!)
 などと悪態を吐く武富のスマホに、恵比原からのメールが届いた。
「んっ」と、机に置いていたスマホを取って、届いたメールを目にした武富の顔がふっと柔らかくなった。
(よかった……。これでまた、美味いみそ汁とねこまんまが食える……)
 そこへ、コンコンと軽くドアをノックして「失礼します」と、女性秘書が入って来た。
「社長、例のカミオンの件での対策会議のお時間です」
 タブレットで予定を確認し、顔を上げた彼女が「んっ?」と小首を傾げた。
「社長、何かいいことでもあったんですか?」
「ああっ、ちょっとね」
 いつになく上機嫌になった武富は、スマホを上着の内ポケットにしまって立ち上がると、胸を反らせて会議に向かった。

 一方、大勢で押しかけて来た常連さんに驚いて外に飛び出していたミィーちゃんは、食堂の向かい側にあるガードレールの根元に腰を降ろして空を見上げていた。
「ミャ?」と短く鳴いたミィーちゃんは、不思議そうにある雲を見詰ていた。
 その雲は風にゆらりと流される他の雲とは、少しばかり違っていた。
 他の雲は流れに乗ってのんびりと移動いていたが、その雲だけは流れに逆らい、ずっと同じところでプカプカ浮いている。まるでドローンのように、食堂の上空でホバリングをしている。他の雲と比べてみても、それほど大きくはない。
 ミィーちゃんが目を凝らして見ていると、やがてその雲は徐々に姿を変えていった。
 どうやら、ぽってりと太った人があぐらを掻いているように見える。頭には風折烏帽子のようなものがチョコンと乗っかり、顔と思われる部分は妙に福々しさが感じ取れる。
 しかも釣竿を右の肩に掛けて、左の脇には大きい魚のようなものを抱えている。
「ミャ?」と、またミィーちゃんが鳴くと、何やら聞き覚えのある声がした。
「よかった、よかった。これでワシも爺さんと婆さんに、いい報告ができそうじゃ」
 そう言うと、変な雲は他の雲と同じように、風に乗ってゆらりと移動し始めた。
 声を聞いたミィーちゃんは鳴くのを止めて、ジッと変な雲の後を目で追い続けた。
 それに気付いたのか、いきなりピタリと動きを止めると、変な雲の顔の部分だけがミィーちゃんの方を向いた。
「おおっ、ミィーちゃん。これからも奴を頼むぞ。よいな」
「ミャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンッ!」
 目を細めて嬉しそうに鳴くミィーちゃんのその声は、どこまでも途切れることなく、大きく空に広がった。


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