暦(こよみ)もよいよ六月後半に入り、梅雨はまだ明けていなかったが、福住は最後の追い込みとばかりに、懸命に食堂を切盛りした。 食堂の存亡を賭けたねこまんま勝負のことを知っている財部や小禄は、同業者や友人、知人を連れて毎日訪れ、大黒もパートのおばちゃん、バイト君達とやって来ては、大いに店を盛り上げたくれた。 世話になった田神や小布施も週に何度も顔を見せ、加宮は仲間と共に大黒を特別顧問とする大学非公認の「駄菓子ねこまんま研究会」なるものを立ち上げ、その仲間と「勉強会」と称しては、足繁く通った。 こんな常連さん達につられて店に入ってくる一見さんも多く、困っていれば、皆が優しく手解きしてくれた。 うっとうしい雨の季節にも関わらず、食堂に来てくれる誰にも、福住は(ありがたい……)としみじみ思った。 この人たちがいればこそ、ダメな自分がここまでやってこれた。決して自分ひとりでやってこれた訳ではない。 そして何より、嫁に追い出され行き場を失った自分に付いて来てくれたミィーちゃんと、手段を選ばず何かと自分奮い立たせてくれた、あの鬼のような福の神に心から感謝した。 そんなある日の夕方。立て込む店内、常連客のひとり寿野がいつものテーブル席で宏充とねこまんまを楽しんでいた。 その寿野が切盛りに追われる福住と目が合うと、申し訳なさそうに呼び寄せた。 「すいません。忙しいときに……」 「別に構いませんよ。でっ何ですか?」 寿野は座り直して姿勢を正すと、福住を真直ぐ見た。 「前の会社ほど大きくはないんですが、今度役員面接があるんです」 「えっ! やったじゃないですか。寿野さんなら、大丈夫ですよ」 我が事のように喜ぶ福住に、寿野は「いやっいやっ」と照れ臭そうに笑った。 「でっ、いつなんですか、面接は?」 「三日後です」 「三日後ですか……」 そう口にする福住の頭にあることが過ぎった。それは、その日が食堂の営業を終えた翌日、つまり鬼嫁との約束の日であり、常連客なら誰もが知っていた。その日がもう間近に迫っている。 福住の顔がグッと引き締まると、寿野が熱い眼差しで右手を差し出した。 福住は躊躇うことなく寿野が差し出した手をガッシ!と固く握り、互いに目を合わせたままグッとアゴを引いた。 もはや、おっさん二人の間に言葉は要らなかった。 残り僅かになったねこまんま食堂の最終営業日まで、福住は一心不乱に働いた。これまで以上に熱を込めて働いた。 そして営業最終日。最後の客が帰り、表の暖簾を外して店の中に戻ると、カウンター席にどこかやり切った感を漂わせる財部、小禄さん、大黒の三人がいた。 「すいませんね。何か最後まで付き合せてしまって」 「なに、乗りかかった船だ。最後まで付き合うのが筋てっもんだ。それにしても、よく逃げ出さずに最後までやり通したな」 財部が労うように言うと、小禄、大黒もコクリと頷いた。 「そうだよ。最後までねこまんまで押し通すなんて呆れるよ」 「ええっ。でも、そのおかげで僕は自分のねこまんまを存分に楽しめました」 目を輝かせる大黒に(ああっそうだったな。お前は自分のねこまんまにしか興味がなかったな……)と、福住は軽く吐息を漏らした。 財部も、小禄も、しょうがない奴だと苦笑した。 その財部が急にかしこまって福住に訊いた。 「誠君、よいよ明日だな」 「ええっ」と頷く福住に、小禄が不安げに訊いた。 「勝ち目はありそうかい?」 福住は何ともいえない顔をして「わかりません」と短く答えた。 「でもさ、僕や財部さん、小禄さんの他にも大勢で盛り上げたじゃないか。きっと大丈夫だよ、まこっちゃん!」 出目を剥いて励ましてくれる幼馴染に、福住は薄っすら笑みを浮かべた。 「ああっ、そうだな。まっ、これから手提げ金庫の中身数えりゃ、白黒ハッキリするしな」 福住は預金通帳を持っていない。正確には、家から追い出される際に嫁からカードも含めて取り上げられ、この食堂に転がり込んだ時には、かろうじて電気、ガス、水道が通せる僅かな現金しか持ち合わせていなかった。 そういう訳で、福住は売上をすべて亡き祖父母も愛用していた手提げ金庫に納めていた。 財部が改めて決戦の時刻を訊いた。 「ところで、明日の何時に来るんだ?」 「お昼です」 短いが力強く答える福住の目を見た三人は「必ず見届ける」と言い残して店を後にした。 店の片付けを済ませた福住は、年季の入った水屋箪笥の引き違い戸の奥から手提げ金庫を取り出し、ちゃぶ台に置いた。 ちゃぶ台の脇にある座布団の上では、ミィーちゃんがお行儀良く前脚を揃えて腰を降ろして主を見上げている。そのすぐ横であぐらを掻いた福の神が、緊張感を漂わせて腕を組んでいた。 手提げ金を前にして居住いを正す福住に向かって、福の神が重々しく口を開いた。 「よいよ雌雄を決するときじゃ。心して掛かれ」 頷いて生唾をゴクリと飲み込んだ福住が、手提げ金庫を開けると、中からシワだらけの大量の千円札と小銭の山が現れた。 福住は千円札のシワを一枚、一枚丁寧に伸ばし、小銭も五〇〇円、一〇〇円、五〇円、一〇円と分けて一つ、一つ疎かにすることなくそれぞれ一〇枚づつの小山にして並べた。 並び終えた福住は、ちゃぶ台一杯に広がった売上を数え始めた。 「一、二、三――」 そして、それぞれの金額を頭の中で合計した福住の頬がピクッと引きつった。 「四十九万……、九千……、二五〇円……」 思わず福住の口から漏れた金額を聞いて、福の神は天を仰ぎ、ミィーちゃんは大きく首を垂れた。 「そんなはずはない!」と、福住は目の色を変えて何度も数え直した。 このままでは亡き祖父母が大事にしてきた店を手放さなくてはならない。それに、こんなにダメな自分を応援してくれた人たちに顔向けもできない。 僅かに届かなかった金額と共に、受入れ難い現実もやって来る。 が、さすがに三度やっても変わらない結果に、福住は思いっ切りヘコんだ。 しばらく畳に両手を着いて大きく肩を落としていた福住が、やおら顔をあげると、ちゃぶ台に広げたお金を手提げ金庫に粛々と戻した。 すべて戻した福住は奥の部屋の隅にある、祖父母を祭った仏壇へ向かった。 その前で、スッと背筋を伸ばして正座する福住は、静かに鈴を一つ鳴らして手を合わせた。 チ〜〜ン…………。 物悲しい音色が部屋中に響き渡り消えようとした時、突然、福住が土下座して声を張り上げた。 「おじいちゃん! おばあちゃん! 役立たずの孫で、申し訳ありません!」 この瞬間、福住は目の前の現実を受入れた。 どのくらい経ったか分からないが、額を畳に押し付けたまま、まったく動かなくなった福住に、福の神が声を掛けた。 「おいっ、いつまでそうしておるんじゃ」 「えっ?」と顔を上げた福住を見て、福の神が「ぷっ!」と吹き出した。 吹き出された福住は訳が分からないまま、きょとんとした。 「おいっ、額を触ってみろ」 言われるままに額に手を当てた福住が「あっ……」と小さく声を上げると、福の神は苦笑いを浮かべて訊いた。 「畳の跡じゃ。相変わらず抜けとるのう。でっ、これからどうする?」 訊かれた福住はヒザを着いたまま、福の神とミィーちゃんがいる座布団の前まで進み、そこで改めて正座した。 「まあ、どうするも、こうするも、負けた以上もうここには居られません」 「そうじゃな。また、宿無しになってしまうな……」 哀れむように言う福の神に、福住は目を瞠って言い放った。 「大丈夫です! どこに行こうが、私にはミィーちゃんと、ねこまんまがあります!」 「ミャ!」と威勢よく鳴くミィーちゃんは、猫にしては珍しい忠義者。どこまでも主に付いて行くつもりだ。 熱を込めて言い切る福住を見て、福の神が目を細めた。 「そうか、少しは据え物としての覚悟が付いてきたか」 「据え物?」 ―据え物― それは装飾品などの飾り物や、また江戸時代には刀の試し切りに用いられた罪人の死体のことを指す。 「まあ、平たく言えば、『消耗品』のことじゃ」 福の神はそう言うと、哀しいような、嬉しいような目で話した。 「洋の東西を問わず、古来より男の仕事というものは、戦って死ぬことじゃった。男はな、時代の消耗品じゃ。その『使い捨て』を自覚し日々を鍛錬の場として生き切る。それがこの国に受け継がれてきた男・本来の生き方だった」 大昔は、女性より筋力、骨格に勝る男性は力を要する仕事が主な役目であり、耕作や家事などの日々の実生活を維持、運営するの女性の領域だった。 武士の時代ともなれば、男は家政などの細々したことには口を挟まず、ひたすら床の間の前で鎮座し、一朝事あらば、御家のため、先祖のため、民のために戦い、ただ泰然として死んでゆく。 欧米列強の脅威に晒された幕末・明治の御世になっても、米国相手に戦った時も、その心構えは生き続けた。 「なに、別に戦うためにだけに、この覚悟があった訳ではない。実社会で生きて行くためにも『据え物の覚悟』が必要だった」 「ふっ」と一息ついた福の神が、何やらやり切れなさそうに目を落とした。 「じゃがな、先の大いくさでボロ負けして、腰を抜かしてしまった。そして、腰を抜かしたまま、今ではいいように飼い慣らされとる。消耗品ということも忘れてな……」 時が止まったような静かさの中で、福住が神妙な面持ちで聞入っていると、福の神の顔が急にパッと明るくなった。 「とっ、まあ、今時こんなこと言ってみろ、『あなた、何時代の人ですか!』とか『時代錯誤も甚だしい。バカなの?』とか罵られて袋叩きにされるのがオチじゃ。だから、口にはするな。だが、その気概だけは胸に留めておけ」 神妙な顔のまま黙って頷く福住が、「んっ?」何かに気が付いた。 (いつの間に、こんなに変わったんだ?) 今までの慌ただしさの中で、まったくその変化に気付かなかった福住は、目を白黒させて福の神を見入っていた。 見れば、福の神の姿が小ざっぱりとした身奇麗なものに変わり、顔付きも少しふっくらとしているうえに色艶もいい。 福住の視線に気付いた福の神がきょとんとした顔で訊いた。 「んっ? ワシのことか?」 「ええっ、初めて会った時とは、あまり違うので……」 目をしばたたかせて訊く福住に、福の神は事も無げにテーブル席の壁に祭っている神棚を竿で指した。 「お前が毎日、心を込めてあれを掃除してくれていたからな」 「あっ」と福住が声を上げると、福の神は「さてと」と腰を上げた。 「もうワシがおらんでも大丈夫じゃな。この三月、色々楽しませてもらった。ではな……」 恵比須顔で突然別れを切り出す福の神の足元が、音もなくスーッと透け始めた。 あまりのことに、ぶったまげた福住が思わず叫んだ。 「ミィーちゃん!」 「ミャ!」 瞬時に主の意図を察したミィーちゃんが、素早く身体の向きを福の神へ向けた。 「おおっ、ミィーちゃんか。世話になっ…… んっ?」 名残を惜しむ福の神が言い終わる前に、ミィーちゃんは渾身のネコパンチで、その横っ面を思いっ切り引っ叩いた。 ブンッ! ビッシャ! 「グハッ!」 あえなく福の神はその場に崩れ、薄っすら消えかかっていた足も元に戻った。 「痛たたっ……。コラッ! 何すんじゃ! あのまま消えていたら、いい感じで終われたものを!」 引っ叩かれた頬に手を当てて福の神は、涙目で激しく抗議した。 消え去ろうとする神様を、ぶん殴って止めるという暴挙に出た福住は平謝りに謝った。 「すいません。本当にすいません。でも、訊きたかったことがあったんで、つい……」 「ついてっなあ。普通それで神様殴るか? でっ何じゃ? 早よ言え」 ご機嫌斜めな福の神に、恐縮しつつ福住は訊いた。 「どうして俺みたいなダメな奴に、手を貸してくれたんですか?」 「なんじゃ、そんなことか」と、少し腫れた頬を撫でながら、福の神は面倒臭さそうに答えた。 「あの世でな、お前の爺さんと婆さんに頼まれたんじゃ。孫の腐った性根を叩き直して欲しいとな」 「へぇ……?」 自分の予想の遥か斜め上を行く福の神の言葉に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしながらも福住は思った。なぜ、この場に亡き祖父母が出てくるのだと。 混乱する福住をそのままにして、福の神は再びスーッと足元から消え始めた。 「いいか、今度は殴るなよ。消えかけている時が一番危ないんじゃ。福の神も不死身ではない」 そう強く念押した福の神の姿が、福住とミィーちゃんの目の前から静かに消えた。 やがて福住の頭の上から身体全体を揺さぶるような福の神の声が、部屋中に低く響き渡った。 目を瞠って天井を見上げる福住に、福の神は最後の言葉を送った。 「覚えておけ。目に見えるものがすべてだと思っていたら、それは大間違いじゃ。ではな、ワハハハッ……」 その笑い声を最後に、福の神はその姿を完全に消した。
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