季節は六月に入り、梅雨特有の湿った香りが漂い始めていたが、空は梅雨の中休みとばかりに晴れ上がっていた。 そんな梅雨晴れの平日のお昼時を過ぎた二時頃、福の神と例の三人から受けたダメージも癒えた福住は、カウンター越しに恵比原と談笑していた。 「そりゃ、災難だったな。しかし、それでその父子が元気になったんなら、いいことじゃないか」 「ええっ、そうですね。でも、とんだ災難でしたよ」 この頃になると、恵比原や三人組、寿野親子以外にも世話になった田神、加宮と友人、小布施も週に何度か食堂に足を運ぶようになったいた。 また、武富は激務の合間に重役らを伴って、たまにフラッと訪れていた。 その度に食堂の前に威圧感たっぷりの黒の社用車が並ぶ光景は、福住の目を点にしたことは、以前にも書いた通りである。 彼ら以外にも、店には常に様々な人々が思い思いに自分のねこまんまを楽しみ、いつの間にか閑古鳥達もどこかへ飛び去っていた。 そういう訳で、福住にも恵比原と談笑できるだけの余裕も生れていたのである。 ついでながら、恵比原のお付の者である天城と大国も、この頃には主人と共にねこまんまを堪能するようになっていた。 そこへ、約束の期限まで、まだ一月ほどあるというのに鬼嫁・幸が、出入り口であるガラス格子の引き戸を乱暴に開けて現れた。 ガラガラッ! ピッシャ! (へぇ〜っ、お昼も過ぎてるのに結構入ってるわね) 真っ白なシャツに、ライトグレーのスーツを颯爽と身にまとい、肩に黒のトートバッグを掛けて、幸は出入り口の前で腕を組んだまま仁王立ちで店内を舐めるように見回した。 その圧倒的な存在感に、店内の空気は一変し、誰もが気圧された。 幸が目に入った福住は怪訝な顔をしていた。 (期限まで一ヶ月を切ったとはいえ、まだ日はある。いったい何しに来たんだ?) 刺すような福住の視線に気が付いた幸は、身体の向きを変え福住を正面から見据えると、二人はカウンターを挟んで対峙する形になった。 「何の用だ。期日はまだ先だろう?」 刺々しく訊く福住など、全く相手にせずに幸は鼻で笑った。 「ええっ、まだ時間はあるわ。今日は敵情視察てっとこかしら。とっくの昔にシッポを巻いて逃げ出したかと思っていたけどね」 「うっ……」 これまで幾度となくシッポを巻いて逃げ出してきた苦い過去を持つ福住が言葉を詰まらせていると、幸は念を押すように訊いた。 「私との約束、覚えているわよね?」 相変わらず上から目線で言い放つ幸に、福住はキッパリと言い切った。 「忘れてはいない!」 そこには、嫁の前ではオドオドと落ち着きのない、かつてのダメ男の姿はなかった。 とても夫婦とは思えない殺伐としたやり取りに、周囲は固唾を飲んで見守っていた。 元・SPである天城に至っては、幸のただならぬ気配に、恵比原を背にして「御前、危険です……」と呟いていた。 予想に反して、声を大にして言い切る福住に、幸は目を丸くした。 「ふ〜んっ。なら、良かった。まあ、せいぜい頑張って。約束の日が楽しみだわ」 「ああっ、楽しみに待ってろ」 ねっとりと嫌味たらしく言う幸に、福住は精一杯強がって見せた。 幸が「じゃあね」と踵を返して立去ると、天城の背中に隠れていた恵比原が少し眉を寄せていた。 「おいっ、天城。あの女の後をつけろ」 「えっ、あんな危なっかしい女を? なぜです?」 「少し気になることがある」 背中越しにきょとんとする天城に、イラッとした恵比原が低く唸るように怒鳴った。 「いいから、さっさと追え!」 「はっ、はい!」 飛び上がった天城は、ねこまんまに未練が残る大国の襟を掴むと、慌てて幸の後を追った。 幸が去った店内は、それまでの張り詰めていた空気が一気に解けて、いつものゆるい雰囲気に戻っていた。 福住もいつもと同じように厨房で野菜の下拵えをしていると、恵比原が気遣うように声を掛けた。 「大丈夫か?」 「大丈夫です。すいません、お見苦しい所を見せてしまって……」 下拵えの手を止めて詫びる福住に、恵比原は「いやいや、気にするな」と顔の前で軽く手を振った。 「あれが勝負を吹っかけてきた例の嫁か?」 福住はバツが悪そうに頷いた。 「ええっ、あいつがああなったのも、俺が不甲斐ないからです……」 「そうか……。でっ、肝心の勝負の方はどうなんだ?」 訊かれた福住は改めて恵比原に力の入った目をやった。 「問題ありません。その日のやるべきことを一つ一つ、やり切るだけです!」 奥の部屋でミィーちゃんと一緒に事の一部始終を、福の神は目を細めて眺めていた。 「あの嫁相手に一歩も引かなかったこともそうじゃが、奴め少しは大人になったみたいじゃのう。なあミィーちゃん」 「ミャ!」 ほんの少しだけ成長した主の背中を、ミィーちゃんは誇らしげ見詰ていた。
一方、恵比原の命を受けた天城と大国は、あけぼの食堂の最寄り駅より三つ先の駅の改札口にいた。 「大国、早くしろ! 見失うぞ!」 「ウゴッ……」 ちなみに、大国は滑舌が悪い。悪過ぎて返事をしているのか、唸っているのか、その区別すらつかない。 ただ天城の場合、この仕事に付いてからの付き合いが長いせいか、何となく分かるようである。 大国が清算機に手間取る間に、改札を出た幸はスタスタと右の角を曲がって消えた。 ようやく清算を済ませると、二人は急いで幸が消えた角に張り付き、顔を半分出して前方にいる幸の後姿を確認した。 「よし、この距離を保ちながらつけるぞ」 「ウゴッ」 二人は幸と歩調を合わせながら、付かず離れずといった程よい間合いで尾行した。 途中、街路樹が立ち並ぶ駅前通り沿いにあるスーパーに幸は立ち寄ったが、天城らは中に入ろうとはしなかった。 さすがに平日の昼日中、ダークグレイのスーツ着込んだ男が二人店内をうろつき回っては怪し過ぎる。 てな訳で、天城と大国はスーパーの角で待機することにした。 二人が角で待っていると、ものの一〇分足らずでレジ袋を持って店から出て来た。 やがて交通量の多い駅前通りを抜けると、幸は閑静な住宅街に入っていった。 そして、住宅街を抜けたその先に白亜の校舎が見えてきた。 幸は「都立○○小学校」と書かれたプレートが掛かった正門で立ち止り、チラッと腕時計を見ると、しばらくそこで待つ素振りを見せた。 (小学校……?) 住宅街の物陰から幸を見張る天城の眉が少し寄った。 午後三時になる少し前、低学年の下校を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。 しばらくして、お揃いの黄色いキャップにランドセルを背負った一・二年生たちがワラワラと昇降口から正門に向かって溢れ始めた。 その中に児童たち声を掛けながら誘導する、淡いブルーのジャージを着た若い女の先生がいた。 「こらっ、竹下君! 走らない。あっ、エミちゃん、階段はゆっくりでいいから」 児童らに目を配りながら先生が正門に着くと、傍らにいた幸に気が付いた。 目が合った二人は互いに会釈すると、先生は「博樹君なら、もうすぐ来ますよ」と微笑んだ。 黄色いキャップの一団は正門から出た途端、帰る方向が同じ級友や仲の良い友達と、それぞれ好き勝手に拡がっていった。 そんな無軌道に動き回る黄色のキャップ達を正門の隅から眺めていた幸が突然、手を上げて叫んだ。 「博樹――っ!」 ユラユラと動く黄色い集団の中から、一つのキャップがピタリと動きを止めて声のする方へ振り向いた。 「あっ! ママーーッ!」 博樹は隣にいるお友達に、今日は母親が迎えに来てくれたことを伝えると、黄色い流れに逆らって幸の元へ駆け寄った。 天城と大国は住宅街の陰からその様子を見ていたが、母子は二言、三言交すと、手を繋いで黄色い流れに沿って歩き出した。 物陰に潜んでいた天城らも再び尾行を始めた。 しばらく母子は黄色い流れに乗っていたが、住宅街を抜けて駅前通りに出ると、流れは左右に二手に別れた。母子は左に折れた流れと一緒に曲がった。 天城らは急ぐことなく、ごく自然に左に曲がり母子を見失わない距離を保ちながら跡をつけた。 二人から一五〇メートほど先にいる母子は楽しく話し込んでいる。男の子は母親のお迎えがよほど嬉しいのか、母親の顔を見ながらずっと喋っている。 離れているため母子の会話はよく聴き取れなかったが、たぶん今日、学校であったことを三割増しで話しているのだろう。 天城はそんな他愛もないことを頭に浮かべていると、母子が急に繋いだ手を解いて足を止めると、向き合って話し込み始めた。 天城らは慌てて街路樹の陰に隠れた。 母親の顔はさっきと変わらずに和やかままだが、男の子は目を大きく見開いて聞入っている。 「クソッ! ここからでは何を話しているのか分からない……」 「ウゴッ……」 二人が街路樹の陰で悔しがっていると、男の子の顔がパッ!と明るくなったかと思うと、声を弾ませた。 「ほんと! パパ、がんばってるの!」 目を輝かせて聞き返す男の子に、母親はふんわりと微笑んで頷いた。 母子の様子を窺っていた天城が思わず「えっ?」と声を上げると首をひねった。 目の前のほのぼのとした母子の姿と、食堂でのあの刺々しい夫婦のやり取りがどうもそぐわない。 大国も「ウゴッ……?」と、今ひとつ納得できない顔をしている。 男の子が口にした「パパ、がんばってるの!」は、明らかにあのふるぼけた食堂の店主・福住のことを指している。 ますます訳が分からなくなった二人は、母子がまた手を繋いで仲良く歩き出すと、とりあえず疑念は置いといて跡をつけた。 ほどなくして、母子は都下でよく見かける団地に着いた。 母親が郵便受けから夕刊や郵送物を取り出しながら何か伝えると、男の子が突然喜び出した。 母親が振り返って目を細めたまま頷くと、男の子はさらに喜びを爆発させて声を張り上げた。 「ハンバーグ! 今日はハンバーグ! ママのハンバーグ!」 母子から離れた駐輪場で様子を見ていた天城と大国の耳にまで届くほどの喜びようだ。 あの喜び方、きっとあの子の大好物なのだろうが、いったいどんなハンバーグなのだろうと天城が想像を巡らせている間に、母子は三階の一室に入っていった。 母子が何かの拍子に出てこないことを見定めると、天城と大国は素早く部屋と棟のナンバーを確かめ、踵を返して急ぎ恵比原の元へ戻って行った。
天城らが息を切らせて戻ってくると、恵比原は食堂のすぐ側にできた木蔭の中にサビの浮いた一斗缶を置いて腰を降ろしていた。 「はあ、はあ、御前……。お待たせして申し訳ありません……。はあ、はあ」 肩で大きく息をする二人に、恵比原は一斗缶の脇に置いていたミネラルウォーターをそれぞれ渡して労をねぎらった。 「ご苦労さん。すまなかったな。まあ、これでも飲んで一息つけ」 「ありがとうございます」と、二人がノドを水で潤し人心地ついたのを見計らって、恵比原が訊いた。 「でっ、何か分かった?」 天城は「ええっ」と口を拭いながら、これまで見たことを話した。 母親は買い物を済ませ、男の子を迎えに行ったこと。 母子の関係はとても良好であること。 男の子が今も父親を慕っていること。 母親もそのことには、特に嫌がる風ではなかったこと。 そして、今夜のおかずがハンバーグであることを恵比原に伝えた。 「うむっ。終わりのヤツはどうでもいいが、本当にそんなことを言っていたのか?」 「ええっ、確かにこの耳で『パパ、がんばってるの!』てっ。なあ、大国」 「ウゴッ」 「うむっ……」 そう断言する二人に、恵比原は腕を組んで考え込んだ。 実は恵比原、ある違和感を感じていた。 それは、幸が食堂から去る際に、盾となっていた天城の肩越しにチラッとその横顔が恵比原の目に入ると、ほんの一瞬、その口元がわずかに上がったように見えた。 (んっ、笑った……?) ふっと、頭にそんなことが浮かぶと同時に違和感も覚えた恵比原は、それを確かめるために天城らに幸の跡をつけさせた。 腕を組んでしばらく考え込んでいた恵比原が腕を解いてアゴに手をやると、ニヤリと笑った。 「こりゃ、何かあるな……」
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