季節は五月の半ばを少し過ぎた頃、春の軽やかな空気に少し湿気を含み始めた晩春の夕方だった。 この日、スーパーでの勤務を早々に切り上げた大黒は、お気に入りの『のり塩ポテチ』を手に鼻歌混じりであけぼの食堂に向かっていた。 (フフッ、フフ〜ンッ。今日はどんな風に仕上げようかな。こないだのワサビマヨは、ワサビを入れ過ぎて微妙な味になってしまったからな……) ここにも、また己の信じるねこまんま道を突き進む求道者がいた。 その求道者・大黒の目に夜の営業前のあけぼの食堂が入ると、中から薄汚れた服を着た小さな男の子が出て来た。 「おじさん、ありがとう! 今日も美味しかったです!」 思わず大黒は食堂の脇にある路地に身を潜めた。 男の子が行儀良くお辞儀すると、店の中から福住が現れた。 「そうか、またいつでも来いよ」 微笑みながら言う福住に「うんっ!」と元気良く頷くと、男の子はすぐに夕闇の中へ走り去った。 福住はその後姿を飽きることもなく見続けていた。 (あの男の子と、いったいどういう関係なんだ?) 確かめようと、大黒は路地の物陰から出て、後ろから福住の肩をポンッと叩いた。 福住が何気に叩かれた肩に目をやると、出目の幼馴染がニンマリと笑っていた。 「うわぁ!」と声を上げた福住は。思わず前に飛び跳ねた。 「なんだよ。そのリアクションは」 「どこから湧いて出て来た!」 突然背後から現れた大黒に、福住はあからさまに警戒した。 「そんな言い方ないだろう。せっかく幼馴染が来てやってんのに」 眉を寄せて文句を垂れる大黒が、諦めたように吐息をを漏らした。 「ふっ、まあ、いいや。でっ、まこっちゃん、あの子誰? 知り合いの子? まさか、隠し子じゃないだろうね?」 「バカか、お前は」と言わんばかりの冷やかな目を向けながら、福住はぶっきらぼうに答えた。 「知り合いの子でもなければ、隠し子でもない。『つの ひろみつ』という名前以外、何も知らん」 「えっ?」と驚いた顔を見せる大黒に、福住は宏充少年とのこれまでのいきさつを手短に話した。 「へぇー、それでタダで飯を食わせてやっているの。まこっちゃんも、いいとこあるね。でも、家の人はどうしてんだろう?」 「さあ、週に二、三度、来たら飯を出しているだけだからな」 「そうなんだ……」と、大黒は少年が走り去った夕闇を見て、少し顔を曇らせた。 「あの子、ひょっとしたらネグレクトされているかもしれない」 「えっ……」 思わず言葉を詰まらせた福住も不安げにその夕闇を見詰た。
夕闇の中、息を切らせて戻った宏充の目に、年季の入った木造二階建てのアパートが入って来た。 この築三十年以上は経っていると思われる昭和の臭いがプンプンするアパートの一室に宏充は父親と暮らしていた。 仄暗い通路を抜けて一階にある一番奥の部屋に着くと、宏充は合鍵を鍵穴に入れ慎重に回した。そして、音を立てないように静かにドアを開け入っていった。 宏充と父が住んでいるアパートの間取りは、六畳二間に台所、トイレに狭苦しい風呂が付いた質素な作りだった。 宏充がそーっと居間の灯りを点けると、小さなテレビとローテーブルに簡易収納ボックスと、生活に必要最小限のものだけが置かれた寒々とした部屋が現れた。 襖一枚隔てた隣の部屋では、夜通し立ちっぱなしで道路工事の交通整理を行う警備員の仕事に加え、慣れない家事に戸惑い、疲れ切った父親が泥のように眠っていた。 宏充の父親は営業職として、中堅の食品加工会社に勤めていた。 しかし、それほど会社の業績や自分の営業成績が悪いにも関わらず、リストラという憂き目に会った。 懸命に次の職を探したが上手くいかず、結局住宅ローンが支払えなくなり、ささやかな我が家を手放す羽目に。 妻はそんな夫を見限り、宏充を押し付けて家から出て行てしまった。 今では、夜間の警備員の仕事で細々とその日、その日を暮らしていた。 (お父さんは今日も夜のお仕事に行くんだろうな……。それまで静かにしなくちゃ) 夜間の警備に備えて仮眠を取る父親を気遣う宏充は、隣の部屋からテレビが置かれている台に目を移した。 宏充は足音を立てないように忍び足でテレビ台に近づきテレビの裏側を覗き込むと、そこには可愛らしい陶器製のピンクのブタさん貯金箱があった。 宏充は貯金箱を手に取ると、薄汚れたズボンのポケットから五百円玉を取り出して入れた。 チャリーン! 殺風景な部屋に思いの外大きな音が響くと、慌てて宏充はブタさん貯金箱を抱えて父親が仮眠を取る部屋を見た。 何事もなかったように静まり返る部屋に、ほっと小さな胸を撫で下ろした宏充は貯金箱をそっと元に戻した。 宏充は毎朝、父からその日の夕食代として五百円を貰っていた。 朝食は夜勤明けの父親が睡魔と戦いながら用意し、昼食は学校があれば給食、なければもう五百円貰えた。 部屋の隅に捨て置かれていたランドセルから、教科書とノートを取り出した宏充は、ローテーブルの上にそれらを置くと、明日の宿題に取り掛かった。 この春に、父親とこの街に引っ越してきた宏充は小学三年生になっていた。 同級生らは皆、ゲームやアニメ、中にはスマホやらと、日々楽しく過ごしている。 宏充にとって、そんな彼らの姿はとても眩しく見えたが、今の自分には望むべくもなく、それよりもやるべきことがあると、固く心に決めていた。 それは、父親から貰った五百円を使わずに少しでも貯めて、手放した家を取り戻すための足しにしようと考えていた。 (家が取り戻せたら、お母さんも戻ってくる。そしたら、お父さんも元気になる……) 何とも子供ぽい考えだったが、宏充は今自分にできることを何でも必死にやろうとして考えた。 そのために宏充は邪険に扱われることも覚悟して、持てる勇気を振り絞ってあけぼの食堂の前に立った。 幸い、店主は自分を受け入れてくれた。行けば何も訊かず、あったかなねこまんまとみそ汁を出してくれた。 子供心にも、そんな店主の心遣いに宏充はありがたいと感謝した。 ふっと、宿題の手を止めた宏充は父親が仮眠を取っている部屋に目を移した。 (今、お父さんはなんとかしようとがんばっている。ぼくはそんなお父さんのためにも自分のやれることをやろう) 再び宿題に取り掛かった宏充の目には、子供とは思えないほどの力強い光が宿っていた。
翌日のお昼時のささやかなピークを過ぎた食堂には、財部と小禄、そして大黒の三人だけがテーブル席に残っていた。 三人は昨日、大黒が見た宏充少年の話で盛り上がっていた。 「そうか、見ず知らずの子供に飯を食わせたやっているのか……」 涙ぐむ財部とは、対照的に小禄は眉を寄せて難しい顔をしていた。 「店長、確かに『つの』てっ言ったのかい?」 「ええっ、まこっちゃんがしかめっ面で、『つの ひろみつ』てっ言う名前しか知らないと言ってました」 「それひょっとしたら、寿野さんの息子さんじゃない? 寿野てっ名前、そうどこにでもある名前じゃないし」 その名前を確かめて少し興奮気味に話す小禄に、大黒は目を丸くして訊いた。 「『つの』てっ、一体どう書くんですか?」 「寿ぐ(ことほぐ)に、野原の野てっ、書くんだよ」 「まこっちゃんに負けず劣らず、名前負けしてますね」 容赦のない大黒の言葉に、財部と小禄はグッとアゴを引いた。 「でっ、小禄さん、その寿野さんを知ってるのか?」 財部が真顔で訊くと、小禄は重そうに口を開いた。 「実はね――」 小禄のご近所情報網によると、知り合いの大家のアパートにとある親子が転がり込んできた。 なんでも、リストラで家のローンが払えなくなり、奥さんとも離婚。息子さんを引き取って、警備の仕事でなんとか食っているという。 「でっ、その人の名前が『寿野』てっいうのよ」 話を聞き終えた大黒がふっと厨房にいる福住に目をやると、財部と小禄もつられた福住を見た。 (何となく似ている……) 確かに、嫁に見限られ住む所を失うなど、寿野と福住には共通点があった。 しかし、寿野には息子・宏充が付いて来てくれたが、福住には猫のミィーちゃん一匹しか付いて来なかった。 三人は誰が言うともなく、同じようなことを頭に浮かべながら福住をジッと見詰た。 三人の妙な視線に気が付いた福住は、厨房での片付けの手を止めて訊いた。 「んっ、なにか?」 「いやっ、なんでもない。そのまま続けてくれ」 財部が誤魔化すように笑みを浮かべて目を逸らすと、三人はまた額を寄せた。 「もし、小禄さんの話通りなら、かなりのダメ男ですね」 「そうなんだよ。職は失うは、家は取り上げられるは、挙句の果てに奥さんに逃げられるは、ダメを絵に描いたような男なんだよ」 大黒と小禄は見たことも、話したこともない寿野をコキ下した。 このように、人の思い込みとは、甚だ恐ろしいものである。 あらぬ方向へ話が逸れたので、財部が軌道修正した。 「でっ、その寿野てっ人のダメッぷりはよく分かった。問題はその息子さんをどうするかだ」 「そうだね……」と、小禄が心配そうに顔を顰めれば、大黒も口を真一文字に結んで考え込んでしまった。 子供は親を選べない。三人は寿野の息子を、なんとか手助けしてやりたいと思っていた。 しかし、寿野親子と何ら接点を持たない自分たちが、いったいどうやって手助けできるのかと考えあぐねた。 ふと、小禄が厨房にいる福住に目をやると、腕組みする財部に声を掛けた。 「ねえ、財部さん。あれに頼んでみたら?」 「えっ」と声を上げた財部に、小禄は福住を指差した。 「ほらっ、こないだの小布施さんのときも、突然、大声張り上げて訳の分からない言ってたけど、結局上手く治まったじゃない」 「確かに、小布施さんだけじゃなく、田神君のときも、なんだかんだてっ治まったな」 顔をパッと明るくして話す二人に、大黒の好奇心がくすぐられた。 「なんですか、その小布施さんてっ? 僕にも教えてくださいよ」 二人は小布施の一件を話すと、大黒は目を丸くして「へぇー、そんなことが。やるね、まこっちゃん!」と感心した。 そして、三人はまた福住をジッと見詰た。 またも変な視線を感じた福住が目を瞠って訊いた。 「なっ、何なんだ?」 顔を引きつらせてビミョーに微笑む三人は、頭を小刻みに振ると再び額を寄せた。 「財部さん、仮に寿野さんに会えたとしても、我々のように真っ当に生きている人間の言葉を聞くでしょうか?」 真顔で訊く大黒に、財部は腕を組んで眉を寄せた。 「そうだな、会ったことがないから何とも言えないが、小禄さんの話じゃ、かなり辛い目に会っているからな。それで性根が捻じ曲がってたら、聞く耳なんか持ってないだろう」 小禄が無言で寂しく頷くと、大黒はカッ!と出目を一層見開いた。 「だったら、『毒を以って毒を制す』の如く、『ダメ男にはダメ男を』というのはどうでしょう?」 この大黒の提案に財部と小禄は「えっ?」と思わす声を漏らしたが、これまでの食堂の切盛りや福住の活躍(?)などを検討し、何よりダメ男にしか分かり合えない何かがあると結論付けた三人は、この件を福住に押し付けることにした。 そして三たび、福住に目をやった三人はジッと見詰た。 さすがに三度目となると、福住もイラッとした。 「だから、何なんだ!」 奥の部屋で、この様子をあぐらを掻いて眺めていた福の神がアゴヒゲを撫でながらほくそ笑んでいた。 「ミィーちゃん。何やら、面白いことになってきたぞ」 傍らに腰を降ろしていたミィーちゃんは、少し鼻にシワを寄せて心配そうに主を見守っていた。 財部が「ちょっと」と手招きすると、福住はしかめっ面で厨房を出て三人のいるテーブル席の前に立った。 「何ですか、さっきから引っ掛かるんですけど」 「いや〜っ、手を止めさせて、すまないね。誠君、実は頼みがあるんだ」 ご機嫌斜めな福住に苦笑いを浮かべて頼む財部に、小禄と大黒も続いた。 「あんたにしかできないことなんだよ」 「うんっ、まこっちゃんにしかできない」 何を企んでいるんだと、警戒心をあらわにして福住は訊いた。 「でっ、何ですか。頼みてっていうのは?」 「うんっ、ここによく来る男の子のことなんだが……」 いつになく歯切れの悪い財部の口ぶりに、福住はさらに警戒心を募らせた。 「宏充のことですか……?」 「そうそう、その宏充君のことなんだ。まあ、正確に言うと、その子のお父さんのことなんだが……」と、財部はこれまで小禄から聞いていた宏充の父親のことを話した。 しかし、いきなり出てくる宏充の父親の話に、福住は目をしばたたかせていた。 「そのお父さんになっ、こないだの小布施さんみたいに目が覚めるような言葉というか、格言ぽいやつでもいいんだが、掛けてやっちゃくれないか?」 「はぁ?」 財部の言葉に面食らった福住は思った。宏充に飯を食わせているだけ、なぜその父親にまで関わらなければならないのかと。 「なんで俺がそんなことしなきゃならないんですか?」 至極当然な福住の反応に、財部は禿げ上がった頭を掻きながら、さらに拝み倒した。 「まあ、そう言われりゃそうなんだが、あの子のためにも一肌脱いでくれないか?」 「冗談じゃない! 自分のことだけで一杯一杯なのに、そんな面倒な事に首を突っ込む余裕なんて、ありませんよ!」 声を荒げて踵を返す福住の背中に、財部の野太い声が突き刺さった。 「可哀相だとは思わないのか」 この一言にピタリと動きを止めた福住がそーっと振り返ると、これ以上ないくらい怒気で膨れ上がった三人の顔が並んでいた。 「田神君や小布施さんは助けても、あの子は助けられないてっ言うのか! そんな薄情な奴だったのか! えっ、どうなんだ、誠君!」 「あんた! これを断ったら、人じゃないよ! 鬼畜生だよ!」 「まこっちゃん、ダメ男同士、分かり合える何かが、きっとある!」 「うっ……」 三人に罵詈雑言を浴びせられた福住はまたも思った。見ず知らずの子供にタダで飯を振舞っただけで、なぜ、ここまで言われなければならないのかと。 そんな三対一という圧倒的に不利な状況に陥った福住の元に、ミィーちゃんに跨った福の神が現れた。 愛らしく福々しいミィーちゃんを目にした途端、三人は席から立ち上がり、一斉に頼み込んだ。 「ミィーちゃん、いい所に来た! このわからず屋に『助けてやれ』てっ、言ってくれ!」 「私からもお願いするよ。この冷血人間に言ってやっておくれ!」 「ミィーちゃん、君ならできる!」 もはや見境もなく猫にまで懇願する三人の姿に、ミィーちゃんの背に乗った福の神は、口を半開きにして呆れ返っていた。 ちなみに、彼ら三人の目には福の神の姿は映らない。 呆れ顔の福の神が「ふっ」と鼻で軽く吐息を漏らすと、福住に目を移した。 「なあ、手を貸してやったらどうじゃ。こんなにもお前を頼りにしとるんだぞ、ダメ男のお前をなっ」 (えっ……) 確かに、福住の自分史上、これほどまで他人に頼りにされることなど皆無だった。 薄っすら笑みを浮かべる福の神を見詰たまま固まる福住を、不審に思った大黒が訊いた。 「ミィーちゃんがどうかしたの?」 「いっ、いや、何でもない」 慌てて三人に振り返る福住の後頭部に向かって、福の神が乱暴に言葉を投げ付けた。 「ワシも付いとる。やってみろてっいうか、やれ! やらんと言うなら、これ――」 (わっ、分かりました! やります、やらせていただきます!) 逆らえば唸りを上げて飛んでくる竿に、福住はもはやパブロフの犬並みに成り下がっていた。 結局、福の神に乱暴に背中を押された福住は、渋々三人の頼みを承知した。 その日、財部、小禄、大黒は夕方まで粘ったが、宏充少年が現れることはなく、三人は後ろ髪を引かれる思いで食堂を後にした。 夜の部が始まると、福住はいつもと変わらず切盛りし、客が引けると店仕舞を始めた。 淡々と作業を進める福住に、奥の部屋から福の神が声を掛けた。 「ご苦労さん。今日も何とかやり切ったようじゃな。お客さんも喜んどった」 表から外した暖簾を手に、出入り口を閉めて中に戻ってくる福住が「ええっ、そうですね」と答えた。 「でっ、どうして、あのことを三人に話さなかたんじゃ?」 問われた福住は暖簾をテーブル席に置くと、宏充と交した約束を思い返していた。 宏充は福住からタダでみそ汁付きのねこまんまが食べさせてもらえると、父親からその日の飯代として貰っていた五百円をブタさん貯金箱にこっそり貯め込んでいた。 こうして浮かしたお金を少しでも家を買い戻すための足しにしようとしていた。 初めて、このことを打明けられた福住は、なんとも子供じみたやり方だと思ったが、宏充にとっては、バラバラになってしまった家族を取り戻す戦いでもあることに気付いた。 (ここにも無茶を承知で、頑張ってる小さな戦士がいる……)と、何か自分と通じるものを感じた。 このことは誰にも話さないで欲しいと頼む宏充に、福住は「ああっ、男同士の約束だ」と、力強く頷いた。 テーブルに置かれた暖簾に目を落としたまま、福住はポツリと呟いた。 「約束ですから……」
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