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作品名:ねこまんま食堂 作者:真柴 文明

第18回   十八.放てば手に満てり
(うっ……。少し飲み過ぎたな、頭が痛い……)
 二日酔いから目覚めた小布施 和幸(六八歳)は掛けていた毛布をはぐって身体を起こすと、ショボショボする目を擦りながら、寝ていた八畳ほどの居間を見回した。
 居間のローテーブルの上には、昨日飲んだ空になった数本の缶ビールとおつまみの袋が無造作に置かれ、飲みかけのお茶のペットボトルは畳みの上に転がり、新聞の折込広告は部屋の至る所に散乱していた。
(いかんな息子夫婦が帰った途端、この有り様では……)
 散らかり放題の部屋を見て、頭を掻きながらそう胸の裡で呟く小布施はヨロヨロと立ち上がると、覚束ない足取りで台所へ向かった。
 台所に着くと、小布施はヤカンを火に掛けて、椅子に腰を降ろし、何をするでもなく、ただボーッと青い炎を見ていた。
 やがて、ヤカンの口から湯気がゆらりと立ちに上ると、火を止めて急須に注ぎ、湯呑みにお茶を入れた。
 湯呑みを手に小布施は居間の隅にある仏壇の前に正座し仏壇の扉を開けると、手にしていた湯呑みを仏前に置き、鈴を鳴らして手を合わせた。
 チーン……。
(美子、お前が死んでもう三年になるが、いつになったら迎えに来てくれんだ……)
 小布施は三年前に妻・美子を急性心不全で亡くしていた。
 二人に間には一人息子がいたが、結婚を機に家から離れ仕事の関係で今は遠方に住んでいた。
 息子夫婦は毎年、お盆や年末・年始、ゴールデンウィークなどには帰って来てくれた。その時は久々に孫の顔も見れて楽しい一時を過せたが、帰った後は祭りが終わったような侘しさだけが残った。
 息子夫婦は一緒に暮らさないかと言ってくれたが、小布施は亡き妻と過したこの家から離れる気になれなかった
 仏壇に手を合わせていた小布施が「んっ?」と腹に手を当て、壁に掛かっていた時計に目をやった。
「お昼前か……。どうりで腹も減るわけだ……」
 独り言のように呟くと、小布施はまたヨロヨロと立ち上がり、薄手のジャンバーを羽織って家を出た。
 外は爽やかに晴れ上がった五月の空を高く舞うツバメや、川に沿って咲き乱れる草花の間を縫うように、紋白蝶がヒラヒラと浮かんでいた。
 しかし、そんな春らしい風景には関心がないのか、小布施は背中を少し丸めてトボトボと歩いていた。
(さてと、トリイで適当に弁当でも買うか……)と、思った小布施の丸めた背中に遠くの方から声がした。
「おーいっ、小布施さん。待ってくれーっ!」
 小布施が力なく振り返ると、でっぷりと太った体を揺らしながら、財部が小走りこちらに向かっていた。
「あっ、財部さん。どうしたんです?」
 長年この街で青果店を営み、今は町会長も勤める財部は、小布施とは古くからの顔見知りだった。
「はあ、はあ」と、息を切らせた財部が追い付くと「いや〜っ、相変わらず歩くのが速いね。私も小布施さんみたいに痩せたいよ」
 大きく出た腹を撫でながら、財部は年相応にスマートな小布施に微笑んだ。
「いやっ、私もそれなりに腹は出てますよ。でっ、何ですか?」
「あっ、それなんだが、お昼はもう済ませたのかな?」
「いえっ、これからトリイで弁当でも買おうかと」
「丁度よかった。それなら、一緒にあけぼの食堂に行かないか?」
「えっ、あけぼの食堂ですか? 確か閉めて、随分時間が経っているはずですが……」
 怪訝な顔をして訊く小布施に、財部はあけぼの食堂がねこまんま食堂として再開したことを告げた。
 そして、今その存亡を賭けて孫の福住が懸命に切盛りしていることも伝えた。
「そうですか……。それはまた、大変ですね……」
 とても勝ち目のない勝負だと小布施は思ったが、財部は禿げ上がった頭を掻きながら頼んできた。
「なあ、小布施さん、幸造さんと寿賀子さんの供養代わりに一緒に応援してやてくれないか?」
 そう頼まれた小布施は宙に目をやった。
(そういえば、初めて行ったのも今時分だったなあ……)
 小布施は宙に目をやったまま、亡き妻と連れ立って週末よく食堂で食事をしたことを思い出していた。
 当時、小布施はまだ現役のサラリーマンだったが、息子は地方の大学で寮生活を送っていた。そのためか、夫婦二人暮らしの食事は、どこか味気ないものになっていた。
 そこで小布施は「月に何回か外で食事しないか? あまり高い所は無理だが」と妻・美子に訊くと二つ返事で答えが返ってきた。
「それならあなた、あけぼの食堂がいいんじゃない」
「あけぼの食堂?」
「ええっ、ご近所で評判のお店よ。なんでも、ご主人が一流料亭の元・板長なんですてっ」
 顔を綻ばせて話す美子に、「本当なのか?」と、小布施は少し眉を寄せた。
「うんっ。大衆食堂でよく出てくる料理ばかりなんだけど、一口食べると何かが違うんですてっ。近所の人たちが言ってたわ」
「高くないのか? 板長まで務めた人が作るんだろう?」
「大丈夫よ。そんなに高くないてっ。それに大衆食堂よ、高かったら誰も寄り付かないわ」
 小布施はアゴに手を当てて「それも、そうだな」と、あけぼの食堂へ美子と週末に行くことにした。
その週末の夕方、姿見の前で盛んに身体を左右に振りながら、お気に入りの淡いピンクのワンピースで少し着飾った美子が訊いた。
「あなた、これどうかしら?」
「えっ? 近所の食堂に行くだけだろう。そんなにめかし込むもないだろう」
「だって、あなたと出かけるなんて久しぶりだもの」
 小娘のように口を尖らせて、ピンクの傘が開いたようにクルリと回る美子の姿に、思わず小布施もふっと笑みがこぼれた。
 春の夕暮れ、川沿いを並んで歩きながら出会った頃や新婚時代の懐かしい思い出話していると、不意に美子が小布施に腕組みをした。
「これ、よさないか」と小布施はたしなめたが、美子は「いいじゃない。誰も見てないわよ」とまるで相手にしなかった。
 そうこうしている内に、二人はあけぼの食堂に着くと、ガラス格子の引き戸越しに店内を見回した。
 店の中は、仕事帰りのサラリーマンや作業着姿の労働者、親子連れに学生など、実に様々な人々で埋まっていた。
「思った以上に混んでるな。どうする?」
「そうね……」
 店の前で入るか決め兼ねていた二人に気付いた寿賀子が、笑顔で声を掛けながら近づいてガラス格子の引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、今席を作りますから」
 二人を中に入れた寿賀子は、逆L字カウンターの左端で瓶ビールをコップでチビチビ飲んでいる作業着姿の若い男に声を掛けた。
「ケンちゃん、明日も早いんでしょう? もう、そのくらいにしといたら?」
「えーーっ! もう少し飲ませてくれよ!」
 眉を寄せて拒む作業着姿の若い男に、厨房の奥から重く低い声がした。
「おいっ、ケンジ。飯食ったら、とっとっと帰れ。うちは飲み屋じゃねえ」
「チェッ!」と、舌打ちしたケンジが渋々席を空けると、店を出る際、出入り口に立っていた小布施と美子を横目でジロリと睨み付けて出て行った。
 空いたカウンター席の片づけを終えた寿賀子が「どうぞ」と二人を席に案内した。
 二人が席に着くと、寿賀子すぐに水の入ったコップを持って来た。
「すいませんね。本当はいい子なんですよ。でもね、親方がちょっと厳しい人なんで……」
 二人の前にコップを置きながら、まるで我子を気遣う母親のように、寿賀子は優しい目をしていた。
 そこにまた、厨房の奥から重く低い声がした。
「他人様が寝起きする家を作ってんだ。厳しいくらいで丁度いい」
 とんでもないと所に来たかもしれないと、目をしばたたかせる二人に、寿賀子が首をすくめながら「気にしないで下さいね」と微笑んだ。
「でっ、何にしますか?」
 メモを片手に訊く寿賀子に、小布施は店内の壁に貼られたお品書きに目を移しながら訊いた。
「えーっと、おすすめは何ですか」
「そうですね……。別にコレといってないですけど、今日の日替わり定食は『チキンの甘酢照り焼き』です。どうですか?」
 甘酢と聞いた途端、小布施が少し眉を寄せると、美子は思わず助け舟を出した。
「あっ、すいません。ウチの人、お酢がダメなんです」
「そうなんですか。じゃあ……」
 寿賀子が壁のお品書きを見ながら少し考えていると、厨房の奥から例の声の主が小皿を手に現れた。その小皿の中には淡い琥珀色をしたお酢のようなものがあった。
「ご主人、これ小指ですくって舐めてみてください」
 声の主こと幸造が無愛想に、カウンター越しに小皿を小布施に手渡した。
 受け取ったものの、お酢特有のツンとした風味が大の苦手である小布施は少し躊躇った。
 幸造が「大丈夫ですよ。そんなに尖ってませんから」と穏やかな口調で勧めると、小布施も「じゃ、少しだけ」と小指の先を小皿に漬けて口に運んだ。
「んっ? なんですか、これ?」
「お酢ですよ」
 小皿を持ったまま目を瞠る小布施に、幸造はニヤッと口元を緩めた。
「お酢に出汁昆布を漬けて一晩置くと、結構角が取れるんですよ」
「へーっ、そうなんですか。これなら、私でも大丈夫です」
 嬉しそうに答える夫見て、美子も「どれどれ」と小皿に小指を漬けて確かめてみた。
「本当ね。酸味が程よく抑えられて、とっても円やかだわ」
 目を丸くする美子に、小布施も微笑んで頷いた。
 傍らにいた寿賀子が堪らず「すいません」と、小布施が手にしていた小皿のお酢に指先を漬けてぺロッと舐めてみた。
「へーっ、お酢なのに、とってもマイルドね」
「ひょっとしてお前、知らなかったのか?」
 感心する寿賀子に、幸造は口をへの字に曲げていた。
「だって、ここで料理するのはあなただし、私が何か言ったら、『余計な口出しするな!』てっ、目を剥いて怒るじゃない」
「…………」
 二人の妙な掛け合い見ていた小布施が「あの、すみません」と困り顔で割って入った。
「あらっ、いやだ。私達ったら、お客さん放ったらかして。すいません」
 照れ笑いする寿賀子が改めて注文を訊くと、小布施は迷わず「チキンの甘酢照り焼き」を二人分注文した。
 小布施から小皿を受け取った幸造は「ありがとうございます」と一言残すと、踵を返して調理に取り掛かった。
 幸造は冷蔵庫から鶏のモモ肉大を取り出すと、素早く包丁の刃先で臭みの元になる余分な脂肪を取り除くと、身の厚い部分に包丁を入れて、焼きムラが出ないように全体の厚さを揃えて身を開いた。
 鶏肉の下処理が終わると、フライパンでサラダ油を熱し、鶏もも肉を皮の面から焼き始めた。
 幸造は皮がきつね色になるの見計らって裏返し軽く火を通すと、一旦火を止めて余分な油をキッチンペーパーで拭き取り、例のお酢をコップ半分ほどフライパンに入れた。
 ジュワ!と、けたたましく叫ぶフライパンなどお構いなしに、再び火を入れ、お酢が泡立ち始めると中火に落とした。二、三度肉を引っくり返しながら、お酢にとろみが出始めると、幸造は焦げ付かないように、弱火にしてきつね色になるまで、じっくり煮詰めた。肉に鮮やかなきつね色が浮かぶと、幸造は火を止めて取り出し、一口大に切り、付け合せのキャベツの千切りが盛られた皿に丁寧に盛った。
 仕上げにフライパンで煮詰めたタレを掛けて、「チキンの甘酢照り焼き」の完成である。
 幸造はチキンの甘酢照り焼きにごはんとみそ汁を付けると「あがったぞ」と寿賀子を呼んだ。
 受け取った寿賀子は慣れた手付きでカウンターの隅で待つ二人の前にそっと置いて「ごゆっくり」と微笑んだ。
 目の前に置かれたチキンの甘酢照り焼き定食を見て小布施と美子は顔を綻ばせた。
「きれいなきつね色。ねえ、あなたもそう思うでしょう?」
「そうだな。美味そうだな」
 二人は顔を綻ばせたまま「いただきます」と手を合わせた。
 小布施はまず、こんがりきつね色に仕上がったチキンをパクリと口に入れると、傍らにいた美子が心配そうに見詰ていた。
「ねえ、あなた大丈夫? 無理なら、別のもの頼んでもいいのよ」
 小布施はゴクリと飲込むと、
「何を言っているんだい。こんな美味しいチキンの照り焼きなんか他では食べられよ。ツンとしたお酢の風味が気にならないし、むしろ、食べた後に爽やかに鼻を抜けて、本当に美味しいよ」
 目を細めて食レポのように語る夫を見て、美子も「じゃあ」と一口食べると「うんっ!」と頷いた。
「本当に、さっぱりとしてて食べやすいわね、あなた」
「だろう」
 二人は何度も頷き合いながら、食事を楽しんだ。
 食事を終えて満足げな顔を見せる二人が「ごちそうさまでした」と手を合わせたのを見て、幸造は厨房の奥から出て来た。
「どうでした? チキンの甘酢照り焼きは?」
「はいっ、とっても美味しかったです!」
 薄っすら笑みを浮かべて訊く幸造に、小布施は目を輝かせて答えていた。
「驚きました。こんなどこにでもある大衆食堂で、こんなにも美味しい料理が頂けるなんてっ……、あっ!」
「あなたっ、なんてことを言うの!」
 大急ぎで手を当てて口をつぐむ小布施と困り顔で「すいません……」と小声で謝る美子に、皿を引きに来た寿賀子が微笑んだ。
「いいんですよ。本当にどこにでもある飯屋ですから」
「んっ。まあ、確かにどこにでもある飯屋だな」
 幸造も別に気にするでもなく頷いた。
 小布施は気まずそうに「失礼しました」と小さくなりながら幸造に訊いた。
「あの、元・一流料亭の板長だと妻から聞いたんですが、本当なんですか?」
「ああっ、そうだよ。赤坂の花菱てっ店だ」
「えっ! あの超の付く一流料亭じゃないですか!」
「そんなにすごいお店なの?」
 目を見開いて訊く美子に、小布施は花菱がいかに名店であるかを説明した。
 日本料理・花菱は赤坂界隈でも名の通った名店である。顧客は主に政治家や大企業の役員、成功を収めた実業家など、世間から名士と呼ばれている者で占められていた。
 当然、「一見さんお断り」で誰かの紹介なしには敷居も跨がせてくれない、とても格式の高い店である。
 小布施のような一介のサラリーマンからすれば、そんな雲の上の名店で板長まで登り詰めた人間が「どうして?」と、疑問を持つのは至極当たり前のことだった。
「なぜ、料理人としてある意味、頂点を極めた方が大衆食堂をやってるんですか?」
「う〜んっ、そうだな……」
 真顔で訊く小布施に、幸造はアゴを掻きながら考え込んだ。
「まあ、あんまり高い所にいると、客の顔が見えなくなるからな。だから、降りることにした」
「えっ? 客の顔が見えないてっ、どういうことなんですか?」
「確かに板場にいたら、料理には集中できる。でもなあ、だんだん味気なくなってきた。まあ、空になった皿や御椀を見りゃ、それなりに嬉しいんだが……」
 幸造は言葉を濁すと、小さく吐息を漏らした。
「ふっ、なんか実感がないてっいうか、張り合いがなくなってきた。たまに座敷に呼ばれて挨拶に行くんだが、『板長、楽しませてもらいましたよ』てっ、お偉い先生に言われてもなあ、そいつがどんな顔で食っているのか、まるでピンとこなかった」
 突然、「最悪なのは――」と幸造の目がきつくなると、小布施は思わずブルッと、小さく身を震わせた。
「最悪なのは料理を残す奴だ。一体なにが気に食わなかったのか、さっぱり分からねえ。顔が見えりゃ少しは分かるんだがな……」
 苦虫を潰したような顔で話す幸造に、小布施は恐る恐る訊いた。
「つっ、つまり、お客さんの顔を見てながら料理を作りたい。だから、このお店を出した……と?」
「ああっ、そうだ。こんだけ近けりゃ、顔どころか声まで聞こえる。そんだけ張り合いが出るてもんだ」
「そんな理由で……」
「そんなもんだ。納得したかい?」
 先程までのきつい目を解いて幸造の顔がパッと明るくなった。
 そんな幸造に小布施は半ば呆れながら訊いた。
「でも、大変だったんじゃないですか? 高級料亭と大衆食堂では、扱う食材から客質まで、まるで違います」
「いちいちそんなこと気にしていたら、すぐに干上がちまう。この土地で店やんなら、この土地に合わせりゃ済むことだ」
「ええっ、そのせいで私は板長婦人から飯屋の女房になってしまったんですからね」
 唐突に話に割って入ってきた寿賀子が微笑みながら、子供のように口を尖らせていた。
「そりゃ悪かった。すまねえ」
 苦笑いを浮かべて軽く頭を下げる幸造に、寿賀子が小さく吐息を漏らした。
「別にいいわよ。あんたみたいな男と所帯を持ったときから、覚悟してたわ」
「そうか、ありがとよ。これからも、よろしく頼む」
「はい、はい」
 二人の微笑ましいやり取りを見ていた美子が「いいご夫婦ね」と嬉しそうに呟くと、小布施も目を細めて頷いた。
 客の顔を見ながら料理が作りたい。
 ただ、それだけの理由で一流料亭の板長という頂から降り、何気ない市井の日々の暮らしにスッと溶け込み、人々と交わりながら自らが培った技量と経験を生かす。
 小布施は幸造に、そんな心意気のようなものを感じていた。
 今、その孫が食堂の存亡を賭けて戦っている。
「小布施さんどうした? なんかボーッとして、大丈夫か?」
 財部が気遣うように訊くと、小布施は少し慌てて手を振った。
「いえっ、なんでもありません。少し昔を思い出しただけなんで……。こんな私でよければ、いくらでも協力しますよ」
「そうかい。恩に着るよ。じゃ、行こうか」
「ええっ」
 小布施の快諾に気を良くした財部は軽い足取りで食堂に向かった。
 食堂の前に着くと、小布施は昔を懐かしむように店を見回した。
(あの頃と、あまり変わってないな……。んっ?)
 店を見回していた小布施の目が例の文言が書かれたチョークボードで止まった。
「好き勝手にあなただけのねこまんまを楽しんで下さい……? 財部さん、どういうことなんですか?」
 きょとんとした顔で訊く小布施に、財部は「入れば、分かるよ」と笑みを浮かべて店に入ると、小布施もそれに続いた。
 中に入ると昔のままの雰囲気に、小布施は自然と亡き妻と訪れた日々を思い出し、目頭が熱くなるのを慌てて堪えた。
 店は客でそこそこ埋まっていた。その中には小禄や加宮の姿もあり、それぞれ気心の知れた友人達とねこまんまを楽しんでいた。
 財部と小布施は出入り口に近いカウンター席に着いた。
 奥の部屋でミィーちゃん相手に、あぐらを掻いて竿で遊んでいた福の神が小布施に目を留めた。
「なんじゃ、しょぼくれた奴が入って来たな」
 ミィーちゃんを相手にする手を止めずに福の神はボソリと言った。
 福住が「いらっしゃい」と水の入ったコップを二人の前に置くと、財部が「誠君、とりあえず、ごはんとみそ汁、二つづつ頼むよ」と注文を出した。
 注文を受けた福住は「ありがとうございます」と、踵を返して取り掛かった。
「財部さん、以外にお客さん入っていますね。ねこまんま食堂と聞かされていたので、もっと寂れているのかと思っていました」
 少し驚いた顔で店内を見る小布施の前にゆったりとした湯気の立つごはんとみそ汁が置かれた。
 福住は「ごゆっくり」と軽く会釈して、すぐにその場から離れた。
「財部さん、あれが例の?」
「ああっ、幸造さんと寿賀子の孫、誠君だ」
 小布施は奥に下がる福住を目で追いながら、少しやつれてはしているが、その目には力強いものを感じていた。
「さあ、まずはみそ汁から味わってみてくれ」
 財部に勧められて小布施はみそ汁を口にしてみると、思わず目を瞠った。
 それを見て、財部も一口すすると「うんっ」と頷いた。
「雑味がなく、風味とコクがより深くなっている。また腕を上げたな」
 奥で洗いものをしていた福住がニヤッと口元を緩めて「練りゴマを少し入れてみたんです」と隠し味を明かした。
 その顔を見た小布施は、やはりあの幸造の孫だと思った。
 ちなみに本日の具は、豆腐と油揚げ、もやしである。
「小布施さん、飯も食ってみなよ」
 財部に言われるままに、あったかごはんを少し口に運ぶと、またも小布施は目を瞠った。
(なんてモッチリしてるんだ。それに噛むたびにほんのりと甘みが口中に広がる感じがする……)
 妻の美子が亡くなった当初、小布施も自炊をしていたが、次第に億劫になり、今ではスーパーの弁当や惣菜で済ませていた。
 そんな雑な食生活を送っている小布施にとって、これだけもご馳走に思えた。
(美味いみそ汁とあったかごはん。これだけでも十分お金が取れる)と納得しながらも、小布施は表の看板の文言が気になっていた。
「あのっ、財部さん。ここのみそ汁とごはんが美味しいことは分かりましたが、『好き勝手にあなただけのねこまんまを楽しんで下さい』てっ、どういことなんですか?」
 不思議そうに訊く小布施に、財部は手短にねこまんま食堂の楽しみ方を説明した。
「えっ、本当なんですか? 持込もOKなんて」
「ああっ、本当だとも。あのスナック菓子なんかスーパー・トリイの店長のだ。なあ、誠君」
 財部の呼びかけに福住がチラッとカウンターと厨房野の仕切りに目を移すと、そこには様々な缶詰めや調味料の他に「大黒専用」と黒のマジックでデカデカと書かれたポテチと駄菓子が置かれていた。
「ええっ、あのバカが置いていきました」
 福住は白けた目で吐き捨てるように言った。
 ようやくあの看板に書かれている意味が分った小布施は、店の中を改めて見回した。
 小禄と友人らしき年配男性は、あったかごはんに温泉玉子と納豆をぶっ掛け、学生風の男二人はうまか棒にドレッシングを掛けるなど、皆思い思いにねこまんまを楽しんでいた。
 小布施がいることに気付いた小禄が「あらっ、小布施さん、お久しぶり。元気にしてた?」と明るく声を掛けた。
 小禄もこの街に長く暮らしているので、財部と同様、小布施とは古くからの顔見知りである。
「家に閉じ篭ってばかりじゃ、ダメだよ。たまには外に出なきゃ」
「ええっ、そうですね……」と、気まずそうに返事をする小布施に、小禄はねこまんま作りを勧めた。
「あんたもやってみたらどう? 結構楽しいわよ」
「えっ? 私が作るんですか?」
「そんなに難しいもんじゃないよ。あんな風に適当に何か飯にぶっ掛けりゃいいだけだ」
 ここ何年も自炊から離れて戸惑う小布施に、財部は二杯目のごはんに違う駄菓子を乗せて新たなねこまんまに挑戦する学生四人をアゴで指した。
 小布施はそんな四人を見て微笑んだが、どこか寂しそうだった。
 店に入ってからの小布施を、それとなく見ていた福の神の眉が少し寄った。
「ミィーちゃん、あの覇気のない爺さん、何かあるようじゃな」
 不機嫌な顔で話す福の神に、ミィーちゃんは「ミャ?」と、首を傾げた。
 財部に背中を押された小布施は何を乗せようかと考えると、ふっと、亡き妻・美子の得意料理が頭に浮かんだ。
 美子はツナ缶使った時短料理が得意で、サラダやパスタ、酒の肴など手早く美味しく出してくれた。
「あっ、あの、すいません」と、躊躇いがちに声を掛ける小布施に気付いた福住は洗いものの手を止めて駆け寄った。
「なにか?」
「すいません。そこのツナ缶をもらえませんか?」
 福住は「毎度あり」とカウンターに置いてあったツナ缶を小布施に手渡し、今度はスープジャーの中のみそ汁の様子を窺った。
 が、受け取ったものの、小布施はツナ缶を手にしたまま考え込んでしまった。
(さてっ、何をどうしていいのか、見当もつかん……)
 腕を組んでツナ缶とにらめっこする小布施を見た財部が、みそ汁の様子を見ていた福住を呼んだ。
「おいっ、誠君。ちょっと」
 福住が声の方へ目をやると、財部がこっち、こっちと小布施を指していた。
「どうしました?」と訊きながら近づく福住に、財部は「ちょっと、手を貸してやってくれないか?」と頼んだ。
 福住が頷くと、財部はツナ缶を前に難しい顔をして腕組みする小布施の肩をポンッと叩いた。
「小布施さん、ここは一つ専門家に任せてみないか?」
「えっ?」と小さく声を上げる小布施の前に、福住が笑みを浮かべて立っていた。
「あっ、すいません。頼んでみたものの、わからなくて……」
「専門家じゃありませんが、別にこれといったルールはありません。飯にツナ缶ぶちまけて、お好みのドレッシングなんか掛けて混ぜても構いません」
「はぁ……、そんなもんですか……」
 どこか要領を得ない返事する小布施は、ボンヤリとツナ缶に目を落とした。
 何を戸惑っているのか分からない福住は少し焦れた。
「あのっ、よければ私に任せてもらえませんか?」
「えっ?」と小さな声を上げた小布施は、申し訳なさそうにツナ缶とあったかごはんを福住に渡した。
 ツナ缶とごはんを手にした福住は、踵を返して作業台にそれらを置くと、冷蔵庫からマヨネーズと貝割れ大根を取り出した。
 福住はツナ缶を開けて中の汁気を軽く切り、ボールの中に半分のツナと貝割れ大根を入れるとマヨネーズを掛けてほどよく和えた。
 次にマヨネーズで和えたツナと貝割れをあったかごはんに乗せ、醤油を掛け回して軽く黒コショウを降って「ツナマヨねこまんま」の完成である。
 福住は缶に残ったもう半分のツナを削り節で和え、それに軽くワサビ醤油を掛けて、手早くツナ缶のおつまみも作った。
 その二品を手に福住が「お待たせしました」と、カウンター越しに置くと、あまりの速さに小布施は目を丸くした。
「えっ、もう出来たんですか?」
「小布施さん、ねこまんまだよ。それほど手間は掛からない」
 横にいた財部が目を細めていた。
 財部に「さあ、あったかいうちに」と促された小布施が一口ねこまんまを頬張った。
(んっ! ツナの風味を残して美味く和えてある。それに貝割れの辛味と黒コショウがさっぱりとして、それほどツナマヨが後に引かない)
 小布施は目を瞠ったまま、二口、三口と立て続けに頬張った。
 うんっ、うんっと頷きながら、ねこまんまを食べるうちに、小布施は亡き妻・美子の手料理を思い出していた。
(美子も一手間加えたツナ料理をよく出してくれたな。安月給の私に文句も言わずに、やりくりして家計を支えてくれていた。息子を一人前に育て上げることができたのも、お前がいたくれたからだ……)
 小布施の頬に涙が一つを伝った。ゴクリとねこまんまを飲み込むと、小布施の目に熱いものが溢れ出した。
 一旦、想いと共に溢れ出すと、堪えようもなく小布施は誰に憚ることなく、茶碗と箸を置いて背中を震わせながら嗚咽を漏らした。
(うっ、うっ……。美子、どうして死んだんだ。これから二人でやろうと約束したことを私一人でどうしろというんだ……。美子!)
 深く沈んだ心の声を聞いた福の神は眉を寄せて溜息を吐いた。
「ふっ、人というものはどうしてこうも、どうにもならんことにしがみつくのか、さっぱり分からん」
 首を垂れたまま静かに涙を流す小布施に、福住は戸惑いながらも掛ける言葉を捜したが、財部は悲しい目でそれを制した。
 ひとしきり泣いた小布施が顔を上げ、涙を拭いながら気恥ずかしそうに謝った。
「いやっ、お恥ずかしい姿を見せてしまって申し訳ない」
「いえっ、まあ…、その……」
 どう答えていいのやら困惑する福住を見て、財部が小布施に訊いた。
「美子さんが亡くなって、何年になる?」
「来月で、もう三年になるかな。心不全であっという間だった……」
 そう言うと、小布施は沈痛な面持ちでサラリーマン生活をなんとか勤め上げられたのも妻支えがあったからこそ、定年後は温泉旅行や妻の趣味である庭の手入れを手伝ったりして老後を楽しく過そうと約束していたことを話した。
 それが突然、妻の死と共にガラガラと音を立てて崩れ去った。
「妻が亡くなってからといもの、近所付き合いも、まともにできない会社人間だったことを思い知らされました……」
 こうなると、生活は乱れ、部屋は散らかり放題、庭の草花も枯れて無残な姿になった。
 重く暗い空気が食堂を覆った。誰もが箸を止め、どう声を掛けてやればいいのか戸惑った。「掛ける言葉もない」とは、まさにこのことだった。
 奥の部屋でミィーちゃんといた福の神が、やれやれという顔をしていた。
「ミィーちゃん、ワシは福の神なんで、湿っぽい話が苦手なんじゃ。ちょっと行ってくる」
 ミィーちゃんが「ミャ?」と首を傾げて鳴くのと同時に、福の神はフッとその姿を消した。
 次の瞬間、福の神は福住の肩口に音もなくスッと現れた。
 福の神に気が付かない福住は、腕を組んだまま困り果てていた。
(う〜んっ、まいったなこりゃ。仲のいいご夫婦だったんだろうな。俺には想像もつかない……)と、鬼嫁の顔を頭に浮かべた福住は、打ち消すように頭を小さく振った。
「おいっ、ワシじゃ」
 その声に驚いた福住が肩口に目をやると、眉を寄せて口をへの字に曲げた福の神がいた。
(うわぁ……、出た……)
「なんじゃ、その口の利き方は。ワシはお化けとか妖の類ではない」
(すっ、すいません。神様、今ちょっと取り込んでいまして、もう少し後にしていただければ、ありがたいんですが……)
「なにゴチャゴチャ言っとるんじゃ。いいか、今からワシが言うことを、このしょぼくれた爺さんに言ってやれ」
(えっ! またですか?)
 福の神が不機嫌な顔のままアゴをグッと引いた。
(無理です。この前の田神さんとは訳が違う。こっちは長年連れ添った奥さんを亡くされているんですよ)
「だから、なんじゃ?」
 肩口で仁王立ちする福の神がいきなり例の竿先をピッ!と、福住の鼻先に向けてニヤリと笑った。
「嫌なら、これじゃ」
「うっ」と、息を呑んだ福住は腕を組んだまま首を垂れて(わかりました……)と力なく答えた。
 福の神は「うむっ、では」と頷くと、竿を振り上げ言い放った。
「一に掃除、二に信心じゃ! それ、言え!」
 福住は覚悟を決めた。これから自分より遥かに年長者の小布施に訳の分からない言葉を浴びせ、周囲から白い目で見られることを。
 組んだ腕を解いてうな垂れていた顔を上げた福住は、小布施に真剣な眼差しを向けた。
「小布施さん、これから私は初対面のあなたに、しかも年長のあなたに、大変失礼なことを申し上げます」
「えっ?」と声を上げる小布施を置き去りにして、福住はビッシ!と直立不動になると、正面を見て声を張り上げた。
「一に掃除、二に信心! これは私の恩人が教えてくれたことです!」
 福住は咄嗟に福の神を恩人にすり替えたが、言われた小布施は訳が分からず唖然とし、他の店の中にいる誰もが口を半開きにして呆気に取られた。
(こいつ何言ってんだ!)といった冷やかな視線に怯むことなく、福住は語った。
 それは、福住が初めて福の神に教えてもらった掃除の重みだった。
 日々の暮らしの中で次第に鈍くなってしまった感性を、掃除によって磨き上げて軽くすれば、今をありのままに素直に受け入ることができるようになる。
 掃除の効能を述べた福住は、直立不動の姿勢を解いて改めて小布施を見据えた。
「小布施さん、何をするにも、まず身を清めることから始めるんです。そして、掃除を通して自分の心を、感性を磨いて、改めて周りを見れば、今まで気付けなかったことにも気付けます」
 言い終えて、ほっと胸を撫で下ろす福住に、福の神は「うんっ」と頷いた。
「よしっ、ようやった。でっ、次はじゃな」
(えっ! まだ、あるんですか?)
「当たり前じゃ。ここからが本題じゃ」
 涼しい顔でそう言う福の神を見た福住は、肩口に目をやったまま固まった。
「いいか、気付けたら自分が何を失い、そして何を得たかが解かるようになる。人は何かを手に入れたら、必ず何かを手放さなければならない。じゃが、何かを失っている時には、必ず何かを得ているもんじゃ」
(しかし、小布施さんは大切な奥さんを亡くされているんですよ。そんな簡単に吹っ切ることなんかできませんよ)
「まあ、そうだろな。吹っ切ることなどできん。ならば、その悲しみ、切なさを抱えて生きていくと腹を括って前を向くしかなかろう」
「ふっ」と鼻で軽く吐息を漏らした福の神の目には、もの悲しい色が浮かんでいた。
「そうやって、毎日なんとか生きているうちにな、ふっと笑える日が来る」
(えっ! ほんとですか!)
「たぶん」
 おいっ、福の神!と、福住は思わずツッコミそうになった。
 横を向いたままピクリともしない福住を、財部は怪訝な顔で見詰ていた。
「おいっ、誠君。掃除の大切さはわかったが、言いっ放しで横を向いたままは、失礼だぞ」
「あっ」と、声を上げた福住が慌てて顔を戻すと、不機嫌な財部とポカンと口を開ける小布施がいた。
「心を静めて、ワシの言ったことを伝えるんじゃ」
 肩口の福の神がそう言うと、福住はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「すいません」と頭を下げた福住は、改めて小布施に目をやり、福の神の言葉を伝えた。

 そもそも人の一生というのは、色んなものを捨て同時に拾う。
 様々なものを得るのと同じように、また失っていく。
 そんな繰り返しが人生というものだ。
 例え、それがかけがえのない人やものでも、必ず失っていく。
 失った悲しみなど、誰にも癒せん。悲しむだけ、悲しめばいい。
 不思議なもので、どんなに深く悲しみに沈みこんでも腹は減る。
 腹が減ったら飯を食い、また悲しみと向き合えばいい。
 そんなことを繰り返していくうちに、ふっと笑える日が必ず来る。
 笑えたら、自分が何を失い、何を得たかに気付ける。

 福住は恥も外聞もなく、必死で小布施に伝えた。その熱意は少しづつ、しかし確実に小布施の心に届いていた。
 小布施は妻が亡くなってから、息子夫婦が以前より頻繁にメールや電話してくるようになったことや、自分を見かけたら、財部や小禄など、近所の人たちが必ず声を掛けてくれていることに気付いた。
(私は一体、何を見ていたんだ……。美子の死にばかりに目がいって、心が一杯になっていた……)
 福住は話し終えると、深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした! 俺みたいな鼻タレ小僧が人生の大先輩に偉そうなことを言って、すみませんでした!」
 小布施は嬉しかった。亡き妻や息子以外にも、自分のことをこんなにも気に掛けている人達がいることが無性に嬉しかった。
「どうか頭を上げてください、福住さん。私の方こそ頭を下げなきゃならない。あなたの言葉で少しは周りを見ることができそうです」
 福住が頭を上げると、そこには涙目に笑みを浮かべる小布施の顔があった。その表情は店に入って来た時より、幾分かは明るく柔らかなものに変っていた。
 小布施の心を見定めた福の神は嬉しげに頷き、福住の肩口からフッとその姿を消した。
「家に帰ったら、早速掃除を始めてみます」
 穏やかに掃除を口にする小布施を見て、財部も目を細めて励ました。
「こんな古ぼけた食堂でも、ちゃんと毎日掃除すれば、それなりに味が出て居心地がよくなるもんだよ、小布施さん」
「そうだよ。くたびれた食堂でも、そこそこ見られるようになるんだから」
 小禄が財部の言葉に乗ると、別のテーブル席にいた加宮と友人達も乗った。
「俺らもこれから帰って掃除します。しょぼい食堂でも何とかなるのがわかりましたから」
 日々心を込めて掃除に勤しむ福住にとって、彼らの言い草は甚だ心外だった。
「さっきから聞いてりゃ、古ぼけただの、くたびれただの、しょぼいだの、好き勝手いいやがって! これでもこっちは毎日気持ちを入れて掃除しているんですよ!」
「ああっ、だからこそ食堂として、なんとかやれているんじゃないのか?」
「うっ……」
 声を荒げて抗議したものの、笑みを浮かべる財部に、いとも簡単に返り討ちにされた福住は言葉を詰まらせた。
 まるで、ヒョットコのように目を見開いて口をへの字に曲げて尖らせる福住の顔は、真顔な分一層マヌケに見えた。
「ぷっ!」と誰かが吹き出すと、瞬く間に皆に広がり食堂の中は笑い声で溢れた。
「アハハハッ」「ワッハッハッハ」「クックックッ」「ギャハッハハ」
 もちろん、笑いの渦の中心にいた福住は面白くない。
「何がそんなに可笑しいんだ! 笑うところじゃないだろう!」
 本人は至って大真面目なのだが、なぜ笑われているのか、まったく分かっていない。
 そのズレッぷりが、さらに皆の笑いのツボをくすぐった。
 その笑声の中には小布施もいた。小布施は声を出して笑った。妻を亡くして以来、声を出して笑うことなどなかった小布施が、顔をクシャクシャにしながら笑っていた。
 久しぶりに腹の底から笑う自分に気付いた小布施は、ひとしきり笑うと、カウンターに置いていたねこまんまに気が付いた。
 笑い涙を拭いながら小布施は茶碗を手にすると、残ったねこまんまを食べ始めた。
 傍らにいた財部や周りの者は笑うのを止めて、無心でねこまんまを掻き込む小布施を静かに見守った。
 そして、みそ汁を飲み干すと、小布施は満足げに手を合わせた。
「ごちそう様でした。久しぶりに食事らしい食事にありつけました」
「何言ってんだい、小布施さん。ねこまんまだよ。大袈裟なんだよ」
 店に入って来た時とは、見違えるほど気色が良くなった小布施に、財部は笑みを浮かべ、小禄や加宮などの周囲もホッと安堵の色を滲ませていた。
 ただ、面白くとも、何ともない福住は一人蚊帳の外にいた。
 小布施もそんな周りの空気を感じたのか、少し照れながら福住に目をやった。
「福住さん、また寄らせてもらいますよ。今度はそのツナ缶のねこまんま、私に教えてくれませんか?」
 思いも寄らぬ小布施の頼みに「えっ!」と驚いた福住は、ヒョットコ顔からいつものやつれ顔に戻った。
「ええっ、喜んでお教えします。いつでも入らしてください!」
 やつれ顔を目一杯輝かせて朗らかに答える福住に、小布施は相好を崩して「ええっ」と頷いた。
 一方、福住の肩口から消えた福の神は奥の部屋で胡坐を組んで店の様子を窺っていた。
 すぐ側には、座布団の上でまったりと箱座りするミィーちゃんがいた。
 薄っすらと笑みを浮かべて小布施を見ていた福の神が傍らにいたミィーちゃんに訊いた。
「これであのジィさんも、少しは元気になるじゃろう。それに、あやつの株も、ほんのちょびっとだけ上がったかもしれん。なあ、ミィーちゃんもそう思わんか?」
 福の神の言葉に、ミィーちゃんはゴロゴロと上機嫌でノドを鳴らした。


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