季節はまた、少し進み、葉桜から瑞々しい新緑の季節に移り、カレンダーも黄金週間に差し掛かろうとしていた。 そんな春らしい少し浮き足立った陽気のお昼、一台の社用車らしき黒塗りの高級セダンがあけぼの食堂の前に停まった。 すぐに車から運転手と思われる白の手袋をはめた年配の男が出てきて後部座席のドアをゆっくりと開けると、中から六十がらみの痩身の男がヌウッと現れた。 面長で彫りが深く、浅黒い整った顔立ちに大きな瞳と高い鼻は、どこか日本人離れするものがあった。 男の名は武富 嘉夫。現・大日自工ホールディングス代表取締役社長兼CEOである。 上物のイタリア生地で仕上げたオーダーメイドのスリーピースを、ビッシ!と着こなす武富は、しかめっ面で脇にいた運転手に目も合わせずに「終わったら、連絡します」と告げるその声には、どこか刺々しいものがあった。 運転手は無言のまま会釈し、後部ドアを閉めてさっさと車に乗り込み、武富一人残して走り去った。 顔を顰めながら、あけぼの食堂を一通り見回した武富は(なんで、こんな小汚い所に呼び出すんだ)と、しかめっ面を一層歪ませた。 訝しがる武富が歩を進めて、食堂のガラス格子の引き戸に手を掛けようとしたとき、出入り口の傍らにあった例の文言が書かれたボードが目に入った。 (あなただけのねこまんまを楽しんでください……? 変わった食堂だな) 胸の裡でそう呟く武富が中に入ると、思った以上に客で埋まっていた。 四つあるテーブル席のうち一つは年配女性達で、一つは学生達で埋まり、カウンター席には、でっぷり太ったハゲ頭のオヤジと出目のオッサンの他に三人ほど座っていた。 皆、好き勝手に各々のねこまんまを味わい、中にはお代わりする者もいる。 この頃になると、あけぼの食堂に居座っていた閑古鳥達もほぼ、ほぼ、鳴き止むようになっていた。 武富が出入り口で、顔を左右に振って誰かを探す素振り見せると、逆L字のカウンター席の左隅から声がした。 「おいっ、ここだ。ここ」 見れば、恵比原が笑みを浮かべて手招きしていた。 武富がしかめっ面のまま恵比原の隣に着くと、福住が「いらっしゃい」と水の入ったコップをお盆に乗せてやって来た。 福住は「何にします」とコップを置いたが、武富は「いやっ、私は別に……」と不機嫌そうに言葉を濁した。 「お前、何しに来たんだ?」と言わんばかりに目を丸くする福住に、恵比原が「すまんな。少し込み入った話があるんだ。済んだら、改めて呼ぶから」と頼んだ。 何か訳ありと見た福住は「じゃ、ごゆっくり」と軽く会釈して下がった。 奥の部屋では、福の神がミィーちゃんと仲良く昼寝をしていたが、寝っ転がったまま薄目で武富を見るなり、眉を寄せ毒吐いた。 「なんかエラそうな奴が入って来たな、ミィーちゃん」 ミィーちゃんも「ミャ……」と低く鳴いて頷いた。 福住とのやり取りを見ていた恵比原が、ボヤくように話し掛けた。 「せっかちな奴だなあ。昼飯食ったのか?」 「まだです。いえっ、そんなことより、私の話を聞いて下さい、会長」 「代表権もない、ただのお飾だ。おまえんとこの株をちょこっと持とるがな」 「しかし、今でも会長を慕う者が社には大勢おります。ここは是非、会長のお力添いをお願いしたいのです!」 鬼気迫る面持ちで懇願する武富を、困り顔で眺める恵比原が吐息を漏らした。 「ふっ。まあ、ワシもいろんな奴らから、色々と聞かされとるが、何があったんだ?」 何かに追い立てられるように、武富は話し始めた。 見事に大日を立て直し、カミオンとの提携を解消した恵比原が、第一線から退いた後も、大日自工は順調に業績を伸ばし続けていたが、昨今のグローバル競争の激化や環境問題、高齢化による国内市場の縮小など、なんや、かんやと以前のように上手く回らなくなってしまった。 こうなると、当然儲けを出すには、僅かなムダでも許せなくなる。 製造現場はもちろん、本社、国内外支社など、グループ挙げて競争力強化とばかりに、一切のムダを排除した。 そこにカミオン流の信賞必罰という必達目標が持ち込まれ、ただでさえ、ギスギスとした空気は一層濃くなり、社員らは皆、本音では息が詰まるように汲々としていた。 そんなささくれ立った雰囲気の中でも結果を出し続け、ついには代表取締役にまで登り詰めた武富という男は、ある意味、ゴキブリ並みの生命力の持ち主であった。 そんな武富が社長に就任するや、必達目標をより前面に押し出し、さらなる成長を求めた。 が、しかし―― 「私には訳が分かりません。なぜ、彼らが私のやり方にあれほど抵抗するのか。今まで大日が成長できたのは、必達目標があったからです。それなのに……」 苦い目で前を見詰て語る武富は、今役員達と揉めていた。 競争力を高め、グローバリズムに打ち勝ち、成長し続けることこそすべてだと、信じて疑わない武富に、疲弊する社員を目の当たりにする役員達は態度を硬化させた。 そして就任二年目に入った途端、無資格者による完成検査が国内各工場で発覚し、ついには全工場出荷停止に追い込まれるという前代未聞の不始末を仕出かした。 その謝罪会見の際にも、武富は「我々経営陣及び各工場長は、一切関与しておらず、あくまでも現場の課長、係長クラスの意思の疎通に問題があった」と説明した。 この「問題なのは現場だ」と言わんばかりの武富の発言は、社内に大きな波紋を呼び、現場は呆れ返り、気が萎えてしまった。 慌てた役員達は「我々にも責任の一端がある」と、会見の三日後、全工場の製造現場従業員に改めて釈明した。 この時も、武富は「その必要はない!」と頑として首を縦に振ろうとはせず、大いに役員達を困らせたが、粘り強く諭す彼らに根負けし、不承不承認めた。 武富にしてみれば、別に自分が不正を指示した訳でもない。知らぬ間に、与かり知らぬ処で起こったこと。 現場で起こったことを包み隠さずに話しただけなのに、「なぜ?」 と、釈然としないものが武富の胸に残った。 「本来なら、懲罰もの不祥事です。それを彼らは不問にし、問題はあなたにあると言い張るんです。まったく、何考えてんだか!」 吐き捨てるように言う武富にとって、必達目標がすべてである。 その必達目標に、甚大なダメージを与える出荷停止など以ての外。 そんな有得ないことを引起した連中を処罰するどころか、あまつさえ、自分のやり方に異を唱える役員達も気に食わなかった。 「ですから、ここは一つ、会長の口添えをお願いしたいのです。それさえあれば、役員達を黙らせることができます。是非、お願いします!」 目の色を変えて頼み込む武富を見て、恵比原は唖然とし開いた口が塞がらなくなってしまった。 (こいつ、自分のことしか考えとらん……。なぜ、現場が不正をしてしまったのか。なぜ、役員らが関係を拗らせてまで刃向うのか。まったく頭にないらしい……) 奥の部屋では、起き上がった福の神が「あいつ、何様だ」と、ミィーちゃんと共に冷ややかな視線を武富に向けていた。 二人の間に妙な空気が流れた。 「んっ? 会長、どうかされましたか?」 武富の一言で、我に返った恵比原が頭を小さく振った。 「いやっ、別に何でもない。えーっと、ワシの口添えの件だったな」 薄ら笑いを浮かべながら「そうです」と頷く武富に恵比原はニッコリ笑って言い放った。 「断る」 一瞬、何を言われているのか理解できない武富は、目を大きく見開いたまま固まった。 固まったまま、信じられないといった顔で武富が訊いた。 「聞き違えたのか、『断る』と、聞こえましたが?」 「ああっ、言った。『断る』てっな。なんでワシが、お前の不始末の尻拭いを手助けせにゃならん」 「どこが、私の不始末なんですか!」 涼しい顔でサラリと言ってのける恵比原に、思わず武富が目を剥いて語気を荒げると、食堂中の視線が集まった。 困り顔で恵比原が「いやっ、驚かせて申し訳ない」と好々爺然と詫びた。 皆の視線が元に戻ると、「こんな小さな店で声を張り上げるな」 そう低く唸りながら、横目でギロリと睨み付ける恵比原を見て、武富はゾクリと身を震わせた。 ―鬼の恵比原― かつて力ずくでカミオンとの提携に邁進していた頃の社内での恵比原の二つ名であり、また提携交渉時に、あまりのしぶとさに音を上げたカミオンの交渉担当者からも、そう呼ばれていた。 後に、この二つ名のことについて経済新聞記者から訊かれた引退間際の恵比原は「いや〜っ、お恥ずかしい。穴があったら入りたい」と、頭を掻いて大いに恥じ入った。 その鬼の一端に出くわした武富は「すみません……」と小さくなった。 しかし、小さくなりながらも武富は引き下がらなかった。 「なぜ、手を貸してくれないんですか? 社長の私が、こんな古ぼけた店まで来て頼んでるんですよ」 「古ぼけた店で悪うござんしたね」と、福の神とミィーちゃんは一層顔を険しくさせた。 目も合わせずに黙り込む恵比原に、焦れた武富が今に飛び掛りそうな勢いで言った。 「会長、なんとか言ってくださいよ! 私は良い返事が頂けるまで、ここから動きませんよ!」 今回の出荷停止という不始末を武富と役員達、双方から聞かされていた恵比原は虚ろな目をしていた。 (どうしてだろう。どうして、こいつは自分の目線でしか物事を見ようとしないのか……?) いきり立つ武富とは、対照的に腕を組んで泰然と思案する恵比原が不意に目をやった。 「なあ、お前、まさか努力は必ず報われるとか、本気思ってるんじゃないだろうな?」 「えっ?」と息を呑んだ武富が、「何言ってんだこの老いぼれ!」という顔で恵比原に口を尖らせた。 「当たり前じゃないですか。私が社長にまで登り詰めたのも、その努力があったからです」 大きく胸を張って自分の業績を誇示する武富を見て、恵比原は鼻で笑った。 「ただ、ツイてただけだろう」 「ええっ、確かに幸運に恵まれた部分もありますが、その幸運を呼び込んだのも、私が努力を怠らなかったからです」 事実、ヒラの頃から努力と経験を重ね、今の地位を手にした武富という男は、何事にも正面からぶつかっていくタイプだった。 そういう努力に裏打ちされた成功体験が、人の奥深くまで刷り込まれると、甚だ厄介なことが起こることがある。 成功体験、それ自体は悪いことではない。人をよりヤル気にさせる元と言ってもいい。 しかし、あまり体験し過ぎると、自分はこうやって乗り越えたんだとか、こうやって勝ち取ったんだとか、いつの間にかその体験に執われ、他人にも、ついついそれを強いてしまうことがある。 武富もまた、そんな体験に執われた一人だった。 「月毎に決められた目標出荷台数を達成するために、現場が努力するのは当然です。しかし、達成するために不正を行うなど、話にならない。もっと、創意工夫すべきです」 さっきより胸を反らせて言い切る武富を、恵比原はまた鼻で笑った。 「お前、それ本気で言っとるのか? 本気なら、底抜けのアホだ」 「アッ、アホ?」 「ああっ、それも救いようのない底抜けのアホだ」 この恵比原の言葉に、奥の部屋にいた福の神とミィーちゃんは大きく頷いた。 眉間にシワを寄せて顔を歪ませた武富は、唇をワナワナと震わせて訊いた。 「私の言っていることのどこが、アホだと言うんですか? 月の出荷計画は、工場長も含めた全体会議で決めたことですし、下からの意見も取り入れるために、部署を横断する私の直轄の特別チームも発足させ、経営改革にも力を入れています。」 「だったら、なぜ不正検査が起きた?」 「そっ、それは現場が……」と、言葉に詰まる武富に恵比原は涼しい顔で追い討ちを掛けた。 「無茶な数字を押し付けてるからだろう。それに近頃の人手不足も大きく関わってんだろうな」 「無茶な数字なんかではありません。それなら、会議で言えばいい」 「自分の目線にだけ執われているお前みたいな奴と、まともに話せるか。全体会議といっても、どうせ、お前が言わせてんだろう」 「そんなことはありません。私はちゃんと彼らの意見にも耳を傾けています」 目を瞠って抗弁する武富に、恵比原は横目で見据えつつ訊いた。 「言い切れるのか? 考えてもみろ、会議で『それは無理です。できません』てっ、わざわざ自分の評価を落とす奴がどこにいる?」 恵比原は軽く吐息を漏らすと、改めて武富に向き合った。 「まあ、ワシのようなお飾りにも、いろいろと耳に入ってくる。生産台数増やすのに検査員がぜんぜん足らんとかな」 役員達から度々社内の問題を聞かされていた恵比原は、皮肉交じりに言った。 「お前にすれば些細な問題で、例え現場が声を上げても『お前らでなんとかしろ!』と言われるのがオチだとボヤいとる奴もおったぞ」 そんな風に言われていたとは夢にも思わない武富は、目を見開いたまま沈黙してしまった。 「無理な生産目標に、人手不足。こりゃ、お前の大好きな努力だけでは、どうにもならん。無理を通せば道理が引っ込むとは、よく言ったもんだ」 人間誰しも、自分より上の立場の者には頭が上がらない。だから、少しでも気に入られようとすると、少々無茶をやらかしてしまう。 「いいか、人は追い詰められると、何仕出かす分からん。平たく言うと『魔が刺す』というやつだ。常なら不正など考えもしない連中が、お前が全てだと信じて疑わない必達目標のせいで、つい手を出してしまった。ワシはそうは見ている」 「それは違う。そんなことはありません。あるはずがない……」 武富は俯いて頭を振って自分に言い聞かせるように否定した。 「私は現場の意見を聞くためにも、特別チームを立ち上げたんです。そこからは、そんな報告を一切受けていない……」 確かに、自分が目を通した報告書には、不満の文字などまったく見当たらなかった。 しかし、目の前では不正問題、役員達の反乱が起きてしまった。 自分が聞いた話と現場の思いが、これほど乖離していることに武富の心は千々に乱れた。 恵比原は下を向いたまま動揺する武富など、お構いなしに冷やかな視線を浴びせていた。 「ふんっ、どうせその特別チームもお前の顔色窺って、耳障りのいいことしか報告しとらんのだろう。そんなことにも気付かんから、底抜けのアホだと言ったんだ」 眉を寄せて言う恵比原に、福の神とミィーちゃんは「そうだ、そうだ」と頻りに頷いた。 「数字ばかり見て、人を見ていないからこうなる」 一段と声を低めた恵比原に、思わず「えっ?」と武富が顔を上げた。 「お前一人で会社を回している訳でもないだろう。大体、社長の仕事というものは、例え社員が何か仕出かしても、一番後でどっしりと構えているもんだ。それだけで社内は落ち着く」 腕を組んで鬼の異名を持つ恵比原の圧に、戸惑いながらも武富は切返した。 「構えるって、そんなのは、あなたが現役だった頃の話です。今は問題を起こせば、関係省庁やメディア、一般消費者への謝罪と説明責任に、対策と。迅速に処理しなければなりません。どっしり構えていたら、会社は潰れてしまいます」 「だから現場に全部押し付けて、幕引きにするのか? また、同じ事を繰り返すぞ。それに人心掌握に古いも、新しいもあるか」 武富の切返しなどに、ビクともしない恵比原の目付きが、心なしか鋭くなった。 「別にワシはお前が言っている面倒なことを、疎かにしろと言っている訳ではない。そんなもん法務担当にでも任せて、お前は頭下げてりゃいいだけだ。後はザワついた社員らの気持ちが、少しでも和らぐように職場の空気を整えてやるのが、お前の役目だ」 恵比原は一息入れると、吐息を漏らした。 「それをお前は、何かやらかす度に切り捨てられては、下の者は堪ったものではない。このままでは、大日は空中分解するぞ。役員らもそれを危惧している」 信賞必罰の必達目標には懲罰人事が伴うもの。 恵比原は「もう、それも潮時じゃないのか」と訊いたが、武富は顔を小刻みに震わせながら拒んだ。 「どんでもない。今や必達目標は大日の生命線です。これが無ければ、海外の厳しい競争に生き残れませんし、縮小し続ける国内市場を乗り切ることもできません」 躍起になって必達目標を守ろうとする武富の言い分など、何処吹く風といった顔で、聞き流していた恵比原が口を挟んだ。 「現場もそうだが、どの社員の後ろにも家族がいる。お前、それを承知で言っているのか?」 恵比原の目がさらに鋭さを増し武富を見据えると、、地の底から響くような低い声で唸るように言い放った。 「過度の競争は人を壊す! お前、そんなに人殺しになりたいのか?」 武富は恵比原を会長という名誉職にいる、ただの老いぼれと思っていた。そんな老いぼれなど、自分に掛かればたやすく落とせると侮っていた。 だが、武富はそんな思い上がった自分を、頭を掻きむしりたくなるほど後悔していた。 そして、武富は今自分の目の前にいるのは、当の昔にお飾りになった老人ではなく、現役さながらに動き回る巨大な重戦車を相手にしているような錯覚に陥った。 それに比べて、目の前の数字にこだわり続ける自分が、ちっぽけな軽四のように思えた。 断っておくが、筆者は決して軽四を軽く見ている訳ではない。むしろ、あのコンパクトなボディに「これでもか!」というくらい高機能と装備がテンコ盛りの軽四に敬意すら覚えている。 軽四・武富は尚もグローバリズムなど、なんや、かんやと持ち出してささやかな抵抗を試みたが、「そんなもの、捨ててしまえ。捨ててしまえば、少しは違った景色が見えてくるぞ」と、重戦車・恵比原に敢え無く踏み潰された。 奥の部屋では、あぐらを掻いた福の神がヒザを叩いて、「人の世の理を心得たお方じゃ!」と相好を崩せば、ミィーちゃんも「ミャン!」と朗らかに声を上げた。 厨房の奥に引っ込んでいた福住は、恵比原の言葉に目を丸くしていた。 (捨てれば、違った景色が見えてくる……。福の神と同じことを言っている……。) 福住の視線に気付いた恵比原は、武富に向けていたきつい眼差し解いて、また好々爺然と詫びを入れた。 「すまんな、辛気臭い話を聞かせてしまって。もうしばらく待ってくれ」 目を見開いたまま、福住は黙って頷いた。 恵比原が目を戻すと、萎れた武富が弱々しく嘆いていた。 「会長、どうしたらいいんですか? 必達目標がなければ、大日の成長もありません」 やれやれと恵比原が重そうに口を開いた。 「捨ててしまえは、少々言い過ぎた。すまん。でなあ、武富よ、努力は必ず報われるもそうだが、成長しなければ幸せになれないてっ、思い込んどらんか?」 萎れていた武富が「えっ、どういう意味ですか?」と顔を上げた。 「つまりな、どちらに重きを置くかだ」 さっきまでの荒々しい重戦車ぷりが消え、穏やかな口調で恵比原は話し始めた。
グローバルな競争に勝って、より成長を求めるなら、労働強化や成果主義が付いて回る。 そうしなきゃ、勝てんからな。 でもな、そいつらが引起す殺伐とした空気や歪みは、決して人を幸せにはせん。 人と人との信頼や繋がりを壊していくからだ。 何も、成長するなとは言っとらん。 ただ、グローバルな競争に勝たなければ成長できない。 成長できなければ幸せになれないといった思い込みから、少し距離を置いてみたらどうだ。 ザックリ言えば、ヒィヒィ喘ぎながら、それでも成長を追い求めるのか、そこそこの成長を素地とし安定した事業運営を心掛けるか。 そのどちらに重きを置くかだ。
この「そこそこの成長」を耳にした福の神が「あの御仁、足るを知るを分かっておられる」と目を細めると、ミィーちゃんも嬉しげに頷いた。 「そこそこの成長ですか……」 憑物が落ちたように、武富がポツリと呟いた。 「ああっ、そうだ。今の大日なら、そこそこでも十分回ると思うぞ」 「私なんかに、できるでしょうか……」と、食堂に入って来た時とは打って変わって自信なさげに言う武富に、恵比原は鼻の頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。 「まあ、今さら、やらかしてしまったことは、どうすることもできん。だからこそ、きちんとあいつらと向き合うんだ。そしてお互い腹を割って話し合い、もう一度生産計画を一緒に練り直してみたらどうだ」 「そうですね……」と、恵比原の助言に力なく答える武富が「あっ」と小さな声を上げた。 「でも、検査員不足はどうしましょう? そこそこの成長といっても、国内だけで年間百万台近くあります」 恵比原が「そうだな……」とアゴに手を当てて考え込むと、 「とりあえず、現場に踏ん張ってもらうしかないな。そのためにも、お前、ちょっと謝ってこい」 「えっ、誰にですか?」 きょとんとした顔で訊く武富に、恵比原は「国内工場で働いているすべての社員にだ」と事も無げに言った。 「えーーっ! 社長の私が!」 「そうだ、お前だ。大体、お前がやらかしたことだ。お前が始末をつけてこい」 「しっ、しかし……」 渋る武富の肩にポンと軽く手を置いた恵比原が、満面の笑みを浮かべた。 「なに、心から謝れとは言っとらん。ただ、社員らの前で頭を深々と下げて、薄っすら涙でも浮かべながら『こんな頼りない社長で申し訳ない。だからこそ、君らの力が必要なんだ。頼む手を貸してくれ』とでも言えば、向こうが勝手に勘違いしてくれる」 「会長……。それ、非道くないですか?」 白けた目で見る武富に、笑みを浮かべたまま恵比原は言い放った。 「ああっ、ワシは非道い奴だ。だから、謝ってこい」 「でっ、でも……」と、尚も渋る武富の肩に置いた手に鬼が力を込めて目を剥いた。 「やれっ!」 「はい……」 最後は鬼に気圧されて、武富は成す術もなく従った。 「さてと、これで急場はしのげるとしても、問題はその後だな」 武富の肩を離して、再び恵比原はアゴに手を当てて考え込んだ。 「なあ、武富。あれ何てった。勝手に自分で学習するやつだ?」 肩を落として下を向いていた武富が「はいっ?」と顔を上げた。 「ほら、プロ棋士を負かしたやつだ。何てった?」 たたみ掛けて訊く恵比原に、虚ろな目で武富が「AIですか?」と答えた途端、恵比原は小躍りするようにヒザを打った。 「それだ! それとセンサーを着けたアームロボットを組み合わせるんだ!」 「えっ? あんなゴツイ産業用ロボットにですか?」 「バカか、製造ラインの溶接や組立ロボットのことではない。完成検査などの細かな動きができる新しいアームロボットを作るんだ」 完成検査とは、出荷前の車の安全全性を工場で最終チェックする検査のことである。 その検査項目は、ヘッドライトは点くか、ブレーキは効くか、シートベルトに傷はないか、オイル漏れはないか、など多岐に渡る。 恵比原はより繊細な動きができるアームロボットに、頭であるAIと目である高性能画像センサーを持たせて、今まで人がやっていた完成検査を行わせようと考えていた。 恵比原は小鼻を膨らませて、身体を前にのめり込ませた。 「どうだ武富、やってみんか?」 「確かにAIなら、学べば学ぶほど様々な車種に対応できますね。しかし、一から作るとなると……」 慎重に言葉を選ぶ武富に、恵比原は軽口を叩くように言った。 「なに、一から作る必要はない。餅は餅屋だ。目と手はロボット屋に任せて、大日は頭だけ握ってりゃいい」 ここで恵比原の言うロボット屋とは、ロボットアームなどを作るの産業用機械専門メーカーのことを指す。 恵比原はAIの先生には退職した検査員をつけ、彼らが培った知識と経験を学ばせ、手と目は一日の長がある専門メーカーと手を組むことを勧めた。 「そして完成した暁には、手を組むロボット屋に大日の検査AIを独占的に卸してやれば、喜んで売り回ってくれるぞ」 得意げに話す恵比原に「なるほど」と、アゴに手を当てて頷く武富の瞳が鈍く光った。 「これを基にして、トラックやトレーラーなどの大型車両、それに多種多様な建機の検査にも使えれば……」 武富の口元がニヤリと緩んだ。 「その時に、我々がガッチリ特許で頭を握っていれば、こちらの言い値も通しやすくなりますな、会長」 「ああっ、どこも人手不足だからな」 捕らぬ狸の皮算用に、顔を綻ばせる二人の目が合った。 「武富、お主もワルよのお。クックックッ……」と、恵比原が低く笑えば、「いえっ、いえっ、会長ほどではございません。クックックッ……」と、顔の前で軽く手を振りながら武富も低く笑った。 大昔の時代劇によく出てくる、人の弱みに付込んで暴利を貪るワル代官と悪徳豪商さながらに、悪い顔でほくそ笑む二人を見ていた福の神が呆れ返っていた。 「うむーっ、人とは分からんもんじゃな、ミィーちゃん。先程までは、足るを知った素晴らしい御仁と思っとたが、見てみろ。今は狸の皮算用に、顔が緩みっ放しじゃ」 福の神がアゴで二人を指すと、ミィーちゃんも「ミャ……」と、残念そうに鳴いた。 「まあ、あれが人というものじゃな」 福の神とミィーちゃんは呆れ顔のままで二人を見詰ていた。 一九世紀・近代ドイツにおいて、大いなる足跡を残した世界的歴史家ランケは言った。 「勇敢にして臆病、廉潔にして破廉恥、英明にして暗愚、勤勉であるとともに怠け者であり、忠節であるとともに裏切り者である人間。そんな人間の織成した人間劇が歴史なのだ」と。 話が落ち着いたところで、はやる気持ちが抑えきれない武富が腰を上げた。 「早速、社に戻って、役員達と検討します」 「まあ、待て。そう慌てるな。昼飯まだなんだろう?」 恵比原が笑みを浮かべて上物のスーツの袖口を掴むと、武富は腹に手を当てて「そう言えば、まだでした」と苦笑しながら席に戻った。 「さっきワシが食べたやつでいいだろう。なかなか乙な味するぞ」 武富が頷くと、恵比原は手を上げて福住を呼び寄せた。 「ワシのと同じねこまんまを頼む。それにみそ汁もな」 福住が「ありがとうございます」と踵を返すと、五分も経たないうちに武富の目の前に、お盆に乗ったねこまんまとみそ汁が現れた。 あまりの速さに目をしばたたかせる武富の前に「お待ちどう様」と福住がお盆からねこまんまとみそ汁をそっと置いた。 福住が「どうぞ、ごゆっくり」と会釈して引くと、武富はしばたたかせた目を丸くしてねこまんまを指した。 「会長。なんですか、これ?」 「シラスおろしのねこまんまだ」 「…………」 普段から各界のお偉方や役員らと、高級感漂う昼食を口にしている武富にとって、目の前に置かれたねこまんまはとても貧相に見えた。 「まあ、食ってみろ。見た目は悪いが、結構いけるぞ」 そう恵比原に背中を押されて、武富はようやく箸を手にした。 「いただきます」と、神妙な面持ちで手を合わせ、茶碗を持った武富の顔を眺めながら、恵比原は悪戯小僧のようにワクワクした。 眉を寄せてシラスおろしとおかかのねこまんまを適当に混ぜ合わせると、武富は少し顔を強張らせたて一口入れてみた。 しばらく口をモグモグと動かしているうちに、武富の眉間からシワが消え、ゴクリと飲込むと目を見開いて「んっ!」と頷いた。 「会長、これなんかクセになりますね」 「だろう。私もはまった」 「最初見たときは、これは食べ物なのかと思うくらい貧相な見た目でしたが、一口食べてみると、なんと言うか、さっぱりとしたポン酢のシラスおろしに、香ばしいおかかごはんが妙に合いますな」 思いも寄らない珍妙な味わいに、小鼻を膨らませて語る武富に、恵比原は思わず笑みを浮かべた。 「まあ、そいつもそうだが、まずは思い込みを捨てることだ」 恵比原は武富が手にしていたねこまんまを、微笑みながら指差した。 「思い込みを捨る……。ですか……」 「ああっ、そうだ。そして、人とは仲良くすることだ」 神妙な面持ちで耳を傾けていた武富が思わず口を尖らせた。 「えっ? そんなこと子供でも知っていますよ」 「そうだな。三才の子供でも知っていることだが、それが出来ていないのが、今のお前だ」 武富が「うっ」と言葉を詰まらせると、恵比原は鼻の頭を掻きながら照れ笑いした。 「と、まあ偉そうなことを言ったが、就任当初のワシもお前と似たようなもんだった。『俺が、俺が』と空回りしとった」 「会長が?」 恵比原の言葉に、武富は意外なものを見たような気がした。 「自分勝手な思い込みに振り回されて、のぼせ上がった頭を冷やしてくれたのが、ここのねこまんまだった」 恵比原は遠くを見るような目で、福住の亡き祖父母・幸造と寿賀子との出会いを語った。
目を剥いて自分の思い込みを振り回す大馬鹿者。 一体、誰がそんな奴に付いて行く。 誰からも相手にされず、それが一層目を剥かせた。 だがな、捨てる神あれば、拾う神ありだ。 こんな馬鹿野郎でも、ガツンと言ってくれる人がいた。 思い込みに執われて、沈みこんだ心をすくい上げてくれた。 それに、あったかなねこまんまとみそ汁も腹に沁みた……。
「名門復活の立役者とか言われたが、穴があったら入りたいぐらいだった」 恵比原は口をへの字に曲げて居心地の悪そうな顔をした。 その仏頂面に、思わず武富が「ぷっ」と吹き出すと、恵比原はさらに不機嫌な顔を向けた。 「あっ、すいません。つい……」 「ふっ、まあ、いい。少し笑えるぐらいの余裕が出て来たということだな。さあ、冷めない内にさっさと食っちまえ」 苦笑する恵比原に促された武富が、みそ汁を口にすると、またも「んっ!」と頷いた。 (みすぼらしいただの大衆食堂と思ったが、なんて円やかなみそ汁なんだ。会長が腹に沁みると言ったのも分かる) ちなみに、本日の具は薄くクシ形切りした玉ねぎと半月切りジャガイモである。 武富は「うんっ、うんっ」と小刻みに顔を上下させながら、交互にねこまんまとみそ汁を頬張っていた。 一口食べる度に、武富の顔が緩んでいき、食べ終わる頃には、自然と笑みがこぼれたいた。 「ふーっ、ごちそうさまでした」 そう満足げに手を合わせる武富に、恵比原が目を細めて訊いた。 「どうだ。美味かっただろう?」と 「はいっ、会長。美味かったです。こんな古ぼけた店で、これほど美味い飯が食えるとは、思ってみませんでした」 見た目のギャップに感動すら憶えた武富は、手を上げて洗い場に立っていた福住を呼んだ。 「ご亭主」と、武富は頻りに呼んだが、自分が呼ばれているとは思いもしない福住は洗いものに集中していた。 カウンター席にいた大黒が武富の呼び掛けに気付いた。 「まこっちゃん、あの人、ひょっとしたら呼んでるんじゃない?」 福住が「えっ?」と声のする方へ目をやると、上物のスーツをビッシ!と着込んだあの紳士が呼んでいる。 慌てて前掛けで手を拭きながら、福住は紳士の前へ立った。 「すいません、気が付かなくて。何か?」 「いやっ、ご亭主。謝らなければならないのは、私の方です」 (えっ、マスターの次はご亭主か?)と困惑する福住に、武富は真摯な眼差しを向けていた。 「先ほどは大変失礼な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした」 静かに頭を下げる武富に、福住はさらに困惑して手を振った。 「やっ、やめてください。私なら別に気にしていませんから」 「そうですか。なら、よかった」と頭を上げてホッと胸を撫で下した武富がニッコリ笑った。 「また、寄らせてもらいます。今度は役員達も連れて来ます」 (役員達てっ、あんた何者……?) 目をしばたたかせる福住に軽く会釈した武富は、キリッと顔を引締めて恵比原を見た。 「では、社に戻ります。ありがとうございました」 そう恵比原に一礼して、武富は店を後にした。 店を出た武富が内ポケットからスマホを取り出し、運転手を呼ぼうとスリープ状態の画面にタッチしようと指を差し出した途端、指先がピタリと止まった。 指先にある真っ黒な画面に一瞬目を奪われた武富が、顔を上げると、頭の上に春の晴れ上がった青空が大きく広がっていた。 (なんて素晴らしい天気なんだ……) しばらく空を見上げていた武富は、目を閉じて大きく吸い込み吐くと、「んっ!」と力強く頷いた。 そして、改めてスマホから運転手を呼び出した。 「私です。話は済みましたから、迎えに来てください。ええっ、食堂の前にいます」 食堂に入る前の刺々しさが消えたその声には、どこか優しげな響きがあった。 後に、武富は役員達としばしばあけぼの食堂を訪れるようになり、その度に食堂の前には黒塗りの社用車がズラリと並び、その光景は福住の目を点にさせた。
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