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作品名:ねこまんま食堂 作者:真柴 文明

第15回   十五.直心是道場
 田神 尚之は迷っていた。目の前にあるチョークボードに奇妙な文言を謳う食堂と思われる店に、入るかどうか迷っていた。
(好き勝手にあなただけのねこまんまを楽しんで下さい……? どういうことなんだ?)
 田神が店内に目を移すと、出目のおっさんが店主らしき人物にしきりに何かを頼み込んでいる。その傍らでは男女の高齢者が二人大笑いしている。
 頭に大きな「?」を乗っけて田神が、再びボードの文言を読み返し、また店内に目をやる。
 漠然とした疑問を抱えた田神が何度か、この妙な動作を何度か繰り返しているうちに、店主と目が合った。
「いらっしゃい。空いてますよ」
(しっ、しまった! 目が合ってしまった!)
 本能的に危険を感じた田神が、慌てて踵を返して逃げ出そうとした途端、ガッシィ!と大きな音を立てて、何か途轍もない力が腕に掛かったような気がした。
(なっ、なんだ! この力は! まっ、前に進めない!)
 恐怖に顔を引きつらせて、ゆっくりと振り向く田神の目に飛び込んできたのは、出目を輝かせながらガッチリ両手で左腕を掴む、不気味な笑みを湛える大黒だった。
「いらっしゃ〜〜い」
 ボードを前に入るかどうか迷っている田神に、福住が声を掛けるや否や、大黒は普段仕事では見せることのない俊敏さと力強さで田神の腕を掴んでいた。
「さっさっさっ、どうぞ、どうぞ。席は余るくらい空いてますよ」
「いっ、いえっ。僕は別に入るつもりは……」
 田神は怯えるように頭を小さく振りながら拒んだが、目に怪しい光を宿した大黒がニヤリと口元を緩めた。
「大丈夫ですよ。そんなに難しいことじゃありません。それに、食わず嫌いは感心しませんなあ〜〜っ」
(ヒッ! そっ、その笑顔が怖い! 何かとんでもないことに巻き込まれた気がする!)
 大黒は顔見知りの三人以外でも、自分のねこまんまが受け入れられることを証明しようと目論んでいた。
(ふふふっ、少し気の毒だけど、僕のねこまんまを食べてもらうよ)
 田神はどうにかして掴まれた腕を振り払おうとしたが、狂喜に満ちた大黒の笑みの前では、思うように身動きが取れず、成す術もなかった。
 田神の腕をガツッリ掴んで、ジリジリと後ずさる大黒の背後には、ブラックホールのように大きな口を開けたあけぼの食堂があった。
(ひっ、引き込まれる! 神様、仏様、イエス様! 誰でもいいから、たすけてくれーーっ!!)
 こうして大黒という名の強力な引力に取り込まれた田神 尚之は、その願いも空しく、ねこまんま食堂に引きずり込まれた。

 田神はカウンター席で震えていた。鞄をしっかりと抱えて上背のある痩身を小さく折り曲げ、大きな瞳をさらに大きくして、忙しなく右に左に動かしていた。
 右には自分をこの店に引きずり込んだ出目のおっさん、左には頭が禿げた貫禄たっぷりのおやじと、ニコニコと笑みを浮かべて自分を見詰る婆さんがいた。
(なっ、何の集まりなんだ? さっぱり解らない!)
「すいませんね。あのバカのやったこと、許してやってください」
 福住は水の入ったコップを田神の前に置くと、小さく頭を下げた。
「なんだよ、せっかくお客さんを連れてきてやったのに」
 田神の右隣にいる大黒が少し口を尖らせると、左にいる財部が「まあ、まあ」と二人をなだめた。
 落ち着こうと、田神は出された水を飲んで一息吐いた。
「あっ、あの、ここ、どこですか?」
「えっ? ああっ、ここは食堂ですよ」
 どこから見ても食堂だろうと福住は目をパチクリさせて、真顔で訊いてくる田神に答えた。
「でもね、そこらにある食堂とは一味違うんですよ」
 出目を爛々と輝かせて割り込んできた大黒は得意げに続けた。
「ここはね、自分だけのねこまんまが楽しめる所なんです。しかも持ち込みOKで、なにやっても文句は言われない」
「えっ?」と、驚く田神の頭越しに、大黒が向こうの席にいた二人に声を掛けた。
「そうですよね。財部さん、小禄さん!」
 大黒の明るい声に微笑んで頷く二人を見て、田神は少し安心したのか、改めて福住に訊いた。
「持込までOKなんて、変わったシステムというか食堂ですね? いつからこうなったんですか?」
「ついさっき、なりました」
 苦虫を潰したような福住の顔を見て、田上が「プッ」と小さく吹き出した。
「失礼しました。いきなり腕を捕まれて、そのまま問答無用で引きずり込まれたんで、なんか変なカルト集団に絡まれたと思って……」
 照れ臭そうに話す田神に、福住は「無理もない……」と心から同情した。
「でも、ここ食堂だったんですね。よかった」
 ようやく田神の顔から恐怖の色が消えると、大黒はここぞとばかりに例のねこまんまを出してきた。
「百聞は一見に如かず。これ、僕が作ったねこまんまです。まずは、一口食べてみてください」
 目の前に出されたチー鱈ねこまんまを、ジッと見詰る田神の顔が再び強張り始めた。
(なんだこれ? チー鱈に得体の知れないソースが掛かってる。かなり思い切ったねこまんまというか、理解できない……)
 見詰たまま、ねこまんまを指差した田神が福住に訊いた。
「これ、食べても大丈夫なんですか?」
「ええっ、大丈夫ですよ。悪くはありません。でも、気味が悪かったら、食べなくてもいいですよ」
「えーーっ! まこっちゃん、なんてこと言うんだい! 僕の渾身のねこまんまに!」
 顔色一つ変えず乱暴に言う福住に、大黒は激しく抗議した。
「なあ、兄さん。悪いが一口食べてやってくれないか? 頼むよ」
「私からもお願いするよ。一口だけでいいんだよ」
 傍らにいた財部と小禄が、苦笑いを浮かべて頭を下げた。
 さすがに、人生の大先輩二人から頭を下げられては断り切れない。
 観念した田神は、命綱のないバンジージャンプに向かう気持ちで覚悟を決めた。
 箸箱から箸を手にした田神は、改めて大黒のねこまんまを見詰た。
(うん、大丈夫。毒が入ってわけじゃない。それにマスターも「悪くはない」てっ、言っていた)
 そう自分に言い聞かせた田神が、マスターこと福住に目をやると、薄っすら笑いながら、ゆっくりと頷いていた。
 田神は「いただきます」と手を合わせ、「んっ」と短い息を吐くとゴクリと喉を鳴らした。
 そして、大黒特製のねこまんまを一口運んでモグモグと口を動かし始めた。
(んっ、なんだ? この濃厚なチーたらに絶妙にマッチしたソースは? 濃いチー鱈と醤油マヨが後が引かないように、ワサビが上手く効いている)
 目を瞠りながら、不思議な味のするねこまんまを見入る田神に、小鼻を膨らませた大黒が訊いてきた。
「どうです、僕のねこまんまは? けっこうイケるでしょう?」
 ゴクリと飲み込むと、田神は申し訳なさそうに大黒を見た。
「あの〜〜っ、もう一口いいですか?」
「どうぞ、どうぞ! 一口と言わず、全部食べてください!」
 大黒の許しを得た田神は「ありがとうございます!」と、勢い良くねこまんまを?き込み、あっという間に平らげてしまった。
 食べ終えた田神が茶碗と端を戻し「ごちそうさまでした」と丁寧に手を合わせると、財部と小禄が目を細めていた。
「いいね。若い人が元気良く食べる姿は、こっちまで嬉しくなるよ」
「そうだね。なんだか元気が貰える気がするねえ」
「見事な食べっぷりでした!」
 大黒は自分のねこまんまが受け入れられたと、小躍りするように喜んだ。
 そんな三人とは裏腹に、田神は空になった茶碗に目を落としていた。
「そんな、僕はそんな大した人間じゃありません……」
「兄さん、どうした? 何かあったのかい?」
「あっ、僕『田神 尚之』と言います。不動産を扱っているM地所開発に勤めています」
「そりゃ大手じゃないか。やっぱり大したもんだ」
 優しく話し掛ける財部に、田神は勤め始めてからのことをポツリ、ポツリと話し始めた。
 地方大学を優秀な成績で卒業した田神は、明朗快活な人柄もあって、大手不動産会社・M地所開発に営業マンとして、すんなりと就職した。
 田神の初めての勤務先は、大阪支社の住宅事業部だった。
 大阪という、おおらかで人情味のある土地柄に、田神はすぐに馴染んだ。
 馴染めば、馴染むほど田神の人の輪は広がり、順調に営業成績を伸ばしていった。
 気が付けば、三年という月日があっという間に流れ、その頃には「住宅事業部のエース」と噂されるまでになっていた。
 そんな田神に東京・本社栄転という白羽の矢が立った。
 異例の大抜擢に胸を躍らせて、田神は東京に向かった。
 が、土地柄が違えば、人柄も何かも違ってくる。大阪で培ったノリの良さも、東京では裏目に出ることもあった。
 栄転一年目の田神はその違いに戸惑いながらも、何とか最低限の数字は残したが、課長からは「お前を引っ張ってくださった部長の顔に、これ以上泥を塗るな!」と叱咤され、同僚からは「大阪から来た張子の虎」と揶揄された。
 二年目に入った今年の春、汚名返上とばかりに力んだが、これまで以上に結果が出せなくなっていた。
 今まで順風満帆なサラリーマン生活を歩んできた田神にとって、初めての試練だった。
「もう、どうしていいのか分からなくなって、何をやっても自信が持てません。このまま結果が出なかったら、そのうちどこかに飛ばされるんじゃないかって、不安で、不安で……」
「田神君、考え過ぎだ。少し肩の力を抜いたらどうだ」
 まるでこれから戦力外通告を受けるプロ野球選手のように力なく微笑む田神に、財部は気遣うように言葉を掛けた。
「自分でもこのままじゃダメだてっ、分かってるんです。何かを変えなきゃてっ。でっ、どうせ飛ばされるなら、いっそ転職して自分が今置かれている環境を変えようかとさえ思っています」
 目を落としたまま、思い詰めた言葉を吐く田神に、福住の肩で足をブラブラさせていた福の神が「ふんっ」と鼻で笑った。
「こいつ、お前と似たり寄ったりのアホだな」
 これを聞いた途端、腕を組んで突っ立ったまんま、田神の話に聞き入っていた福住の顔が引きつった。
(どこが似たり寄ったりなんですか? 彼の方が俺なんかより、数段上の生き方をしていると思うんですが?)
「どこがじゃ?」
 前を向いたまま、顔を引きつらせた福住は言葉に詰まった。
「いいか、今こいつは苦境に立たされておる。それを解決しようと転職まで考えてなあ。裏を返せば、環境さえ整えば、もっと自分はうまくやれると思い込んどる。少しばかり痛い目に会って、それを周りのせいにしているところなんぞ、以前のお前にそっくりじゃ」
 福住はそーっと横目で肩口にいる福の神を見ると、先ほどの恵比須顔とは打って変わって、怒気をあらわにした閻魔顔になっていた。
(ヒッ! 俺の肩に鬼がいる!)
青ざめる福住など、お構いなしに福の神は続けた
「というこうは、こいつは今をしっかり生き切っておらんということじゃ。そんなに己の周りを大きく変えんでも、心掛け次第で日々の暮らしの中で学ぶべきことが多々ある。それがこいつの明日に繋がっていることに気付いとらん」
 ピッ!と竿先を田神に向けた閻魔顔の福の神が、一段と声を低くした。
「おいっ、今から言うことを、このアホに伝えろ」
(えっ! そんなこと神様が直接言ってくださいよ!)
「ワシの言ってることが分かるのは、ミィーちゃんとお前だけじゃ」
(だからって、俺を巻き込まないでください!)
 顔を強張らせて必死に抵抗する福住の鼻先に、田神に向けられていた竿先が突然、ピッ!と向かって来た。
「嫌なら、これじゃ」
 背中に冷たいもの感じた福住がまた横目を走らせると、閻魔顔の口元がニヤリと上がっていた。
(鬼が笑ってるーーっ!)
 その心の叫びを最後に、思考停止に陥った福住を置き去りにして、福の神は鬼笑いのまま言った。
「まずは、『直心是道場(じきしんこれえどうじょう)』と言え」
―直心是道場―
「直心」つまり素直な心でありのままを受け入れ、精進すれば天地到るところが「道場」であり、修行の場になることを言う。
 今風に言い換えるなら、どんな環境、どんな相手でも、自分自身が素直な心を持っていれば、そこから学び成長できるという、とてもありがたい禅の教えである。
 そして、福の神の目には、今の田神があまりにも数字や周囲の評価に惑わされ、肝心の客と正面から向き合ってないように映っていた。
「そんな奴から誰がものを買う。わかったか。さあ、言え!」
(逃げ出したい……)福住は心の底からそう願ったが、肩口の鬼が許すはずもなく、腹を括った。
「あっ、あの、田神さん」
 躊躇いがちに声を掛ける福住に、田神が「えっ?」と顔を上げた。
「『直心是道場』という言葉、ご存知ですか?」
「……? いえっ、知りません。どういう意味なんですか?」
 福住は以外にも、落ち着いた口調で話す自分に少し驚きながら、福の神が語った『直心是道場』をそのまま伝えた。
「田神さん、ちゃんと、お客さんと向き合ってますか?」
「そのつもりですが……」
 なに当たり前のことを訊いてくるんだと、田神は少し眉を寄せた。
「気に障ったんなら謝ります。申し訳ない。しかし、俺にはそういう風には聞こえなかった」
「えっ……」と、田神の他の三人も小さく声を上げた。
「家にしろマンションにしろ、お客さんがどんな想いで、それを買ったり借りたりするか、ちゃんと見えていますか?」
「…………」
「俺には田神さんがノルマや評価を気にし過ぎて、その想いが少し見えづらくなっているように思えるんです」
「…………」
「ある商談がダメでも、ダメだったことにだけ執われず、なぜダメだったのか、何が足りなかったのか、必ず田神さんなりに学べる何かが、そこにあると思うんです」
 福住の言葉に聞き入っていた田神は、自分の姿に気が付いた。
―見えていなかった。
 いつも結果ばかり求め、出なければ落胆して毒吐く自分が、そこにはいた。
 そんな自分も嫌だった。
 そんなことを繰り返しているうちに、客の顔が数字にしか見えなくなっていた。
 その向うにある大切なものを見ようともしなくなっていた。―
 話を聞くうちに田神はいつの間にか、下を向いて黙り込んでしまった。
「あっ、もちろん数字や評価は大切です。でも、日々接するお客さんの想いも大事なんじゃないかなーてっ」
 田神の姿にあたふたする福住に、大黒が目を尖らせていた。
「まこっちゃん! 落ち込んでる人を、もっと落ち込ませてどうするんだい!」
「いやっ、俺はなにもそんなつもりは……」
「つもりじゃなかったら、傷口に塩を塗っても構わないのか! どうなんだ、誠君!」
「見損なったよ! もっと情のある人間かと思ってたのに!」
 財部と小禄も目を吊り上げて、福住を吊るし上げた。
 三人に集中砲火を浴びせられて福住は思った。俺はただ、福の神の言葉を伝えただけなのにと。
(神様、何とかしてください! これじゃ、俺が悪者になってしまう!)
 堪らず福住が心の中で叫んだが、肩口の福の神は薄っすら微笑んで「耐えろ」とだけ言った。
「違うんです……」
 俯いていた田神が蚊が鳴くようなか細い声でそう言うと、突然立ち上がり、袋叩き状態の福住の手をガッシィ!と両手で固く握った。
「ありがとうございます!」
「へぇ?」
「マスターが気付かせてくれたんです!」
(えっ? マスターてっ、誰?)と、戸惑う福住に田神は真剣な眼差しを向けていた。
「営業マンとして、お客様ときちんと向き合うことの大切さをマスターは気付かせてくれたんです」
 目に光るものを浮かべて田神は、福住を見詰たまま一層固く手を握り締めた。
「いろんなもんに振り回されて、本当は一番最初に見なくちゃいけないことが、見えなくなっていました」
 田神にガッチリと手を掴まれた福住は目をしばたたかせていた。
(いえっ、俺は神様の言葉を伝えただけです……。なんて、口が裂けても言えない……)
「ありがとうございます。こんな見ず知らずの若造に『直心是道場』なんて、素晴らしい言葉を教えてくださって。曇っていた目が、少し晴れたような気がします!」
「いっ、いえっ。こんなしょぼくれた食堂のオヤジの言ったことなんか忘れて下さい」
「忘れません! 胸に刻みます!」
「あの、話聞いてます?」
 真直ぐな目で田神は力強く頷くと、ガッチリ握った手を離して元の席に着いた。
「田神君、なんかスッキリした顔になったな」
「よかったわね。しょげてたら男前が台無しだよ」
 傍らにいる財部と小禄が顔をほころばせて言うと、田神の向こう側にいた大黒が「そのキッカケを作ったのは、僕のねこまんまですからね」と、天狗のように得意げに鼻を上げた。
 一方、福住は(何か、助かった……)と、丸椅子に腰を降ろして一息吐いた。
「何か、肩から余計な力が抜けたら、また腹が減ってきました。マスター、メニュー見せてもらえますか?」
 微笑んで訊く田神に、横から大黒が不気味な笑顔で「どうぞ」とお品書きを手渡した。
 顔を少し強張らせて「あっ、ありがとうごさいます」とお品書きを受け取った田神は中身を見て目を丸くした。
 そこには、おかかとみそ汁のねこまんまだけを残して、表のボードと同じ文言が書かれた紙が貼られていた。
(本当に好きにしていいんだ……。でもなんで、おかかとみそ汁のねこまんまだけが残っているんだろう?)
 不思議に思った田神は福住に訊いた。
「どうして、おかかとみそ汁のねこまんまを残しているんですか?」
「それは基本だからです」
「基本?」
「おかかにしろ、みそ汁にしろ、削り節やみそ汁を掛けただけの、とてもシンプルなものです。しかし、だからこそ丁寧に作るんです。手を抜けば、すぐにボロが出ますから」
 真摯に答える福住を見て、田神は基本を大切にするその姿勢が、お客様ときちんと向き合う営業マンのあるべき姿と通じるものを感じていた。
「じゃあ、そのおかかのねこまんまとみそ汁をください」
「ありがとうございます。すぐにお持ちします」
 スッと立ち上がった福住は、まずカウンター席の空になった茶碗と箸を流しに置いた。
 次に保温炊飯器からあったかごはんを茶碗によそうと、茶碗から溢れるほどの削り節を袋から掴み出して、優しい湯気が立つごはんの上にそっと置いた。
 あったかごはんの上で踊り出す削り節に目を細めた福住は、お椀を取り出し大鍋からみそ汁をついだ。
 ちなみに、本日のみそ汁の具は豆腐と油揚げである。
 お盆の上に手際良く用意されたねこまんまとみそ汁を、肩口にいた福の神が満足げに眺めていた。
「うむっ、今日も良い出来じゃ」
(ありがとうございます)
心の中で一礼した福住はカウンター越しに、お盆ごとねこまんまとみそ汁を田神の前に置いた。
「お待たせしました。醤油の量はお好みで、少しづつ掛けながら食べてください」
 田神は「はい」と頷くと、箸箱から新しい箸を取り「いただきます」と静かに手を合わせた。
 まずはみそ汁を一口つけると、田神は目を瞠った。
(インスタントとは、まるで違う。コクがあって、優しい……)
 二口目のみそ汁を少し口に含めると、田神は楽しむように舌の上で深く味わった。
(ああっ……、なんか懐かしい。あったまる……)
 懐かしく柔らかな風味を楽しんだ田神は、惜しみなく掛かったおかかに醤油を少しばかり垂らして、箸でほどよく混ぜ合わせた。
 混ぜ終えた田神が喉を鳴らして一口頬張ると、「んっ」と小さく唸った。
(香ばしいおかかにほんの少しだけ醤油を掛けただけなのに、箸が止まらない!)
 噛めば噛むほど、ほのかな甘みが口に広がるモッチリごはんに、これ以上は無いくらいマッチした醤油おかかが、グイグイ田神の箸を進めさせた。
 田神はまるでブレーキの壊れた機関車のように、茶碗の中で箸をブン回して掻き込み、一気に平らげた。
 最後にみそ汁を味わいながら飲み干し、こちらも綺麗に完食。
 その清々しい見事な食いっぷりに、その場にいた全員が「おーーっ」と声を上げた。
「やっぱり若い人が元気良く食べる姿は、何度見てもいいもんだ」
「ほんとだね。なんかスカッとするねえ」
「それだけ食べてくれたら、こっちも作りがいありますよ」
 財部と小禄は我が事のように目を細めて何度も頷き、福住も満足げに微笑んでいた。
 ただ、大黒だけは少し違っていた。
「皆さん、そのキッカケを作ったのは、僕のねこまんまであったことを、お忘れなきように」と、大黒はアピールしていた。
 田神が照れ臭そうに「ごちそうさまでした」と箸を置くいて改めて福住を見た。
「美味しかったです。マスター、また来ます」
「ええっ、いつでも入らして下さい」
 腰を上げ軽く皆に会釈した田神が店を後にすると、福住の肩口いた福の神も音もなくフッとその姿を消した。
 食堂から出て少し歩を進めた途端、田神の目に対岸にある大きな満開の桜が飛び込んで来た。
(うあ……。なんて綺麗で立派なんだ……)
 しばらく息を呑んで見入っていた田神が、突然苦笑した。
(ふっ、こんなに美しいものが目の前にあるのに、気が付かないなんて……、どんだけ余裕がないんだ、俺……)
 桜を見詰ていた田神が「うんっ」と力強く頷くと、踵を返して再び歩み始めた。
(やり直そう。今出来ることを一つ、一つ、きちんと向き合おう)
足取りが少し軽くなるのを感じながら、田神は胸の中でそう呟いた。

 田神が去った後、食堂では財部と小禄が福住にしきりに頭を下げていた。
「いや〜っ、悪かったな、誠君」
「あんなこと言って、すまなかったね」
「べっ、別に気にしていませんから、そんなに謝らないでください」
 二人の謝罪の言葉に、恐縮しっ放しの福住も頭を下げていた。
「しかし、なんだあれ。小難しい四文字熟語みたいなやつ」
「『直心是道場』ですか?」
「そうそう、それ。そんな言葉よく知ってたな」
「そうだよ。あたしゃ、あんたが徳の高いお坊様に見えたよ」
感心した顔でそう言う財部と小録に、福住は頭を掻きながら照れていた。
「それにしても、マスターとは偉くなったもんだ」
「こんな店でマスターなんてね」
 財部と小禄が笑みを浮かべて、飽きもせずに福住をイジリ回していると、唐突に「ゴホン!」と大きな咳払いがした。
 三人が咳払いの方に目をやると、大黒はゆっくりと立ち上がり、どこかの偉い学者先生のように後ろ手に組ながら狭い店内を歩き回り始めた。
「いいですか皆さん、確かに田神氏は、まこっちゃんのありがたい言葉とねこまんまによって、やる気を取り戻し、また前を向くようになりました」
 そう言うと大黒は突然立ち止まり、三人の方を向いて人差し指を顔の前に立てて「そこまではいいですね」と確認するように訊いた。
 黙って頷く三人に、大黒も満足げに頷いた。
「では、そのキッカケを作ったのは、何なんでしょう。僕は繰り返し言いましたが、忘れたんですか?」
 アゴを上げて得意満面に語る大黒を、三人は死んだ魚のような目で見ていた。
(拗ねたな店長。誠君ばかり褒められるんで……)
(小さい男だね。幼馴染が聞いて呆れるよ……)
(大黒、面倒臭い。もうそれ以上しゃべるな……)
 図に乗った大黒が改めて三人を見渡した。
「いいでしょう。皆さんが忘れているようなので――」
「おいっ、もういい。どうせ、お前さんのゲテモノまんまてっ言いたいんだろ」
財部が手で大黒を制して言い放つと、小禄も白けた目で吐き捨てた。
「もう聞き飽きたよ。あんたのゲテモノまんまのことなんか」
二人のあまりの言い草に、大黒は口を半開きにしたまま、出目を剥いて固まった。
 福住が「大黒」と声を掛けると、サビ付いた機械仕掛けの人形のようにぎこちなくと小刻みに震えながら大黒は顔を向けた。
「まっ、まこっちゃんなら、分かってくれるよね……」
 泣き付くように言う大黒を、労わるように福住は大きく頷いた。
「ああっ、でも、もう何もしゃべるな」
「えっ……」
 そう小さく声を上げた大黒は、ヒザから崩れ落ち、冷たい床に両手を突いてうな垂れた。
 大黒、本日二回目の崩壊である。
 福住ら三人は「また、大げさな」と呆れ返りながらも、笑みを浮かべていた。

 一方、福住の肩から消えた福の神は奥の部屋にいた。
 奥の部屋では、ミィーちゃんが座布団の上でまん丸になって寝ている。
 福の神は、その傍らであぐらを掻いていた。
「しかし、人というのは、色々考え込んどるうちに、自分であれこれと面倒臭くしておるようじゃな。ミィーちゃんもそう思わんか?」
 目の前で繰広げられる人間共の馬鹿騒ぎを眺めなら、福の神は薄っすら微笑んでいた。
 それに気が付いたミィーちゃんは、鎌首をもたげて大あくびしながら「ふぁ……。神様……、何かあったんですか……?」と、寝ぼけ眼でその馬鹿騒ぎをボーッと眺めた。


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