四月一日のお昼前。よく晴れ上がった空の下、対岸にある七分咲きの桜は、そこまで来ている春本番を今か、今かと待ちかねていた。 この日、ようやく食堂の再開に漕ぎ着けた福住は気力に満ちていた。 店の軒先には屋号が入った暖簾が掛けられ、客席側では亡き祖父が愛用していた白の前掛けを腰の前で固く締め着けると自然に力が沸いてきた。 ごはんはすでに炊き上がり、二升の炊飯器の中を保温状態で待機中。短冊切した大根と油揚げのみそ汁もスープジャーの中で、その時を待ちながら、柔らかな湯気を溜めていた。 米や味噌、缶詰、漬物などの材料は、財部の紹介で市場から安く購入でき、またその財部からは売り物にならなくなったグズ野菜をタダ同然で譲ってもらい、みそ汁の具材などに使うことができた。 そして今、福住の手には考えに、考え抜いた手書きの「ねこまんま」のお品書きがあった。 そこには定番の「おかかねこまんま」と「みそ汁ねこまんま」以外に、「シラスおろしのおかかねこまんま」やツナ缶を使ったものなど、計十種類のねこまんまが簡単な紹介文と共に書き込まれていた。 これを見て福住は、「んっ、やるぞ!」と言わんばかりに頷いた。 テーブル席にお品書きを置くと、今度は奥の部屋から百均で購入した自立式のチョークボードを持ち出し、店先に置いた。 福住は腰を落として、そこに今日のおすすめである酸味とバターの相性が抜群の「梅じそバターねこまんま」と紹介文を書くと、仕上げに赤チョークで力強くアンダーバーを二本引いた。 満足気にボードの文言を眺める福住の元に、ミィーちゃんの背に乗って福の神が現れた。 「よいよじゃな」 目を細めて声を掛ける福の神を見て、福住は力強くアゴを引くと、少し首を捻った。 そして無遠慮にジロジロ見回すと、福の神は不愉快そうに口を開いた。 「なんじゃ?」 「あっ、いや別に……。なんか、さらに小ぎれいになったというか、貧相な所はあまり変わっていませんが……」 「貧相な所は変らんじゃと?」 躊躇しながらも余計な一言を口にする福住に、福の神は眉を寄せた。 「ふんっ、まあよい」 そう福の神は苦笑すると、涼しい顔で言った。 「お前が毎日、丹念に神棚を掃除してくれてるからな」 「へっ?」 福の神の言葉に目をしばたたかせている福住の背後から、突然声がした。 「おいっ、猫相手に何してんだ? 大丈夫か?」 驚いて腰を上げて振り返ると、すぐ後ろに心配そうに福住を見詰る財部と小禄が立っていた。 「だっ、大丈夫です! 何でもありません!」 「本当かい? 今日から再開するんだろう。そんなことじゃ、先が思いやられるよ」 やきもきするような口ぶりで訊く小禄に、福住は目を泳がせて「大丈夫です」と幾度も繰り返した。 「本当か? この前もその猫に向かって『最新式の首の運動』だとか言ってたが、今度は何だ?」 「えっ!」 眉を寄せて訊く財部に言葉を詰まらせる福住は、ようやく口を開いた。 「えーとっ、これはですね……、そう、猫を使って集中力を高めるメソッドです! しかも最新式のヤツです!」 二人は口をへの字に曲げて、白い目を福住に投げ付けていた。 「本当です! 今ニューヨークを中心に、ジワリと来ています」 ニューヨーク発の最新メソッドなどと、有りもしない海外事情を並べれば誤魔化せると思っていた福住を、尚も二人は怪しんだ。 困り果てた福住をミィーちゃんの背から眺めていた福の神が「ほれ、ミィーちゃん、お客様にご挨拶じゃ」と、助け舟を出した。 「ミャ〜〜ン」 愛想たっぷりに福の神を乗せたまま尻尾を高く上げて鳴くミィーちゃんが、福住の足元に現れた途端に二人は目尻を下げて腰をかがめた。 くどいようだが、福の神はミィーちゃんと福住にしか見えない。 小禄がミィーちゃんの頭を撫でながら、目を細めて訊いた 「まあ! なんて可愛らしい! この子、なんていうんだい?」 「ミィーちゃんです」 「そう、ミィーちゃんてっいうの。それに、何かとても福々しい感じがするねえ。財部さんもそう思わないかい?」 「そうだな。言われてみれば、そんな感じがするな。確かにこの猫なら、気合が入るかもしれんな」 財部も目を細めて頷いた。 福の神の機転とミィーちゃんの可愛らしさで何とか誤魔化し切った福住は「店先では、何ですから入ってください」と、二人を中に促した。 急かすように二人を入れると、福住は振返ってミィーちゃんに跨った福の神にペコリと頭を下げ、二人の後に続いた。 店に入る福住の背中を眺めながら、福の神はニヤリと口元を緩めた。 「福の神、なめんな」
財部と小禄がカウンター席に着くと、タイミング良くガラス格子の引き戸がガラガラと大きな音を立てて開き、出目の大黒もやって来た。 「よいよだね、まこっちゃん」 小鼻を膨らませて、そう声を掛けた大黒は店内を見回すと「あれっ?」という顔をした。 「ひよっとして、俺と財部さんに、小禄さんの三人だけ?」 地域密着型のスーパーの店長であり、福住の幼馴染でもある大黒は、二人とは昔からの顔見知りだった。 「仕方ないだろう。ねこまんまの研究やバイトやその他諸々で、告知まで手が回らなかったんだ。突っ立ってないで、さっさと座れ」 福住がぶっきらぼうに言い返すと、財部が「まあ、まあ」と二人をなだめ、大黒は渋々カウンター席に着いた。 「ところで誠君、メニューみたいなものはないのか?」 「ああっそれでしたら」と、福住はテーブル席に置きっ放しにしていたお品書きを財部に手渡した。 手渡されたお品書きに三人は額を寄せて、「どれどれ」と見入った。 三人が一通り目を通すと、大黒が興味津々といった口ぶりで訊いてきた。 「まこっちゃん、おすすめは何?」 「今日のおすすめは、表のボードにも書いているが、『梅じそバターねこまんま』だ」 「えっ? バターてっ、普通パンに塗るものだろう? ご飯に合うの?」 「バターはパンに塗るものと、誰が決めた? 食えばわかる。バターのコクと梅の酸味の相性の良さがな」 腕を組んで自信満々に答えると、三人は取りあえず福住が推す「梅じそバターねこまんま」とみそ汁を注文した。 注文を受けた福住は急いで厨房に入り、流し台でさっと手を洗い、前掛けで拭うと炊飯器の蓋に手を掛けた。 もわぁと、勢いよく立つ湯気と共に薄っすらと広がる炊き立てのごはん特有の甘い香りが福住の鼻をくすぐった。 思わず口元が緩ませながら、用意した三つの茶碗に手早くふっくらと炊き上がったばかりのあったかごはんを盛ると、その上に半分に切った青しそと梅干、そして一欠けらのバターを脇に乗せた。 仕上げに醤油をサッとかけ回し、「梅じそバターねこまんま」の完成である。 その出来具合に白い歯を見せた福住は、同じ要領で残り二つを薄っすらと笑みを浮かべながら、あっという間に作り終えた。 そして、スープジャーで出番を待つみそ汁を三つのお椀に注ぎ分けた。 まるで小さな子供が目を輝かせて一つのことに夢中になっているように、テキパキと厨房で楽しげに作業する福住を見ているうちに、大黒は少し羨ましくなっていた。 (土俵際まで追い込まれてるくせに、なんか楽しそうだな。今度俺も作ってみようかな、ねこまんま) 出目の幼馴染がそんな他愛もないことを思い浮かべているうちに、三人の前に柔らかな湯気を湛えた梅じそバターねこまんまと、大根と油揚げのみそ汁が用意された。 出されたねこまんまとみそ汁に手を合わせ、「いただきまーす」と声を揃えた三人は、まずみそ汁を口にした。 みそ汁を口にして、三人はそれぞれ感想を口にした。 「幸造さんほどじゃないが、まあまあだな」 「うんっ、そうだね。まだ雑味が少し残っているけど、そう悪くわないわね」 「そうかな? 俺は全然イケてると思うけど」 したり顔で言う財部と小禄とは対照的に、大黒だけはみそ汁を気に入ったようだ。 「まだまだ勉強不足で……」 恐縮する福住に財部は、もう一口みそ汁を飲むと顔を綻ばせてた。 「そんな気にすることはない。よく短期間でここまで仕上げたもんだ。後は毎日続けて、舌で覚えるんだな」 「そうだよ。やっぱり、血は争えないもんだね。ほんと財部さんの言う通り、後はしっかり続けていくことだよ」 小禄もみそ汁を味わいながら優しく励ましていたが、大黒だけはみそ汁の具材である大根と油揚げを脇目も振らずに頬張っていた。 二人とは明らかに違う反応を示す大黒は、まったく場の空気を読むことなく、笑顔で大根と油揚げを箸で摘み上げて見せた。 「んっ? どうしたの? これ味が滲みて美味しいよ」 みそ汁を堪能した三人は、よいよ福住おすすめの「梅じそバターねこまんま」に取り掛かった。 すでにバターは溶け、濃厚なバター醤油味に変貌を遂げたごはんを口に運ぶと、三人は目を剥いて「んっ!」と唸った。 濃厚なバターと甘辛い醤油が絡みあったかごはんは、そこら辺の小じゃれたバターライスとは一味違う。 口の中で広がるコッテリとした味の後に、甘辛さが追って来て味覚を一層刺激しする。箸でほぐした梅の実と合わせて頂けば、上品な酸味も加わって、絶妙なハーモニーに舌を巻く。フィニッシュに青しそを巻いて口に運ぶと、しその爽やかな香りが鼻を貫ける。 綺麗にねこまんまとみそ汁を完食した三人は、「ごちそうさまでした」と手を合わせ、それぞれに感想を頭に巡らせていた。 (確かに、誠君の工夫が見られて美味いことは、美味いんだが……) (悪くないんだけど、やっぱり、ねこまんまじゃね……) (これなら、俺だって家で作れそうだし……)と、一様にその美味しさを認めながらも、そこはやはり「ねこまんま」、皆どこか残念な顔をした。 カウンター越しに三人の様子を怪訝な顔で見詰る福住は訊いた。 「なっ、何か問題でも?」 「いやっ、美味かったよ、誠君。これなら、多分やっていけるんじゃないかな……」 「みそ汁も美味しかったしね。まあ、なんとかなるかも……」 「バターがこんなに合うなんて知らなかったよ、まこっちゃん……」 三人はどこか歯切れが悪かった。 「気になる所があるなら、はっきり言ってくださいよ。今後の課題にしますから」 何がいけなかったのかと困惑する福住に、財部と小禄は言い訳するように答えた。 「いやっ、そういうことじゃないんだ」 「そうだよ。財部さんの言う通り、決して悪くはないんだよ」 「えっ? 悪くないなら……」 何が何だか訳が解らない。頭がこがらがる福住の胸に、大黒のぶ太っい五寸釘のような一言がブスリと突き刺した。 「まこっちゃん、やっぱり、ねこまんまだからだよ」 この男、場の空気を読めないというより、読む気など最初っからサラサラなかった。 「なっ……」と、言葉を失う福住に、幼馴染のせいか、さらに大黒は遠慮なく五寸釘をブスブス打ち込んだ。 「考えてもみなよ、ねこまんまだよ。普通に家でもできるし、わざわざ外で食べるかい?」 身も蓋もないこと平気でぶつけても、そこは子供の頃からの付き合いである。決してフォローは忘れてはない。 「でも、みそ汁はほんと美味しかったし、ごはんもふっくら、モッチリとしてて、噛むとほんのりと甘みがあったよ。上手く炊いたもんだね」 ストレート過ぎる大黒の言葉に、色を失った福住は厨房で突っ立ったまんま微動だにしなかった。 そんな福住に苦笑いを浮かべた財部が、ねこまんまとみそ汁の代金二五〇円を置いて席を立った。 「まあ、そう気を落としなさんな」 「…………」 続いて立った小禄も励まして支払った。 「そうだよ。気にすることはないよ。明日もくるからね」 「…………」 「まこっちゃん、俺は最後まで応援しているからね!」 最後に福住を木偶人形に変えた大黒が、力強く頷いて見せて小銭を置いた。
その頃、福の神とミィーちゃんはガードレールの根元に腰を下ろして対岸にある七分咲きの桜を愛でていた。 「もう少しで満開じゃな。待ち遠しいのお、ミィーちゃん」 「ミャ!」 ミィーちゃんが陽気に鳴くと同時に、食堂の出入り口の引き戸が大きな音を立てると、福の神とミィーちゃんはそちらに目を移した。 「おっ、済んだようじゃな。さあ、ミィーちゃんお見送りじゃ」 福の神は立ち上がり、そのままフワリと浮いてミィーちゃんの背に乗ると、ミィーちゃんも腰を上げた。 店先で「ミャ〜〜ン」と愛想よく鳴いて近づいて来る福々しい白猫に気が付くや、三人は一斉にだらしなく頬を緩めた。 「まあ、ミィーちゃん! お見送りに来てくれたのかい! 嬉しいねえ」 腰をかがめて優しく頭を撫でる小禄の左右に、同じように腰をかがめた財部と大黒も目尻が下がりっ放しだ。 「本当に賢い猫だよ。ここの招き猫にでもなってくれたら、誠君も喜ぶだろな」 「ええっ、そうですね。それに小禄さんの言う通り、実に福々しい。まこっちゃんには釣合わないくらい福々しいですね」 大黒の容赦のない言葉に二人「そうだ、そうだ」と言わんばかりにグッとアゴを引いた。 暫しの間、ミィーちゃんの可愛らしさと福々しさに心満たされた三人は、「それじゃ、またね」と腰を上げ、ホクホク顔で帰って行った。 三人を満足げに見送る福の神が、開き放っしの引き戸に気が付いた。 「大の大人がだらしないのう。開けたら、ちゃんと閉めるもんじゃ。うんっ?」 ミィーちゃんに跨った福の神が中を覗き込むと、厨房で木偶に変わり果てた福住がポツンと突っ立っていた。 「あいつ、何やとんじゃ?」 店先で頭に大きな「?」マークを付けた福の神とミィーちゃんは首を捻るばかりだった。
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