食堂再開まであと三日に迫っていた。 その日も朝から晴れ上がり、霞掛かったぼんやりとした春の空には綿を千切ったような雲がフワフワと浮き、桜も綻び始めていた。 しかし、そんな春らしい眺めなど一切目に留めず、福住はテーブル席でお品書き作りに頭を痛めていた。 (うーんっ、どれもこれも捨て難い。だが、ここは基本形である「おかか」と「みそ汁」を軸にして……) テーブルに置かれたノートには、びっしりと種々雑多な「ねこまんま」で埋め尽くされていた。 そのノートには、これまで数々の試作を重ねた「ねこまんま」のデータが事細かに書き込まれていた。 例えば、「シラスおろしのおかかねこまんま」では、茶碗一杯のごはんに対して、シラスと大根おろしの様々な比率が記してあり、シラスが多過ぎると塩気が強くなり、またコスト面でも割の合わない一品になる。 逆に大根おろしが勝ると、水っぽく、何とも締まりのない味になってしまう。 このようにこのノートは言わば、これまで福住が心血を注いだ「ねこまんま」研究の結晶だった。 煮詰まった福住がノートを睨んだまま福の神に声を掛けた。 「ねえ、神様。どれを選んだらいいんでしょ? やはり、基本形を軸に……」 そう言いながら振返る福住の目に飛び込んで来たのは、奥の部屋で竿を肩に掛けてあぐらを掻きながら、ふわり、ふわりと宙を漂う福の神と、それにじゃれつくミィーちゃんの姿だった。 「ほれっ、ミィーちゃん、こっちじゃ、こっち!」 「ミャ!」 右に左に、優雅に宙を舞う福の神を何とか捕らえようと、ミィーちゃんは後脚で器用に立ちながら、必死に前脚を伸ばしていた。 福住は思った。いったい、どこの世界に猫と戯れる福の神がいるのだと。 関西では毎年、一月に「十日戎」と呼ばれる戎社の祭礼が行われている。一月の九日、十日、十一日に商売の神として親しまれる戎(恵比寿)神を奉り、参詣者が商売繁盛を祈願する。 中でも、大阪市にある今宮神社は、十日戎が盛んな関西で最も賑わい、毎年百万人以上の参拝者が訪れている。 その参拝者達のためにも、福住は見なかったことにした。 福住は気を取り直して、ミィーちゃんとじゃれ合う福の神に声を掛けた。 「あのーっ、お取り込み中、申し訳ありませんが……」 「んっ? なんじゃ。今ワシはミィーちゃんの相手で忙しい。見てわからんのか?」 「…………」 目の前で繰り広げられる神様と猫の珍妙な光景を見て、福住は自力でお品書きを作ることにした。
同じ頃、あけぼの食堂へ続く川沿いの道を、和装姿の老人が杖を片手に、周囲を眺めながらゆったりと歩いていた。 (ここら辺は、昔とあまり変っとらんな。あの食堂以外は……) 穏やかな春の陽の中を、突然一陣の風がビュ!と、老人の前を乱暴に通り抜けた。 身震いした老人は改めて首元にある淡いグレーのマフラーを整え直し、やれやれと顔を上げると、「えっ!」と息を呑んだ。 老人は慌てて眼鏡を外し、信玄巾着から急いで眼鏡拭きを取り出して拭き、掛け直した。 (あっ、開いている! あけぼの食堂が開いている……) 長年追い求めていたものが、いきなり目の前に現れたかのように、老人は覚束ない足取りでフラフラと食堂に向った。 歳のせいか、思うように動かない足に少しイラつきながらも、老人はやっとの思いで食堂の出入口に着いた。 中を覗き込むと、なにやら無精ヒゲを生やしたおっさんが腕を組んで真剣に目の前にあるノートを穴が開くほど見詰ていた。 (誰だ?)と、老人は目を凝らしてしばらく考え込んでいた。 (んっ、やはり歳には勝てんな。まったく思い出せん。こりゃ、聞いた方がいいな) そう思い直し、年季と格子が入ったガラスの引き戸に手を掛けた。 ガラガラと、大きな音立てる引き戸に目もくれずに、ノートを見詰たまま福住は「すいません。まだ、何もやってません」とぶっきらぼうに答えた。 「考え事の最中にすまないね。少し聞きたいことがあるんだが」 老人がそう優しく訊くと、「何ですか?」と顔を上げた途端、福住の目が大きく見開いた。 福住の目の前には、程良い節と光沢感のあるいぶし銀の着物と羽織りをお洒落に着こなす、少し小柄な老人が杖を突いて立っていた。 歳相応に白いものが多く混ざっていたが、綺麗に刈り上げられている髪は、小ざっぱりとした清潔感に溢れ、ザックリとした柔らかな風合いが漂う上物の紬を、本物志向の丈夫な濃紺の角帯でギュと巻く。その姿はどこから見ても、老舗大店のご隠居風といった品の良さが滲み出ていた。 老人が指で「そこいいかい?」と福住の正面にあるチープなパイプ椅子を指すと、福住は慌てて腰を上げ「どうぞ、すぐにお茶をお持ちします」と言って、急いで厨房に入った。 老人が入って来るなり、宙に浮いていた福の神はミィーちゃんとじゃれるのを止めて畳に着くと、その場に腰を下ろして、しばらく老人の様子をジッと見ていた。 そして、何かを感じ取った福の神がボソリと呟いた。 「あの爺さん、かなりの場数を踏んどるな……」 福住がお盆に乗った湯飲みを老人の前に置くと、老人は軽く会釈した。 「わざわざ、すまないね。でっ、さっきから難しい顔で何を見ていたんだい?」 福住は「ああっ、これです」と、研究ノートを老人の方へ押し出した。 「どれどれ」と、ノートを手にした老人は「ほうっ」と唸り声を上げながら、一ページ、一ページ、丹念に目を通していった。 (はあーっ、こりゃ、ねこまんまだらけだな。よくもまあ、ここまで事細かに書けたもんだ。ある意味すごい) 最後のページを読み終えた老人はノートを返すと、お茶をすすりながら訊いた。 「それ全部、あんた一人でやったのか?」 福住が真顔で大きく頷くと、「大したもんだ」と老人は顔を綻ばせた。 「あっ、申し遅れたが、わしは恵比原(えびはら)というここの昔馴染みでな、シャッターが上がってたんで、ちょっと寄らせてもらったんだ」 「そうなんですか」 「でっ、あんた、誰なんだ?」 「えっ? ああっ、孫です。福住幸造と寿賀子の孫です」 福住が躊躇いがちに答えると、恵比原は目をしばたたかせた。 「あんたがあの孫か!」 福住がドン引きするほどの声を上げた恵比原は、小躍りするように続けた。 「いやーっ、長生きはするもんだな。あの二人がよくボヤいていたお孫さんに出会えるとはな」 「えっ? ボヤくてっ?」 「ああっ、何をやっても長続きしない。口先ばかりで、逃げてばかりいるてっな」 これを聞いた福住は肩を落として、心の中で亡き祖父母に土下座した。 「しかし、実際に合ってみると、少しばかり違うような気がしてきた。もっとだらしない奴かと思っていたんだが」 恵比原はそう言いながら、店内の様子を窺がっていた。 「店の手入れも行届いているようだし、それにそのノートだ。ここを再開させるのか?」 「はい」 「ねこまんまでか?」 「はいっ、ねこまんまで」 真剣な眼差しで答える福住を見て、恵比原はまたも「ほうっ」と唸り声を上げた。 「よかったら、なぜねこまんまでここを再開させるのか、訳を聞かせてくれんか?」 福住は初対面の恵比原に話していいものかと少し迷ったが、真摯な態度で訊ねてくるこの昔馴染に、ここに至るまでの事の一部始終を話した。 ただし、鬼のような福の神に関しては、話がややこっしくなると思い、口にはしなかった。 「ほおーっ、そんな大勝負に、よく乗ったもんだな」 恵比原が目を丸くしてそう言うと、福住は黙って首を縦に振った。 「もう後には引けんか?」 「ここで引き下がる訳にはいかないんです。食堂のためにも、自分のためにも……」 恵比原はもう一口お茶をすすると、「そうか、頑張れよ」と湯飲みを戻して立ち上がった。 福住も腰を上げようとしたが、「そのまま、そのまま」と恵比原は優しく手で制した。 「ところで、いつ開くんだ?」 「四月一日です」 「まさか、四月バカじゃないろうな?」 「そんな余裕ありません」 真直ぐに答える福住を見て、笑みを浮かべた恵比原は「微力ながら、応援させてもらうよ」と告げ、踵を返してガラガラと大きな音を立てる引き戸の開け閉めの音を残して去って行った。 そこへ、奥の部屋からミィーちゃんに跨って福の神がやって来た。 「よかったのう。また、お客さんが付いてくれた。しかも、今度は上客じゃ」 恵比原が去った方を目で追いながら、福の神は頬を緩めた。
来た川沿いの道を戻る恵比原の背後に突然、影のように付き従う男が二人現れた。 一人は一八〇近い痩身で、もう一人は痩身の男よりも一回りもでかい、岩のようにゴツイ男だった。 「御前、探しましたよ」 そう声を掛けた痩身の男の額には、薄っすらと汗が滲んでいた。 その隣いる岩のようにゴツイ男も、ハンカチで汗を必死に拭いながら頷いた。 痩身の男は天城(あまぎ)といい、ゴツイ男は大国(おおくに)と呼ばれていた。 ともにダークグレーのスーツ姿に黒のサングラスを掛けた二人は、恵比原の身の回りの世話をする御付きの者であった。 恵比原は二人を気にも留めず、黙ったままマイペースで歩き続けた。 「さあ御前、急いでください。役員の方々が待っておられます」 天城が急かすように前に出ると、恵比原が不機嫌そうに口を開いた。 「なあ、その呼び方、何とかならんか。時代劇じゃあるまいし。わしには『恵比原 寿郎(ひさお)』という親から貰った名がある」 「……そう言われましても」 困り顔で俯く天城を見て、恵比原は鼻で吐息を漏らすと「好きにしろ」と投げやり気味に言った。 パッと顔を明るくした天城が、恵比原の背後にいる大国に車をここまで回すように指示を出すと、大国はその風貌に似つかわしくない俊敏さで走り出した。 その姿を見送った天城は、川に沿うように並んだガードレールに腰を下ろして一服する恵比原に訊いた。 「どころで御前、どちらに行かれてたんです?」 「ああっ、ちょっとな、昔の知り合いの所に顔を出してたんだ」 「困りますよ。いきなり、そんなことをされては。コンビニで用を足したいとおしゃるから、立ち寄ったのに、今度はいくら待っても出で来ない」 天城の小言など、どこ吹く風といった感じで恵比原が「悪い、悪い」と軽く受け流すうちに、二人の側に黒塗りの高級セダンが静かに止まった。 運転席からヌウッと現れた大国は、すぐに後部に回りドアを開けて促した。 億劫そうに乗り込もうとした恵比原が、不意に足を止めて天城に目をやった。 「なあ、あいつら、何困っとるんだ?」 「さあ、詳しいことは知りませんが、なんでも新社長と折り合いがつかないとか?」 溜息を吐いた恵比原は「なんだ、そんなことか」と独り言を言いながら、車に乗り込んだ。
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