チュン、チュンとスズメがさえずるよく晴れ上がったある日の朝、春とは名ばかりのまだ冬の気配がわずかに残る早春の頃。 東京都下のほどほどの都市感に、ほどほどの下町感が残る街に、シャッターを降ろして二〇年近く経つ古びた食堂があった。 その食堂の一室で四十がらみのおっさんがジャンバー姿のままだらしなくうつ伏せで寝ていた。その傍らには福々しい白猫が一匹、寄り添うように寝ていた。 「おい、起きろ! 起きんか!」 突然、しわ枯れた声に無理矢理起こされたおっさんこと福住 誠(四十二歳)は、うつ伏せた顔をやっとの思いで上げた。 (んっ? おじいちゃん……?) うつ伏せのまま顔を上げた福住の目の前に、貧相で小汚い翁姿の小人が右手に釣り竿を持って偉そうに立っていた。 (ああっ……。いかん。やっぱり飲み過ぎた。死んだお爺ちゃんにそっくりな小人の幻覚まで見るなんて……) それほどまでに、この身の丈がわずか十センチ足らずの貧相で小汚い小人は福住の亡き祖父と瓜二つだった。 福住は昨夜、酔い潰れるまで飲んだくれて普段着のまま寝入ってしまった。 そんな二日酔いで締まりのない顔をしている福住を、小人はキッと見据えて吠えた。 「ワシは福の神じゃ!」 (えっ? 何それ……?) 福住は一瞬、呆気に取られて目をしばたいたが、何かの悪い夢だと思い、また寝ることにした。 「いい加減にしろ! 今、何時だと思っとるんじゃ!」 この自称「福の神」の怒声と共に福住の頭に釣り竿が鋭く唸りを上げて振り下ろされた。 ヒュン! ビシッ! 「痛っ!」 鞭でしばかれたような強烈な痛さに飛び起きた福住は両手で頭を抱えて、今自分の身に何が起こっているのか分からず、目を白黒させて顔を左右に振るばかり。 酔い潰れた福住に寄り添って寝ていた真っ赤な首輪が映える福々しい白猫のミィーちゃんは、いきなり飛び起きた飼主に驚いて部屋の隅で身構えていた。 「どこを見ておるんじゃ! ここじゃ! ここ!」 声のする方に目をやると、畳の上で自称「福の神」と名乗る例の小人が、福住を見上げて睨み付けていた。 (なっ、なんだ、この小人は?) 福住が改めて目をしばたかせていると、まるで御伽噺に出てくるような翁姿の小人が眉を寄せて偉そうに、すぐ目の前の畳の上で立っていた。 しかし、その装束は元の色が判らないほど薄汚れている上に、所々ほつれている。頭に被っている風折烏帽子のようなものも、形がかなり崩れている。 無数の深いシワが刻まれたその顔は頬が落ち、薄汚れているせいか、顔色もあまり良くないように見えた。 体付きと言えば、枯れた木立のように痩せ、とても「福の神」という言葉からから掛離れた姿だった。 (貧相で小汚い……) 福住が思わず胸の裡でそう呟くのも無理はなかったが、次の瞬間、自称「福の神」は眉間に深いシワを寄せ、手にしていた釣竿を真一文字に素早く振り抜いた。 ヒュン! バシッ! 「ぐはっ!」 今度は横面を思いっ切り張られた福住は、崩れるようにその場に倒れ込んだ。 届くはずのない小さな釣竿で、どうして殴ることができるのか、福住は張られた頬に手を当てて身を崩したまま、目を丸くした。 「貧相で小汚いとは、失礼な奴じゃ! 神様をなんと思っておる!」 自称「福の神」は目を大きく見開いて、福住を一喝した。
福住と福々しい白猫のミィーちゃん、そして自称「福の神」は、以前「あけぼの食堂」と呼ばれた店の奥の部屋に居た。 東京のとある下町の川沿いにある「あけぼの食堂」は、福住の亡き祖父母が切り盛りしていた。 川を挟んだ向う岸には、大きな桜の木が食堂を見守るように、今も立っている。 祖父の幸造が出す料理は大衆食堂では、よく目にするものばかりであったが、それに一手間を加え、ただの家庭料理を誰もが唸る逸品に変えた。そんな料理を誰にでも手が届く、お手頃価格で提供する地元に愛された名店であった。 しかし、祖父・幸造が心不全で突然この世を去ると、祖母の寿賀子もその後を追うように亡くなり、食堂は閉じられた。 閉店から二十年近くも経つと、人々の記憶の中からも次第にその姿は薄まり、降ろされたシャッターには、サビが浮き上がるほど古びてしまった。 そして今、かつて名店と呼ばれた「あけぼの食堂」のなれの果ての奥の部屋で、居住まいを正した福住の目の前に、畳の上であぐら掻いた自称「福の神」の小言の嵐が吹き荒れていた。 「春とはいえ、まだ三月じゃ。夜は冷え込む。にも関わらず、冷酒あおって酔い潰れたあげく、薄汚れたジャンバー姿のままで寝入るとは……」 自称「福の神」は頭を振りながら深い溜息を吐くと、顔を上げてきつい目で見据えた。 「まったく、だらしがない! 朝の九時も回っておるのにピクリともしない。お前、今自分がどんな顔になっているのか、わかっておるのか?」 そう言って、自称「福の神」は張り倒した頬と反対の方を釣竿で指した。 言われるままに福住が手で頬を触ると、いつもとは違う感じに違和感を覚えた。 (あれ? なんだ、妙にザラ付いた感じがする……) 戸惑う福住を見て自称「福の神」は、また吐息を漏らした。 「畳の跡じゃ。畳の跡が付くほど、お前は惰眠を貪ったということじゃ」 自称「福の神」はそんな福住を睨み付けながら、さらに耳をつんざく爆音並みの小言を炸裂させた。 「四十も越えた男が、そんなことでどうする! 心の乱れは、即、生活態度に表れる。憶えておけ!」 そのミニサイズの身体から、どうやったらそんな大音量の声が出せるのか。軽く目眩を覚えるながら、福住は改めて居住まいを正し、恐る恐る訊ねた。 「あっ、あの、いいですか?」 「なんじゃ」と、小言が言い足りない自称「福の神」は眉を寄せたままだ。 「どうして、その小さな釣竿で殴れるんですか? 全然、届かないと思うんですが……」 「んっ? これか。小さく見えるが、まぁ、お前ら人の目では、こいつの本当の大きさなど測りようもない」 自称「福の神」はそう言うと、釣竿を軽く振りながら、涼しい顔で言い放った。 「まあ、ワシが本気で振れば、ひと一人消し飛ばすくらい、雑作も無いことじゃ」 (しゃ、しゃれにならない! とっ、とりあえず、この場は仲良くしておこう……) 強大な力を持った得体の知れないものと対峙しているような錯覚に執われた福住が思わずそう思うと、自称「福の神」はニンマリした。 「うん、その通り! 神様とは仲良くするものだ」 「えっ! どっ、どうしてわかったんですか! さっきも貧相で小汚いと思った途端、殴られましたが?」 何を言っているのかまったく理解できず、目をパチクリさせる福住に、自称「福の神」はアゴを上げて得意げに言った。 「神仏は人の心の声を聞くことができる」 「はぁ?」 これまた何を言っているのか理解できない福住に、やれやれといった顔で自称「福の神」は続けた。 「当り前じゃろ。人は誰も神仏の前では黙って手を合わせているが、毎日、毎日、入れ替わり立ち替わりやって来ては、胸の裡であれこれと頼みごとばかりを言う」 ここで自称「福の神」は「ふんっ」と鼻で一息吐くと、豪快に言い切った。 「これでは、嫌でも心の声が聞えるように、なってしまうわ!」 そして、改めて福住を見据えて、こう締め括った。 「福の神、なめんな!」 叫ぶと同時に釣竿の柄でドン!と強く畳に突いた。 (決まった! 今、ワシは最高にイケてるに違いない。これで奴も、ワシを福の神だと認めざるを得ないじゃろう) ドヤ顔の自称「福の神」に、ドン引きする福住は苦慮していた。 (どっ、どうしたらいいんだ。変なことを考えただけで、あの危険な竿が飛んでくるし……。かと言って、このまま居座られても……) 目の前で起こっている現実にどう対処していいのやら、答えを見出せない福住はオロオロするばかりだった。 福住の煮え切らない様子が、癇に障った自称「福の神」は「チッ!」と舌打ちすると、例の釣竿の先を福住に突き付けた。 「なんなら、もう一発お見舞いしようか? あんっ!」 とても神様とは思えない乱暴な物言いに、恐れを感じた福住はとりあえず「すみません」と頭を下げて、貧相で小汚い小人を「福の神」として認めることにした。 「やっと納得したようじゃな。ちなみに、ワシの姿はお前と、あの福々しい白猫にしか見えん」 満足気に話す自称「福の神」は、部屋の隅で身構えているミィーちゃんを指差した。 これを見た福住は瞬時にミィーちゃんとアイ・コンタクトを交わし、「ミィーちゃん!」と低く叫んだ。 確かに竿で引っ叩かれたが、そもそもこの自称「福の神」に実体があるのか? 竿で殴られたのも、ひょっとしたら寝ぼけてどこかにぶつけたのかもしれない。まずはそれを確かめなければならない。 飼主の意図をすぐに感じ取ったミィーちゃんは「ミャ!」と、短く鳴くと素早く、自称「福の神」の元に駆け寄った。 「んっ、ミィーちゃんというのか。あんな奴には、もったいないくらい福々しいのお」 目を細めてミィーちゃんを見上げる自称「福の神」に、ミィーちゃんは容赦のない猫パンチで張り倒した。 ブン! ボコッ! 「ゲボッ!」 まさかの一撃に面食らった自称「福の神」が思わず叫んだ。 「なっ、なにするんじゃ! いきなり殴るとは! 神様を何だと思っておる! 猫でも容赦せんぞ!」 猫に不覚を取ってしまったことが余程悔しいのか、自称「福の神」は泪目になりながら、ミィーちゃんに怒りをあらわにした。 そんなやり取りを福住が凝視していた。 その視線に気が付いた自称「福の神」は(はっ! やられた!)という顔を福住に向けて吠えた。 「猫を使って確かめるな!」 ここに至って福住はようやく、貧相で小汚い「福の神」の存在を認めた。
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