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作品名:疲れた男 作者:亀野あゆみ

第2回   2.しぼむ妄想
 ぬるい水たまりに浸かっているような不快な感覚で、目が覚めた。ネット検索と時計代わりにしか使わないスマホは、午後9時を示していた。5時間近く眠り込んでいたのか・・・

 墓参りに着ていったままのポロシャツもチノパンも、絞ったら汗がしたたりそうで、イグサのマットの表面にも汗の膜が張っていそうだった。自分の汗の匂いと締め切った部屋の湿ったカビくさい匂いが混じって、汚物溜めに落ちたような感じがした。

 しかし、それは、葛西にとって、決して、不快ではなかった。むしろ、とめどなく堕ちていく快感があった。

 しかも、山中葵との再会と身体の表面のネトネトベチャベチャした感触があいまって、葛西の中に、数ヶ月ぶりに、性的な妄想が湧いてきた。
 妄想の対象は、もちろん、山科葵だったが、きりりと男性的で精悍、かつ、サバサバした葵と「事に及ぶ」イメージが、葛西の中で、どうしても形にならなかった。

まぁ、所詮、妄想だから、具体的な対象人物が必要なわけではない。なんとなくモヤッとセクシーな女性をイメージして、妄想を膨らませようとする。

 ところが、セクシーな女性のイメージより、下腹の突き出た還暦近いオヤジの姿がクッキリと目に浮かんできてしまう。娘から「文化祭には来て欲しいけど、お友達に紹介するのはパスね」と言われた、この見苦しく肥えた、己の姿。この体型だと、おのずと体位も限られ・・・と想像すると、その見苦しさ・おぞましさに、胸にこみあげてくるものがある。

 マイナスの連想は、マイナスの連想を呼び起こす。俺は、前歯が部分入れ歯だ。「事に及ぶ」行為の中には、口をふんだんに使う要素もあって、というか、もう若くはない自分は、それが主体となるわけで、そうすると、口が臭くなることが予想され、部分入れ歯をそのまま朝まで放置すると、とんでもない口臭が懸念され、「おはよう」の挨拶ができない。それを防ぐためには、「事」が終わった後に、部分入れ歯を外して、入れ歯洗浄剤に漬けなければならない。

 しかし、どこで、それをやる?洗面台か?ありえない。相手の女性の目に触れてしまう。洗面台の下に収納スペースがあれば、そこか?うん、それだ、そこしかない。その場合、朝、確実に、女性より先に起きて、入れ歯をはめてから、「おはよう」と言わねばならない。目覚ましをかけるか?それは、おかしくないか?

 いやいや、ラブホなら、「事」が終わったら、すぐに別れるから、その心配はない。ところが、葛西は、ラブホが嫌いだ。少年のころ、自慰にふけるところを親に見られないために、普段はかけない自室のカギをかけたのに似た、あの「コソコソ感」に、なにか、屈辱的なものを感じるのだ。

 等々と、もっぱら下腹のでっぱりと部分入れ歯を気にしている葛西だが、一番肝心なことを、全然、考えていない。そもそも、普通のホテルに女性と宿泊する金はおろか、ラブホを利用する金すら、葛西には、ないのだ。それ以前に、女性と食事を楽しめるかどうかすら、怪しい。どうも、人間というのは、自分に一番都合の悪いことは考えない生き物らしい。

 しかし、最大のハンディである金のことを考えるまでもなく、下腹と部分入れ歯とラブホへの忌避感だけで、葛西の妄想をしぼませるには十分だったと見え、葛西は、「はぁ」とため息をついて転がると、たちまち、寝入ってしまった。


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