3 天野翔太(1)
「いい? 九時にはちゃんと寝るのよ!」 母はいつもそう言って、夕方からの仕事に出掛けていった。 そんなのは、中学に入った頃まで続いていたと思う。しかし中学に通い始めて数ヶ月して、母が勤め先で倒れたと学校にいる涼太に連絡が入る。 それからたった三ヶ月で、母、天野由美子は帰らぬ人となっていた。 小さい頃はきっと、できるだけ一緒に居てくれようとしていたのだろう。朝起きるといなくなっていて、それでもお昼は一緒に食べていた記憶があった。それからまた夕方まで仕事に出掛けて、夜はずっと一緒に居てくれた。 ところが小学校に入学すると変化する。 朝から仕事に出掛け、夕方一度は帰ってくるが、夕飯の準備だけしてまたすぐ出掛けしまう。帰ってくるのは夜も更けてからだから、慣れるまでずいぶん寂しい思いをしたものだった。 ちょうどその頃なのだ。自分の家が貧乏だって事実を否が応にも知らされる。 「あいつんちって貧乏だからさ、あいつのランドセルも、俺のにいちゃんのおさがりなんだぜ」 まるで知らない話だったが、きっと本当のことなんだろう。 今から思えば、どうして使い古したランドセルなのかと、きっと感じていたとは思うのだ。 ただとにかく、そんな言葉がきっかけとなり、初めて貧乏だってことを意識する。 真冬にだってストーブはなし。扇風機だけは辛うじてあったが、しょっちゅう動かなくなったりする代物だ。友達のように一軒家じゃなく、どう考えても広いとは言えない安アパートだから、 ――うちって、貧乏なんだ……。 などと、小学校の一年生で嫌っていうほど知ってしまった。 そうしてさらに同じ頃、ずっと疑問に思っていたことを一度だけ、彼は尋ねたことがあったのだった。 ――どうしてうちには、父親がいないのか? すると普段は優しい母親が、なんともぶっきらぼうに教えてくれる。 「あんたが三つの時に、いなくなっちゃったのよ」 そんなふうに言われて納得できるほど、その頃の彼は大人じゃなかった。 どうしてだ? どうしてなのか……と繰り返し、終いには母親に縋り付いて大泣きしてしまうのだ。 そうして告げられた言葉は驚くほどに強烈で、涼太はそれから二度と、父親について口にしていない。 「どうしようもないクズだったの! だから! いない方がよかったのよ!」 ――いい? わかった!! そう告げている厳しい眼(まなこ)が、翔太の顔をこれでもかってくらいに睨み付けた。 大正九年生まれの天野由美子は、その頃すでに五十三歳。そこそこの高齢出産だったろうし、そのせいなのか、母親に怒られた覚えはこの時くらいのものだった。 何かがあって母一人子一人となり、当然のように貧乏だったが、それで不幸せだなんて思ったこともない。それだけ母、由美子の存在は大きかったし、今から思えばいくら感謝したってし足りないくらいだ。 そんな母も癌に倒れ、あっという間に他界する。 母には親族がいなかったのか? そんなことを知る間もないまま、彼は母の死後すぐにアパートを出た。母の持っていた母子手帳と二冊のアルバム、そしてほんの少しの身の回りのものだけ持って養護施設に入所した。
それは昭和四十五年、暑い夏の日のことだった。 「彼は天野翔太くん、中学の一年生だ。みんな、仲良くしてやってくれよ!」 職員の声に、小さな子供たちが一斉に拍手で答える。 ちょっと見る限り、高校生くらいって思える男女も何人かいるようだった。 しかし翔太が気になったのは、同じくらいの年齢に思える三人組。食堂の一番後ろに陣取って、三人ともが腕組みしながら翔太に向けて鋭い視線を送っている。 もちろん理由はわからない。その頃すでに、一メートル七十センチ近かったから、単にそんな姿が気に障ったか……? それから入所している一人一人が席を立ち、自分の姓名や年齢などを翔太に教えてくれるのだ。例の輩は荒井良裕、金子浩志、福田一浩という三人組で、やはり同じ学校に通うことになる中学二年と三年生。 そしてそんな三人は、翔太にとってどうにも厄介な存在となる。 その日、初めてとなる夕食の時だ。三人組の一人、福田一浩がいきなり難癖を付けてきた。夕食を手にして席に着こうとした時だった 「ドン!」といきなり、翔太の背中に衝撃があった。持っていたトレーが大きく揺れて、夕食の食器が四方八方へ飛び散った。なんとも騒々しい音が響き渡って、当然すぐに施設の職員がやってくる。 それからすぐに「どうしたんだ?」と聞かれ、彼は静かに告げたのだった。 「すみません。なんでもないです……ちょっと足がふらついて」 そう言いながら、散らばったものを両手でトレーに戻し始める。 衝撃があってすぐ、翔太の耳には届いていたのだ。 「見下ろしてんじゃねえよ。ノッポやろうが……」 それですぐにピンときた。 三人の中で一番背の低い――きっと一メートル五十センチもないだろう――やつがすぐそばにきて、ボソッと何かを言ってきたから、なんだと思って目を向けた。 「挨拶がねえぞ……」 きっとその前は、翔太をノッポ≠ニ呼んだのだ。 それでも翔太は笑顔を見せて、顎をちょこっと引いて見せる。 たったそれだけのことだった。 それでも確かに、見下ろしたってことにはなるだろう。 すでに三人は席に着いて、妙に神妙な顔付きでいる。食事もまったく手付かずで、見ようによっては、「いつでも来い!」って感じに見えるだろう。 だから慌てて視線を逸らし、職員と一緒に後片付けに集中する。それから新しい食事を取りにいき、彼が再び席に着こうとした時だった。 「さっきは悪かったな。黙ってた礼に、これ、やるからよ……」 背後から腕が伸びてきて、その手のひらには小さなプリンが乗っていた。 振り返ってみれば福田ではなくて、ガタイの大きい金子浩志がニヤついた顔して立っている。それから彼のトレーにプリンを置いて、さっさと仲間のところに帰っていった。 結果、翔太のトレーにはプリンが二つだ。 ――あいつが、自分の分をくれたのか? そう思いながら周りを眺めて、すぐに違うってことに気が付いた。 食堂の空気が微妙におかしい。厨房へ行っている間に何かが起きて、さっきまでのざわついた感じが消え失せた……とすれば、その何かとは……? 翔太はその場で立ち上がり、三人組の方へ視線を向ける。 やはり金子のトレーにはプリンはあって、もちろん他の二人も同様だ。 ところが金子のすぐ後ろ、背を向け合っている子供の異変に気が付いた。 小学校の低学年くらいだろう。そんな小さな男の子が両手を膝の上に置き、食事にも手を付けずにジッと下を向いている。 ――泣いてる、のか? そう思った途端、彼はトレーにあるプリンを手に取った。そのまま男の子の席まで持っていき、彼のトレーにストンとプリンを置いたのだ。 その途端、男の子が翔太を見上げる。 ――なんで? まさに困惑する顔がそこにあり、そんな気持ちは充分過ぎるほど理解できた。 だから翔太は大きな声で、あえて言葉にしようと思うのだった。 「俺さ、プリン嫌いなんだよ。もしなんならさ、もう一個あるけど、そっちも食べる?」 そう声にした途端、男の子は大慌てで首を左右に何度も振った。それから目だけを動かして、金子の様子を窺うような仕草を見せる。 こんな反応を見る限り、この施設でのあの三人組はそれなりの力があるのだろう。となればこんな行為の先にはきっと、翔太にとって良くない何かが待ち受けている。 そんな予想が当たったことを、彼はその数時間後に知ることになった。 その夜、施設初日だったせいかとにかく眠くて仕方がない。だから就寝時刻には少しあったが、翔太はさっさと二段ベッドに潜り込んだ。 一つ年下の少年が同室で、食堂でテレビでも観てるのか? 風呂から上がった時には部屋にいない。だからいずれ、戻った物音で起こされるに違いなかった。 基本寝付きは良くないし、ちょっとした物音で目が覚めて、そうなったらなかなか寝付けない。 ところがこの日はそうじゃなかった。 初めてベッドで寝るってのに、この日に限ってあっという間に眠りに落ちた。 そうしてどのくらいが経ったのか? ふと……目が覚めて、部屋の明かりが消えているのに気が付いた。同室の少年が戻ったのだろうと、翔太は再び目を閉じたのだ。 その時一気に彼は知る。 ――何かいる!! 身体のあちこちに違和感を感じて、翔太は慌ててベッドから飛び降りた。 それからタオルケットを跳ね除けて、違和感の正体を目にした途端、いきなり全身に痒みが襲う。 ベッドにたくさんの虫がいた。 バッタやコオロギなんかはすぐわかったが、他にも知らない虫がウジャウジャだ。たくさんの蟻が身体中にへばり付き、それらを取り除くのに彼は再び風呂場に向かった。 それからも、三人組の行為は続いた。 夕食時に、いつもならいる筈の職員がいない。 見れば荒井良裕の姿もなくて、その代わりに翔太のトレーの上には生ゴミだ。それは昼食時に出た残飯で、なんとも言えない異臭を放っているものだった。 荒井が職員に声を掛け、どこかへ連れ出している間に残りの二人がやったのだ。 普段から、手を出すのは荒井以外の二人ばかりで、荒井本人はその場にいないことも多かった。 中学三年生で成績は優秀。施設の職員にも優等生だと思われているが、頭が切れる分悪質で、三人の中では圧倒的にリーダー的な存在だった。 とにかく何かといえば腹ばかり殴られ、足を引っ掛けられて転んでも、翔太はただただ黙って耐えた。歯向かったところで逆効果だろうし、大騒ぎになるより耐える方が彼にとっては楽だったのだ。 ところが同じような乱暴が他の子供に向けられたりすると、翔太の態度は一気に変わった。 三人組の行為を止めに入り、それで自分が殴られようとも諦めようとはしなかった。 日に日に彼の人望は高まって、そんなのも三人組には面白い筈がない。そして翔太が施設に移って、三ヶ月くらいが経った頃だ。
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