2 平成三十年(3)
事故があってこうなったんだから、もう一度、同じように事故に遭いさえすればきっと戻れる。達哉の出した結論はこうで、これがダメだったら――などと考えたところで始まらないのだ。 あの日、八雲の家から走ったから、事故に遭ったのは都立大学駅と自由が丘の中間辺りだ。 ところが天野翔太のアパートは東京の外れにあって、駅周りの発展から取り残されたような多摩川沿いの住宅街にある。 いくら未来だって、三千円あればタクシーでだって足りるだろうが、それでも彼は大事をとって電車に乗ろうと駅に向かった。 そこで目にした光景こそが、まさに初めて目にする未来の姿だ。 彼は何度も息を呑み、目を点にして驚きまくった。 ――凄え……。 なんて言葉が口から漏れて、駅周りに広がる光景すべてに目を奪われる。 ――ここが、二子玉川園≠ゥよ!? 何度か来たことのある東急線の駅が、まるで別物になっていた。 デカさがまったく比較にならず、視界に収まりきらないビルがいくつも並び、連なっている。 さらに改札口までやってきて、駅名までが変わっているのに気が付いた。 ――二子玉川≠チて、まさか、遊園地がなくなったってこと……なのか? 本当に、自分は未来に来てしまった。 そんな事実を「これでもか!」ってくらいに突き付けられて、達哉の心は情けないほど縮こまってしまうのだ。 達哉の時代にだって券売機は自動だったし、自動改札機もあるにはあった。電車ももちろん石炭じゃない。ドアだってちゃんと自動で開閉してた。 あの頃ちょうど新玉川線が開通したばかりで、ステンレス製の車両も記憶の中にちゃんとある。 ところが何から何までぜんぜん違った。 形やら色やらまるで別物……とにかくなんともカッコイイのだ。 ――俺の時代なんて、ダサダサじゃん! 時刻はかなり早かったから、通勤ラッシュには程遠い。それでもたくさんの会社員らが乗っていて、皆一応に手にある何かを見つめているのだ。 それがスマホ≠チてやつだと気付くのに、時間はそんなに掛からなかった。 「ああ、これも忘れちゃったんですか? スマホですよ、スマホ!」 吉崎がそう言って、笑いながらもいろいろ説明してくれた。 きっと新聞を読んだりニュースを見たり、中には映画の鑑賞中だって乗客もいるのかも知れない。 ――あんなにちっちゃなもんで、何から何まで、出来ちまうんだ……。 凄い時代になっている――そんなふうに考えて、達哉のテンションはほんの少しだけ上向いた。そうしてあれやこれやと驚きながら、それでも迷うことなく、あのT字路≠ノ到着する。 先ずは突き当たる道に顔だけ出して、左から来る車との距離をしっかり確認。それから少し後戻りして、タイミングを見計らい、T字路に向かって走って突っ込む。 何度も何度も考えたのだ。 ――死んじゃうってこと、ないだろうな……? そうなる危険は確かにあった。 こんなことになった理由も知らず、なんの確証もありゃしないのだから。 それでもすぐに、彼はアパートの天井を見つめながらに思うのだった。 ――だったとしても、このままじゃ、藤木達哉は死んだも同然……。 などと思い直して、達哉はここまでやって来た。 ところが実際やろうとすると、タイミングがなかなか合わない。 走り込む寸前、クルマが目の前を走り去ったり、走り込んでも車と距離がまだあって、思いっきりクラクションを鳴らされてしまったりだ。 彼は慌てて飛び退いて、その都度脳裏に蘇るのだ。
その瞬間、まるで爆音のような音が響き渡った。 「え?」と思って反対を向くと、すぐ目の前にまで大きなダンプが迫っている。 ――ああ、クラクションだったんだ 妙に冷静にそう思え、そんなのと同時にブレーキ音が耳に届いた。
――やっぱり、俺はあの時、死んだんじゃなかろうか? だから元の時代に戻れたとしても、彼の意識は目覚めないまま……墓石の下に眠ることになる。 そんな悪夢への恐れも然ることながら、クルマへ突進する恐怖自体が、次第に彼の心を覆い尽くした。 やがて立っているのも辛くなって、彼は地べたに座り込んでしまうのだ。 ――なんでこんなジジイなんだよ! 勘弁、してくれよ……。 それでも生きているだけマシなのか? 心の声が頭のあちこちで響き渡って、達哉は思わず頭抱えて大声を出した。 「クソッ! どうすりゃいいんだよ!」 その時、肩に何かが触れた気がした。 さらに二、三秒してもう一度、今度は肩をしっかり叩かれる。 トントンと叩く音まで耳に届いて、彼は思わず声にしながら顔を上げた。 「なんなんだよ!」 ――気軽に叩いてんじゃねえって! 思わずそこまで声にしかけて、慌てて息を吸い込んだのだ。 「どうか、しましたか?」 目の前にいたのは制服姿の警官だった。 「この辺りで、見慣れない方がね、ウロウロしているって通報があったんですよ」 少し離れたところにパトカーまでが停まっていて、運転席には丸々太った警察官がジッとこちらを見つめている。 「えっと、どうしようかな……あなた、身分証とか、持ってます?」 ここで一気に事態の危うさに気が付いた。 まさかクルマに突っ込むつもりだなんて言えないし、だから咄嗟に頭に浮かんだままを声にした。 「ああ、すみません。この辺で、落とし物をしたもので……」 「ほう、落とし物ですか? 何を、落とされたんです?」 「いや、大したものじゃ、ないんで……」 走って逃げるか? しかし以前の彼ならいざ知らず、どう考えたって今の身体では逃げきれない。だからある意味正直に、若い警察官に向かって告げたのだった。 「気が付いたら、ここにいたんです……実は記憶が、なくなっていて……」 「ほう、落とし物ってのは、記憶ですか? そりゃ、困りましたね〜」 まるで信じちゃいないのだろう。 妙に口角が吊り上がり、見事に人を小馬鹿にしたような顔付きだ。 確かに見た目は年寄りで、六十一年って人生を生きればそこそこ分別も付くだろう。 ところが中身はそうじゃない。何かって言えばムカついて、もっとも分別とはかけ離れている青春時代の真っ只中だ。 「なに笑ってんだよ!」 心に思った瞬間だった。 「こっちはな、マジ困ってんだよ!」 あっという間に声に出て、途端に警察官の顔が変化する。 口角が一気に下がり、目付きが突き刺すように鋭くなった。それがスッとパトカーを向いて、そんなのに合わせるように太った方が姿を見せる。 ――まずい! と思った時には動き出していた。 勢いよく立ち上がり、両手で思いっきり目の前の警官を突き飛ばす。そのままT字路に向かって走り出し、 ――どこでもいい! どこかの家に入るんだ! そうして塀の裏っ側にでも身を潜めてやり過ごそうと、達哉は心で必死に思った。 「こら! 待て!」 そんな声を聞きながら、彼は突き当たり右に曲がろうとする。 重心を右に少し傾け、そのまま一気に駆け抜けようとした時だった。 不思議なくらい唐突に、右の脚から力が抜けた。まるで「カクッ」と音がしたように、右膝が地面に向かって落ちていく。 「あっ」と思って、両手を出した筈だった。 ところが両手が着くより前に、頭が先に地面に激突。 頭や顔に激痛が走って、それでも意識はまだあった。 それからバタバタという足音が聞こえ、ああ、捕まっちゃうのか――などと思ったところで、パッと痛みが消え去った。
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