2 平成三十年(2)
それから、何時間が経ったのか? 知らぬ間に寝てしまっていたらしく、激しい胃の痛みによって目が覚める。 それからもしや≠ニ思って、慌てて己の顔を弄った。しかし期待は裏切られ、未だ横たわっている現実に彼は再びショックを受ける。 胃の痛みの方はしばらくすると治まって、すると今度は腹がクークー鳴り出した。どうしようもなく落ち込んでいたが、それでもしっかり腹は減るらしい。 少なくとも部屋は暗くなっていて、窓からの景色も同様だ。 思えば、朝から何も食べていない。 加えて恐ろしいまでのストレスに、老人の胃袋はきっと悲鳴を上げたのだ。 ――何か、ないかな……? あまりに小さな冷蔵庫に目をやって、彼が立ち上がろうとした時だった。 玄関からノックが聞こえ、続いて男の声が耳に届いた。 「翔さん、俺です、吉崎です」 一瞬、どうしようかと思ったが、すぐに記憶にあった言葉が蘇る。 ――翔太さん、吉崎です! 大丈夫ですか? 今朝方、男はそう告げて、また電話するからと言っていた。 「入りますよ、いいですか?」 そんな声が聞こえた時には、古ぼけた扉がギギーと音を立てている。 「やっぱり、具合悪いんですね!?」 せんべい布団にいる彼を見るなり、男は辛そうな顔でそんなことを言ってきた。 この日、達哉が初めてあった男は吉崎涼、三十七歳。 天野翔太の所属する会社の上役で、天野翔太となってしまった達哉のことを何かと心配してくれる。 「俺の今があるのは、翔太さんのお陰っすから! だからなんでも言ってください! 俺はなんでも、何があっても、翔太さんの味方ですよ!」 などと言ってくれる彼によってこれ以降、どれだけ助けられたか知れないのだった。 ただこの時は、彼が誰なのかもわからない。 だから懸命なるウソを吐いた。 昨晩、酒に酔っ払って頭を強く打ってしまった。それから記憶が曖昧で、なんでもないことが思い出せなくて困っているそんな達哉の大嘘を信じ込み、 「絶対、医者に行った方がいいですよ!」 真剣な顔でそう言う彼へ、達哉は数日くらい様子を見たい……それでダメだったら医者に行くからと返し、 「それより、俺のことを教えてくれないか? キミが、知ってることを……」 できれば知り合った頃のことからと、頭を下げつつ頼み込んだ。 「俺も、翔太さんと知り合って、たった三年ですから、なんでも知ってるってわけじゃないけど、それで、よければ……」 二人の出会いは出先の現場で、吉崎涼は吉崎工業社長の息子だ。 建築とは無関係の会社で働いていた彼は、父親の病気によって呼び戻される。 「三年の実務経験さえ終わらせれば、チャチャっと主任技術者にもなれるし、そうすりゃ現場監督なんて楽勝だって、俺、あの頃、マジでそう思ってたんですよ……」 ところが現場で働く作業員と、彼はまったく以って上手くいかない。 「実際、見下してましたもん……どうせ馬鹿ばっかだって、みんなのこと……」 そんな気持ちは、あっという間に現場全体に知れ渡ってしまう。 さらに偉そうな態度とは裏腹に、吉崎の指示、行動には的外れなことが多々あった。作業員からの指摘にも、素直に認めるどころか「勝手にしろ」という態度。 そうして当然、彼の言うことなど誰もがちゃんと聞かなくなって、工事はどんどん遅れていくのだ。 「そんな時に、翔太さんに俺、助けてもらったんです」 翔太は作業員一人一人を説得して回り、もちろん吉崎涼へも叱咤した。 「翔太さんって、背は高いけどガリガリでしょ? 俺、学生時代ボクシングやってたからさ、チョロいもんだって思っちゃって……」 結果、吉崎涼は一発のパンチも浴びせられない。 「俺、慌てちゃってさ、近くにあったスコップを振り上げたんだ。そしたらさ、いきなり翔太さんの一発でダウンですよ。で、気が付いたら親父がそばに立ってて、翔太さんから電話があったって、俺のせいで、翔太さんが辞めちまうって言いやがる。だから、どうしてだよって聞いたら、社長の息子をぶん殴って、それでも働いてたら、みんなにも示し≠ェ付かないだろうって、翔太さんがさ、そう言ったって……まったく、実際、クソって思ったよ。でもさ、完全に……俺の負け、ですよね」 吉崎涼は翔太のアパートまでやってきて、頭を下げて頼み込んだ。 「もちろん、俺の気持ちもあったけど、まあ、みんながさ、怒っちゃって、翔太さんを辞めさせるんなら、みんなも辞めるって、親父のところに怒鳴り込んできて、大騒ぎだったんですよ」 そんなことから少しずつ、吉崎涼も作業員らと打ち解けて、特に翔太とは、驚くくらいに仲良くなった。 「でも、こんなことも、ぜんぜん覚えてないんですか?」 そんなことを言いながら、吉崎は妙に嬉しそうな顔をする。 しかしこんなにガリガリで、ボクシング経験者を一発で気絶させた……なんとも驚くような話だが、この男はいったい、どんな人生を送ってきたのか? 「俺って、どんな人生を、送ってきたんだろうか?」 「そう、なんですよね……翔太さん、うちに勤める前のこと、ぜんぜん話してくれないからな、よくね、みんなと話すんですよ。きっと、何人か殺してるんじゃないかって」 それできっと、三年前くらいまでムショ&驍轤オだった。 「まあ、それは冗談ですけどね。でもホント、不思議っすよ。翔太さん頭いいし、すっげえ人間としても素晴らしいのに、どうしてこんな……あ、まあ、そう新しくないアパートにさ、いい歳こいて、ねえ……」 いい歳こいて、こんなボロアパートに一人暮らし。 きっとこうなった理由はしっかり存在するのだろうし、それは人に話したくないような過去なのかも知れない。 ただとにかく、彼のお陰でとりあえず≠フことは知ることができた。 「明日、またクルマで来ますから。もし行けるようなら、現場まで一緒に行きましょう」 そう言ってくれた吉崎だったが、もちろん仕事に行く気などさらさらなかった。 だからその翌日、彼が現れるよりぜんぜん前に、シャツとジーンズに着替えてアパートを出た。
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