第1章 〜 2 平成三十年
何度見直しても、鏡に映るのは老人の顔。 十七歳だった自分は消え去って、いきなり六十一歳になってしまった。 トイレの鏡でそんなのを知り、彼はあまりの恐怖に動くことさえできなかった。涙がどんどん溢れ出て、いつの間にか声を張り上げて泣いていた。 天野翔太。そんな名前に聞き覚えはないし、室内を探しまくって出てくるものは見事に知らないものばかり。 そんな中、特に驚いたのは、財布に入っていた妙に小さな保険証らしいカードだった。 ――保険証って、こんなに小さなもんだったっけ? なんて思いながらよくよく見つめて、彼は腰を抜かさんばかりに驚いたのだ。 有効期限 平成30年 7月31日……。 有効期限ってのは、その日までは使える≠チてことだ。 となれば、その次にある日付がまったく以って意味不明。 平成30年≠チてあるんだから、昭和≠フ次の年号ってことか? 少なくとも、その前ってことは絶対ない。いくら勉強ができなくたって、昭和の前が大正≠ナ、さらにその前が明治≠セってことくらいは達哉だって知っている。 ――いつの間に、昭和じゃなくなったんだ? それにしてもだ……三十年ってことはどういうことか? そう思った途端、保険証にあった生年月日が目に入る。 昭和32年5月6日……。 そして社員証には六十一歳となっていた。 彼の生まれは昭和三十五年だから、 ――俺より三つ年上だ。なら、本当の俺は今頃、五十八歳ってことか!? つまりこの世界は、達哉だった頃から四十一年後だってことになる。そのうちの三十年が平成≠ニなれば、彼が十七歳だった頃から十一年後に昭和が終わって…… ――平成ってやつに、変わったってことか……? なのに、天野翔太としての記憶はまるでなかった。 そんな四十一年間の記憶はなくて、あるのは藤木達哉の記憶だけ。 そうして、達哉の出した結論は、 ――家を飛び出したあの時、きっとダンプに轢かれたんだ……。 それで天国に向かう筈が、なんの悪戯なのか……まったくの他人として生き返ってしまったか!? もしかしたら今も病院に居て、この世界は自分の見ている夢だったりするのか? ただとにかく、轟音のようなクラクションと急ブレーキの音は、今でも耳に、妙に鮮明に残っている。 ――だからって、どうしてこんなのっぽのジジイなんだよ!! 二メートルとまではいかないまでも、達哉より頭ひとつ分は背が高い。 それでいて痩せているから、まさに枯れ木≠フように骨と皮だけって印象だ。 見知らぬ会社の契約社員で、六十一歳だってのに、オンボロアパートに住むくらいだから、少なくとも順風満帆って人生じゃなかっただろう。 財布には三千円しか入っていないし、部屋にだってロクなものが置かれちゃいない。 プラスチック製の衣装ケースに、折り畳み式の小さなテーブルなんて、まるで貧乏学生の持ち物みたいだ。 それでもやっぱり、ここは四十一年後なんだといやがうえにも%ヒき付けられた。 さっきの電話らしい小さいやつも驚きだったが、それはそんなの以上に信じられないものだった。 リモコンみたいな機器をいじった途端、画面がぱっと明るくなって、いきなり番組が映り出した。 ――すげ! これってカラーテレビなんだ! 達哉の知ってるテレビって言えば、絶対的に分厚いものだ。 奥行きが小さいものでも何十センチはあるし、チャンネルのつまみやらスピーカー部分が全面にあるから、実際の画面は器ほどにはなんだかんだ≠ナ大きくならない。 それがこの部屋にあるやつは、画面自体がほとんどテレビの大きさだ。それも21インチは優にあるのに、手でつかめる程度の厚みしかない。 そしてあの頃も、テレビ放送はほとんどカラーになっていた。しかしこの時代のものとは何から何まで別物だ。 ――結局、俺が見てたのは、ぼんやり色が付いていたって、とこだよな……。 そんなふうに思うくらいに色鮮やかに鮮明で、まるで実際、そこに人がいるかのように見えるのだった。 それから達哉は意を決し、表の世界を見てみようと思う。部屋にあったジーンズを履いて、ランニングシャツのままアパートの外へ出ていった。 あの頃、もちろんコンクリートの家だってあったし、アメリカ映画に出てくるような洒落た建物だって少しはあった。 しかしだいたいは木造の茶色い家で、屋根は圧倒的に瓦作りだ。 ところが驚くくらいに景色が違った。家々の違いも然ることながら、なんといってもコンクリートが多すぎる。 大きなマンションだけじゃなく、道路も電信柱もコンクリートばかり。土剥き出しの道なんて、いったいどこにあるのかっていう印象なのだ。 そんな中、少し行ったところに小さな公園を発見する。 ――まさか、機械仕掛けのブランコが、あったりするのか? あまりに色鮮やかなジャングルジムがはっきり見えて、これも見慣れたものとはぜんぜん違った。それでもまさか、地面がコンクリートってことはないだろうと、彼はそのまま公園入り口に立ったのだ。 するとやっぱり地面は土で、ブランコも派手な塗装以外は普通と変わりないようだ。 そんな公園の中央で、小さな男の子がたった一人でサッカーボールを蹴っている。きっと小学校に上がったばかりくらいだろう。それ以外は人っ子一人見当たらない。 もしも今日が平日ならば、子供が遊んでなくたって不思議はない。 太陽もそう高くはないし、少なくとも昼を過ぎたってことはない筈だ。 ――今日は、何曜日なんだろう? そう考えるままに、彼は男の子の方へ歩いていった。 満面の笑みを浮かべて、何曜日なのって聞いてみる――と、思っていたのだが、事はそう単純ではなかったらしい。 達哉に気付いた途端、男の子がボールを追うのをいきなりやめた。 それからジッとこちらを向いている。 だから良かれと思って、彼は歩く速度を早めたのだ。 待たせちゃ悪い――単純にそんなことを考えて、小走りですぐそばまで近付いた。それから「ヨッ!」という感じで手を振り上げて、さっきの質問を思い浮かべた時だった。 男の子の視線が宙を彷徨い、顔がいきなりクシャクシャになった。 「えっ」と思った次の瞬間、「ママーママー」と声を限りに叫び始める。 彼は慌てて駆け寄って、今にも泣き出しそうな子供の前にしゃがみ込んだ。 「どうしたの? どっか痛い?」 そう声にして、男の子の頭にいい子いい子≠しようとしたのだ。 するとその時、いきなり誰かが視界の中に飛び込んでくる。 差し出したその手が振り払われて、あっという間に誰かが男の子を抱き上げた。そのまま数メートルくらい彼から離れ、そこでやっとその人物は顔を達哉に向けた。 その顔は明らかに恐怖に怯え、達哉を睨み付けながらひと言だけ声にする。それから子供を力一杯抱き締めたまま、公園入り口へと一目散に駆け出した。 彼はポツンと残されたボールを見つめ、告げられた言葉を心に何度も思うのだ。 ――うちの子に、触らないでください。 どこかで見ていた母親が、我が子が誘拐されるとでも思ったか? ――うちの子に、触らないでください。 それとも、浮浪者か何かと決めつけて、病原菌でも感染ると怖がったのか? どっちであろうとだ。 ――そりゃ、そうだよな……。 素足にサンダルで、妙にダボダボのくたびれ切ったジーンズに、まさに下着って感じの伸びきったランニングシャツ姿。そんなのだけだって「えっ」って感じだろうに、彼はガリガリの老人で、異様に身長だけがばか高い≠フだ。 あれだけショックだった筈なのに……、 ――くそっ! 男の子に近付いた時にはそんな姿のことなど忘れ去っていた。 きっと十七歳の達哉であれば、あの子もあそこまで怖がらないだろうし、母親だってあんな言い方しなかった筈だ。 ――くそっ! くそっ! くそっ! 腹が立って仕方がなかった。 ――こんなことなら、事故で死んだ方がマシだったじゃないか!? そんなことばかり考えながら、彼はアパートへの道をわき目も振らずに歩き続ける。 そして部屋に入った途端、涙が溢れ出て止まらなくなった。 ――どうしてなんだ!? どうして、こんなことに、なったんだ!? 希望が微塵も見出せず、息する意味さえ疑わしい。 「誰か、教えてくれ……頼む! 頼むから……」 誰に言うでもなくそう声にして、彼はせんべい布団に突っ伏し、泣いた。
|
|