3 偶然
還暦をあと二年に控えて、安藤は突然、組織に退官の意を申し出た。 あと四年はこのまま働くこともできたが、連れ合いを癌で亡くし、同じ生活を続けていく自信を喪失。そうして退官後、なぜか教習所に通い始めて二種免許を取得する。それから亡き妻の好きだった信州の山奥に引っ込んだのだ。 庭の広い一軒家を借りて、本当の意味での自由気ままな生活だ。 一年くらいが経った頃、彼は取得した免許でタクシー会社に就職し、週に三日間だけ働き始める。そしてちょうどその頃、彼は偶然、ある光景を目撃する事になっていた。 非番だった彼は、朝早くから山歩きをしようと家を出た。舗装された坂道を上がって行って、まもなく登山道入り口が見えるだろうという頃だった。 ――あれ? 前方に、見慣れぬ車が停まっている。 なんとも珍しいその光景に、彼は足を止め、暫しその様子を窺った。 政府の要人が乗り込むような黒塗りの大型外車だ。リアウインドウが真っ黒なので、乗っている姿はまったく見えない。 ただとにかく、ハイキングのために乗りつけるような車じゃ絶対ないし、 ――あの辺りは、登山道よりずいぶん手前だ……。 となれば、いったいあそこで何をしているのか? ――まさか、事故!? そんなことを考えながら、彼は再び車に向かって歩みを進めた。 あと二十メートルほどに近づいた時、突然、車より更に前方から、いきなり男の姿が現れ出るのだ。 きっと登山道から飛び出て来たのだろう……上背のある男は転がり落ちるように道路に現れ、その勢いのまま車に向かってダッシュを見せた。 すると後部座席のドアがゆっくり開き、別の男が姿を見せる。 その時、いきなりその名が聞こえて来たのだ。 「林田さん!」 それは助けを求める叫びのようで、まさしく車から出てきた男に向けてだ。 車の男の方は年齢など不明だが、走って来た方は二十代中盤くらいか……その格好からして、マトモな生き方をしているようには思えない。 そしてその姿を目にした途端、安藤の脳裏に前夜の記憶が蘇るのだ。 それはそろそろ店じまいしようかって頃で、その格好からしていい感じがしなかった。 だから安藤にしては珍しく、手を振る男の前を気付かないふりして通り過ぎた。 ところがちょっと行ったところで運悪く、赤信号に捕まってしまう。そうして青になるのを待っていると、いきなり「ドンドン!」という音がして、見ればさっきの男が助手席のウインドウを叩いている。そして何やら叫んでいるのだ。 ――てめえ、この野郎! ――なに乗車拒否してやがるんだ! ――さっさと乗せろ! ――この野郎! だいたいがこんな感じの文言で、見事にその見てくれ≠ニバッチリハマった。 そうしてやっと青になるのだ。 そこで男に向かって笑顔を見せて、彼はゆっくり車をスタートさせる。 当然、男は更なる大声で喚き散らし、車から離れまいと必死になった。そんな姿を確認し、横断歩道から十メートルほど離れたところで停車する。 それから、ちょうど追い付いた男の為にドアをゆっくり開けるのだ。 そうして後部座席に顔を突っ込んできた男に向けて、安藤は笑顔で告げるのだった。 「お客さん、すみませんね〜 横断歩道の付近は乗せちゃいけないもんで〜」 ――だから横断歩道を越えてから乗せようと思った。 そう声にして、彼はさっさと前を向いた。 もちろん男はそんな言葉に納得しよう筈もない。ガアガアと文句を言いながら、それでも後部座席に乗り込んでくる。 「さあて、お客さん、どちらに参りましょうか〜? もしも観光なら、わたしにすべてお任せくださいよ」 「ばかやろう! もう夕方だってのに、観光のわけねえじゃねえか!」 「ああ、じゃあ、お仕事ですか〜 そりゃあご苦労さまでえ〜」 なんとも拍子抜けするその言いように、男の怒りもそこまでだった。 「まったくよう! てえ¥繧ーたらすぐ止まれってんだ! このクソ親父!」 なんてのを最後に、男はぶっきらぼうにホテルの名前を挙げるのだった。 「お客さん、そこはこの辺りじゃ、一番高級なホテルですよ〜」 「まあな、そりゃあ上から言われて来たんだから、そのくれえはよ、当たり前よ」 すでに機嫌は直ったようで、男はそこからいろんなことを話し出した。 今日は部下だった奴に、わざわざこんなところまで会いに来てやった。 東京生まれの自分からすれば、こんな田舎に住む野郎の気が知れない……などなど、それ以外にも話していたが、だいたいが自慢話か、世の中に向けての悪態ばかりだ。 ただとにかく、そんな男との再会だった。 「林田」と叫んだ若い男がまさにそいつで、きっと車から降りて来たのが彼の言うところの上司だろう。 二人はさっさと車に乗り込み、更に上を目指して走り去ってしまった。 だからと言ってこの時は、ただそれだけのことだった。 ところがそれから、ふた月ほどした頃……男たちを見掛けた山から更に奥へ入り込んだ山間で、若い男の死体が発見される。 人が滅多に通らぬような山道から、足を滑らせ――という警察発表なのだろう、新聞にはそう書かれてあって――川岸まで一気に転落したという。 気温も低く、死体の痛みはそれほど酷くなかったが、カラスか何かに突かれたせいで、ちょっと見ただけではどこの誰だか分からない。それでも所持していた財布の中から生徒手帳が見つかって、すぐに男の身元は判明した。 当然、安藤の知らない名前だ。 ――どうして、あんなところに行ったりしたのか? などとちょこっと思っただけで、そんな死体のことなど頭の隅にも残らない。そうして七年近くが過ぎ去って、事件があったことさえ忘れ去っていた。 なのに……一気に蘇って来たのは、その背格好が似ていたこともあるだろう。 最初、目にした時には、登山道に入り込もうとしているところ。ほう、ずいぶんと大きいなあ……なんて感じただけで、そのまま通り過ぎてしまうのだ。 ところが後部座席から声が掛かって、バックミラーに目をやった途端、 ――あれ、こんな場面を、どこかで見たぞ? フッとそんなことを感じつつ、彼は慌てて車を停めた。 それから言われた通り車をバックさせ、倒れ込む若い男に目をやった時だ。 スッと頭に過去の光景が浮かび上がって、そこからずっと一つの疑問が頭の中から消え去らない。 ――もしかするとあれが、関係してるんじゃないか? 同じ辺りからいきなり現れ、「林田さん」と叫んだ男にいったい何があったのか? あの登山道から三十分ほど行った辺りに、この辺のものしか知らない抜け道がある。 その先には見晴らしのいい崖があって、地元の若いカップルなんかが夕陽を眺めに訪れるのだ。しかしそんな話もずいぶん昔のことで、その抜け道も今となっては、残っているかどうかだって怪しいものだ……それでも……、 ――もし、あそこから落ちたんだとしたら……? 死体が発見された川岸もそこからそう遠くない。 ――となれば、あいつら……。 偶然で片付けるには、どうあったって灰色すぎた。
✳︎
寒い……そう感じた瞬間、横っ腹に痛みが走った。 思わず痛みの場所を押さえようとするが、なんと腕そのものが動かない。 ――え!? と思って周りを見れば、まるで知らない場所にいる。 冷たい床に尻を付け、細い棒のようなものに寄り掛かっているようだ。 ――これって、どこ……? 確か電話ボックスから電話を掛けようとして……誰かに、声を掛けられた。 ――ま……さか! いきなり体温が下がった気がして、身体の中を冷気がゾワっと駆け抜けた。 両手が身体の後ろにあって、なぜだかまるで動かせない。 そして、見知らぬところで目が覚める。 となればあの時、 ――俺は、気を失ったのか!? そう思ってからは、ありったけの力で自由を取り戻そうと頑張った。両手首が縄か何かで結ばれていて、更にその縄が背中にあるものにしっかり固定されている。 どうにも動きが取れないまま……どのくらいの時が過ぎ去ったのか? 疲れ果て、それでも地べたに横にもなれずに、彼はそこでやっと大声を出した。 「誰か! 助けてくれよ!」
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