第3章 〜 2 千尋と翔太(2) それは大家さんからの伝言で、千尋の部屋の扉にもしっかり貼ってあったのだった。 ――雨漏りが凄い。 ――明日には直してもらうから、 ――濡れて困るものは濡らさないように。 大体こんな感じがマジックで大きく書かれてあった……が! ――もう、部屋中びしょ濡れじゃないのよ! 天井のあっちこっちから、雨粒が連なり滴っている。 すでに部屋の片側半分が、まさに濡れ雑巾のようになっていた。 「どうしよう?」 思わず彼にそう言って、千尋が困った顔を見せた時だ。 「とにかく、濡れてるやつを端っこに寄せよう……でさ、入っても、いい?」 天野翔太はそう言って、千尋が頷いた時にはすでに動き出している。 それからひと通りの作業を終えて、無駄骨になるとは知りながら、バケツや茶碗なんかをあっちこっちに置いて部屋を出た。 そうして言ってくれたのだ。 「こんな時間からホテルってのも厳しいだろうし、もしよかったら、ウチに、くる?」 ――え、いいの? 素直にそんな疑問を思っただけだったけど、きっと驚いた顔に見えたのだろう。 「あ! 違うって、俺はもちろん、店に行って寝るからさ!」 大きく手を振り、天野翔太は慌てたようにそう言った。 彼の部屋はアパートの端っこで、ぜんぜん雨漏りなんかしてないそうだ。 ところが千尋の真下にある部屋は、彼女の部屋以上にひどい状態になってるらしい。 「その部屋から大家さんに苦情が入ったらしいよ。それで今ちょうど、住んでる人が様子見に戻ってきててさ、きっと上もおんなじだろうって、教えてもらったんだ……」 それで慌てて千尋の部屋までやってきて、一緒にいろいろやってくれた。 だからと言って、千尋が彼の部屋で寝て、 ――彼が店でって……? 訳には行くわけがない。 結果、いろいろ言い合って、入ってすぐある三畳ほどのキッチンと、畳の部屋との間をカーテンで仕切ってしまう……ってことに落ち着いた。 「俺がさ、台所の方で寝るからさ……」 そうしてコンビニまでガムテープを買いに出て、いざアパートへ戻ろうという時だった。 そこでふと、千尋がポツリと声にする。 「あの、一階と二階って、間取りはみんな、一緒ですか?」 フッと浮かんだ疑問が気になり、千尋はさっそく翔太に問うた。 「うん、さっき見た感じだと、少なくとも俺んとこは、おんなじだったな」 「ってことはね、トイレって、どこにあります?」 そう尋ねた途端、彼は一瞬横を向き、 「あ、そうか、やっぱり行く? 寝てからも、トイレ……行く、よね? やっぱり」 大きな傘を揺らしながら、そんなことをひと言ひと言、まるで一語一句確認するよう聞いてきた。 玄関入ってすぐの左側にトイレはあって、そこは当然、台所のある方なのだ。 ――じゃあ、わたしが台所で寝るから……。 なんてことを心に思ったとほぼ同時、 「台所は、ゴキちゃんが凄いからなあ〜」 なんて彼の言葉に、千尋はただただ目を見開いたのだ。 そうして二人は結局、朝まで話をしようと決める。幸い明日は月曜日で、学校さえ耐えればアルバイトは休み。 それは天野翔太にとっても同様で、彼の職場も月曜日はお休みだ。 ところがそれから聞いた話が、千尋にとっては衝撃だった。 「ねえ、天野さんのこれまでのことを聞かせてよ」 「これまでって?」 「どこで生まれたとか、学校はどこに行ったとかさ、ご両親はなにしてる人で、今はどこにいらっしゃるとか、いろいろと、あるじゃない?」 ほんの気まぐれでの発言だったが、彼は驚くくらいにしっかり話してくれるのだった。 ――え? そんなことまで!? ってくらいに何から何まで話してくれて、彼が施設に入ったところで千尋は思わず声にしていた。 「ねえ、もし言いたくなかったら、話さなくたっていいからね?」 最低だった父親が消え去って、貧乏を絵に描いたような生活からさらに、施設での苦難が待ち受けている。 涙までが滲み出て、千尋は翔太を見つめて声にした。 すると申し訳なさそうに、 「ごめん、そうだよな、こんな話、イヤ、だよな……」 そんなふうに返してきたから、千尋は必死に首を左右に振ったのだ。 「こんな話でもさ、聞いてくれる人がいるって、いいなって思っちゃって、ついつい話し過ぎちゃったよ、ごめん……」 これまで自分の人生を、人に話したことなどなかったからと続けて、 「もしさ、これで俺が明日、いきなり死んじゃったとしても、千尋ちゃんが覚えていてくれるだろ? しばらくの間でもさ……俺っていう人間が、ここでちゃんと生きていたってことをね……」 そう呟くように言った後、彼はなんとも言えない笑顔を見せた。 ――この人絶対、わたしを泣かそうとしている! なんて素直に思っちゃうくらいに心が震えて、千尋は流れ出そうとする涙を必死になって耐えたのだった。 きっと、コンビニで買ったサワーのせいだし、あまりに自分と違う生い立ちに、ただただ驚いたってだけなんだろうと思う。 それでもこれ以降、ちょっと優しいノッポの隣人さんって感じから、一気に気になる存在となり、三日会わないだけで心がモゾモゾ≠オ始める。 だから週に二回はバイト終わりに「DEZOLVE」に顔を出し、勧められるカクテルなんかを一時間ほど楽しんでから帰宅することにしている。 そんな時、勇気を出してどこかに誘おうか? などと思ってみるけど、もしも断られたりしたら……? ――このアパートに居られなくなっちゃう! そうなったら困るから、千尋は絶対言葉にしない。 そうしてあの日も、一時間しないくらいでさっさと店を後にした。
ところがちょっと歩いたところで、思わぬ事実に気付いてしまう。 ――あれって、さっき店にいた人だ……。 たまたまか? それにしたって、今、あそこにいるってことは……? 千尋が出た後、すぐに会計したってことになる。さらにこの通りから先は住宅街で、俄然、人通りも少なくなるのだ。 ――参った! 挨拶なんてするんじゃなかった! なんて大後悔を思いつつ、千尋は思いっきり早足でアパート目指して歩き出した。 幸い何事もなくアパートに着いて、部屋の明かりを点けようとした時、 ――まさか、居ないわよね? ふと、外の様子が気になって、そのままカーテンの脇にしゃがみ込んだ。ほんの少しだけカーテンの端っこを動かして、ドキドキしながらアパートの外へ目を向ける。 すると男はやっぱり……そこにいた。 前の通りに立っていて、視線は絶対アパートの二階に向いている。 ――どうしよう? そう思った時だった。 男が急に歩き出し、アパートの敷地内に入ってきたのだ。 ――やだ! つまんでいたカーテンを離し、千尋は慌てて立ち上がる。 武器になるようなものがないかと部屋を見回し、とりあえず買ったばかりのアイロン台を手に取った。 男の力で本気になれば、こんなボロアパートの鍵なんてあっという間に壊される。 だから玄関側に構えて立って、頭を思いっきりぶっ叩いてやる! なんて思っていたのだが、いつまで経っても階段の音さえしてこなかった。 ――え? もしかして勘違い? かと言って、そう決めつけるのは早過ぎる。どうせくつろぐ気にはなれないし、そんな時にこそ、突然襲われたら対応だってできないだろう。 だから千尋はそのままの体勢で必死に待った。 終いには、アイロン台を持つ手がほとほと疲れて、 ――ねえ! 来るんならチャッチャと来ちゃってよ! などとチラッとだけ思ったりもする。そうしていつまで待っても何も起きず、千尋はとうとうアイロン台を放り出した。 それでもドアの外を確かめる気にはなれず、と言って寝てしまうのも恐ろしかった。 ――あいつ、今度見掛けたら、絶対に許さないから! 千尋はそう念じつつ、安物のカーテンを睨み付けた。
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