1 捜索 1979年
「あった……けど、こんな、新しかなかったよな」 目の前に、建てられてから、そう経っていないだろうアパートがあった。 ここは、天野翔太が結婚するまで住んでいたところで、達哉が目を覚ました場所もここだった。今から、三十九年も未来だったから、 ――そりゃあ、オンボロにだってなるよなあ〜。 妙な懐かしさと一緒にそんなことを感じ、彼はグルっと辺りを見回した。 最初、二子玉川園駅を降り立った時、あまりの違いに思わず唸った達哉がいたのだ。 駅はあまりに小さくて、大きな建物は高島屋と富士観会館くらいしかない。元々知っていた筈なのに、その驚きは、軽く想像を越えていた。 ところが多摩川沿いを歩いていくと、どんどん見知った景色が多くなる。そしてアパートを見つけた頃には、そんな時代の変化はそうそう感じられなくなっていた。 もちろん細かく言えば、さまざまいろんなところが違うのだ。 舗装されていない道だらけだし、電信柱も木造のものがあっちこっちに立っている。 それでも同じところに道があり、それに沿って家々があった。家そのものは同じじゃないが、そんなのは四十年近いって月日を思えば当たり前ってところだろう。 ただ一つだけ、向こうで気付かなかった大きな違いを、彼はこうなって初めて知った。 土曜日の、それも午後だったせいだろう。 河川敷では野球少年が走り回って、土手から住宅街に入っても、子供の声がやたらと耳に付く。そんな当たり前だった光景が、彼にとっては久しぶりのものだった。 ――あっちでは、滅多に子供を見かけなかった……。 達哉はそんなことを考えながら、アパートの敷地内に入り込む。 そのまま裏手へ回り込み、並んでいる四つの窓を確認し、その中の一つに迷うことなく近付いた。 ――ここで、あいつが死んだのか……。 彼が見つめる窓の向こうで、これから何十年後かに天野翔太が暮らすのだ。 そして今、達哉が立っているこの場所で、山代勇が背中を刺されて絶命している。 もちろん翔太は殺してなどいない――という記憶は今でもちゃんと残っている――のに、いったいどうして……死んだのか? 翔太自身も一生懸命考えてもみたし、大凡の結末も推測できる。 だからと言って、声にしたところで誰も信じやしないだろう。 ――ホントに、そんなことが起きるのか? 彼自身、半信半疑っていうのが正直なところであったのだ。 ただとにかく、達哉が翔太を見つけ出し、手を打ってしまえば未来だって変わるだろうし、山代もきっと死ぬことなしに借金を返し続けることになる。 ――絶対に、そうして見せるぞ! そんな決意を心に思い、彼はそこから再び駅に戻って電車に乗った。 四つめの駅で降り、記憶を頼りに駅前を歩いてみると、「DEZOLVE」はあっという間に見つかった。 後はとにかく、天野翔太と知り合いになることだ。 店は十九時からだから、まもなく看板に明かりが灯るだろう。 そうなったらさっさと店に入って、なんでもいいから言葉を掛ける。そうして何度か通っていれば、すぐに友達ってくらいにはなれるだろうと考えた。 そう思っていたのだが、店に入ってみると翔太がどこにもいないのだ。憎っくき山代だけがカウンターに立っていて、達哉はウイスキーのロックを注文し、チビチビやりながら待つことにする。 ――うえ! まじい! 実際、ウイスキーのロックはキツすぎるのだ。 高校の頃、コップに注いではみたものの、匂いを嗅いだってくらいでヘキヘキしたのを覚えている。だからしまいっ放しにしていたヤツを、両親どちらかが見つけ出して大騒ぎとなった。 煙草にしたってだ。 吸うのは仲間といる時くらい。立て続けに吸うと、決まって気分が悪くなるから、フカしてばかりってのが本当なのだ。 ただとにかく、今は煙草なんて吸いたかないし、酒もどちらかといえば焼酎派だ。 こんなのもあっちの時代の影響だろうし、なんにしたって生き返ったんだから、感謝すべきは間違いない。 そんなことを考えながら、あっという間に一時間近くが経過する。 もしかしたら、今日は休みなのか? そんな可能性も充分あるし、であれば待っているだけ無駄骨だ。また明日にでも来てみようとさっさと決めて、彼は会計を済ませてから店を出た。 階段を上がり、駅に向かって歩き出す。 すると遠くの方から、妙にのっぽの男が走ってくるのが目に入るのだ。 ――あれって、まさか!? 周りの人から頭ひとつ分は背が高い。 あっという間に達哉の横を通り過ぎ、そのままバーへの階段入り口に入っていった。 慌てて階段上まで戻ってみると、既にのっぽ≠フ姿は見えなくて、それでも声が上の方まで響き聞こえた。 「すみません! 遅くなりました!」 なんて声が聞こえて、慌てて時計を見れば、八時をちょっと回ったところだ。 ――よし、明日は八時に来てみよう! そう思った通りに、翔太の出勤は午後八時から。それから月曜日の定休日を跨いで、三日連続で店に顔を出したのだった。 ところがなかなか上手くいかない。友達くらいすぐなれる……なんて思っていた自信は二日めで、呆気ないくらい消え失せてしまった。 だいたい翔太がカウンターには居てくれない。 いるのはいっつも山代で、彼はテーブル客への対応やらツマミの運搬なんかで動き回ってばかりいる。 だからちょこっと話せても、会話はすぐに断ち切れだ。 ――くそっ、これじゃあダメだ……。 なんて思い始めた水曜日。 その日は小雨が降っていて、彼以外には客がひと組しかいなかった。 だから少しくらいは話せたが、所詮「雨はいつまで続くのか?」やら、「家はここから近いのか?」なんてことが聞けたくらい。それも向こうからの返事が簡潔だから、次の言葉がなかなか浮かんでこなかった。 そんなこんなで、午後九時を少し回った頃だ……。 「こんにちは〜」 なんて声が響いて、若い女性がいきなりカウンター横に姿を見せる。 歳の頃はハタチくらいか? どっちにしたって達哉と似たような年齢だろう。 彼女はさっさとカウンターに腰を下ろし、山代に向けて「いつものね……」とだけ声にした。それから徐に達哉の方に顔を向け、なんともかわいい笑顔で告げるのだった。 「こんばんは!」 「あ、こんばんは……」 そう答えるのが精一杯で、そんな返事に彼女は再び「ニコッ」としてくれる。 それから山野翔太とも挨拶を交わし、彼女は生ビールを二杯飲み干し、一時間もしないくらいで帰っていった。 そしてその帰り際、彼女は確かに言ったのだ。 「じゃあね、お先に」 翔太に向かってそう声にして、いかにも親しげな感じで手を振っていた。 ――お先に? これからどこかへ向かうのか? ――それにしたってこんな時間に? もう十時だぞ? なんて思いが頭の中でグルグル巡り、結果、二つの可能性を導き出した。 お先に、我が家に帰ります。 ――単に先に帰るってだけか? ――もしかしたら、我が家ってのがおんなじか? もしも一緒に暮らしているなら、翔太の未来についても絶対気になる筈だ。 ――なんなら先に、あの人に説明するってのも、ありじゃないか? あっという間にそんなことを考え、達哉は悟られぬよう気を付けながら彼女に続いて会計をした。 扉が閉まるまでゆっくり歩き、「ガチャ」という音を合図に一気に階段を駆け上がる。すると外は雨がザーザー降りで、小雨どころじゃなくなっていた。 ――クソっ! やっぱり、傘を持ってくるんだった! 出掛けにまさみが言っていたのだ。 夜になると本降りになるから、折り畳みを持っていけ……と。 やっぱり親の言うことは聞くものだ……なんてことを心の隅で感じつつ、彼は慌てて左右の歩道に目を向けた。 歩道に人の姿はチラホラで、すぐに赤い傘を指しているさっきの彼女が目に入る。それから大雨の中、距離を取りながら彼女の後ろを付いていった。 思った以上に雨足は強く、五分もした頃にはどこもかしこもびしょ濡れだ。半袖のシャツが張り付いて、なんとも気持ちが悪いのだ。 そんなのに気を取られ、達哉はほんのいっ時だけ下を向き、己の姿に目をやった。 ちょうどその時、自転車が彼の横を通り過ぎようとする。傘を差し、そこそこスピードを出していて、彼が気付いた時には遅かった。 右腕にハンドルがぶち当たり、それでも達哉はヨロめいただけで済んだのだ。 ところが自転車の方はそうじゃない。傘がふわっと浮き上がり、よろよろしながら街路樹に激突。そのままバタンと倒れ込んでしまった。 ――傘なんか差しながら、自転車なんか乗ってんじゃねえよ! ぶっちゃけ心底そう思ったが、だからって以前の彼とはこっからが違う。 倒れた自転車に走り寄り、達哉は慌てて声にした。 「すみません! 大丈夫ですか!?」 「何やってんのよ! 危ないじゃないのよ!」 この瞬間、達哉は咄嗟に彼女の方を見てしまうのだ。 「ちょっと! 自転車が壊れちゃったらどうするの!?」 こんな叫びを耳にしながら、達哉の視線ははっきり彼女の顔に向いていた。 ――え!? と思った時には、時、既に遅し……だ。 ――え!? まさしくそんな顔をして、さっきの女性が達哉の方を向いている。 足を止め、達哉に目を向けてすぐ、きっと思い出したのだ。 カウンターで挨拶をした若い男が、なぜだか今もすぐそばにいる。付いてきた? そう思ったって不思議じゃないし、実際その通りなんだからそう考えるのは当然だろう。 そうして急に背を向けて、彼女は再び歩き出してしまった。 「ちょっとあんた! 聞いてるの!?」 そんな声で我に帰って、見れば中年女性が立ち上がり、睨み付けながら仁王立ちを見せていた。彼は慌てて倒れていた自転車を起こし、彼女に向かって告げたのだった。 「すみませんでした! ホント! ごめんなさい!」 ぺコンと頭だけ下げて、すぐに中年女性に背中を向ける。 「ちょっと! あんた!」 なんて声が聞こえたが、答えている暇などまったくなかった。 彼女の姿が、どこにもないのだ。 ――え? どこかに入ったの? 達哉はそこから歩道沿いの店を一軒一軒眺めながら歩き、彼女の姿を必死に探した。すると少し行ったところに、右手に折れる道がある。遠くに薄っすら赤い傘が見え、明らかに後ろを気にしながら歩いているようだ。 ――追うの、やめようか? そんな思いが一瞬過ぎるが、 ――このままじゃ、あの店にだって行きづらくなっちまう! となれば、せめて住まいくらいは突き止めたい……そう思い改め、達哉はそのままじっと、彼女の姿を見つめ続けた。 すると今度は左手に曲がって、再びその姿が見えなくなった。 と同時に、達哉は一気に走り出す。赤い傘のお陰でなんとか判別付いたが、これ以上離れたら闇夜に紛れてしまうかも知れない。 だから必死に角まで走って左を見るが、既に彼女の姿はどこにもなかった。 ――きっと、ここからそんなに離れちゃいないぞ! そんな思いで左の道を歩いて行くと、呆気ないくらいにすぐ見つかった。 赤い傘を差したまま、アパートの外階段を彼女がゆっくり上がっている。途中一回立ち止まり、傘の影からコソッと顔を覗かせた。まさに警戒している雰囲気で、物陰から眺めるだけで精一杯だ。 ――どうしよう? そう思っていると、アパートの二階で、真ん中の窓がほんの少しだけ明るくなった。 ところがすぐに真っ暗になり、それからしばらく待っていたが、部屋の明かりはなかなか点かない。それでもきっと、彼女はそこにいるのだろう。 ――俺の、せいか……。 もしも尾けてきていたら、明かりを点ければ部屋がどこかが分かってしまう。それを恐れて、彼女は暗い部屋でひとり、ただただ時間の過ぎるのを待っているのだ。 そんなことに気が付いて、彼は心に思うのだった。 ――ごめん……本当にごめん! それでもアパートの一階くらいは、せっかくだからチェックして帰ろう。 天野翔太が住んでいれば、ポストに苗字くらいはある筈だ……などと考え、アパートの敷地内に足を踏み入れかけた時だった。
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