四十一年前(2)
「ガチャン!」と何かが割れる音が響いて、それからすぐに「ドタン! バタン!」という音が続いた。 階段か? ――そう思うとほぼ同時、達哉は慌てて階段下まで走ったのだ。 そこはリビングから出てすぐのところ。二階へと続く階段のすぐ前で、なんとまゆみが床に倒れ込んでいる。 辺りには割れた陶器が散らばって、彼は思わず声にしたのだ。 「どうしたんだよ!」 それからまゆみのそばに駆け寄って、抱き起こそうと彼女の背中に手を差し入れた。 するとまゆみは慌てたように、 「ごめん! お母さん、またやっちゃったわ!」 そう言ってから、痛そうな顔をしながら立ち上がろうとする。 その一瞬、まゆみの顔が達哉の顔のすぐそばに……。 その時不意に、あれ? と思った。 そんな気付きを知ってか知らずか、まゆみが明るく達哉を見つめて告げるのだった。 「達ちゃん、これは違うからね、右目のこととか関係ないの。歳なのかな〜、最近よくやっちゃうのよ」 食器の欠片を掴み上げ、 「ここ、片付けちゃうから、二階に上がるのは、ちょっと待ってね」 なんて言葉を笑顔で告げて、さらに腰に手を当て、痛そうにしながら台所の方へと歩いて行った。 あと二、三段というところで、思わず階段を踏み外してしまった。 割れたどんぶりは達哉が食べた夜食のうどんで、ここのところ、毎日のように夜遅くまで勉強していた……と口にして、 「寝不足が一番ダメなんだから、勉強もほどほどにしてちょうだいね」 そんな言葉を言い残し、彼女は病院の検診に出掛けて行った。 まゆみはなぜか玄関口で、見たことのないようなサングラスを掛けていた。 彼はその時、勇気を出して心にあった疑問を口にする。 「病院って、どこだったっけ?」 「え? いつもいいって言うのに、一緒に付いて来てくれるじゃない、達ちゃん……おかしなこと言わないでよ」 「ああ、目黒中央病院?」 「そうよ、そこの眼科……じゃあね、行ってきます」 終始笑顔だったが、きっと不審に思った筈だ。 ――俺が、いつも一緒に? 以前の自分だったらそんなことする筈ないし、そもそも眼科なんかに通ってなかった。 だから一番近い総合病院の名を口にして、たまたま運よく当たったってだけだ。 そして眼科に通っていると、まさみははっきり口にした。 ――まさか……あの時……? 握りつぶした塊を、彼は腹立ち紛れに投げ付けた。 ――確かに、随分痛がっていたけど…… 煙草ぐらいで、あんなことになるのか? あんなこと……。 さっき、まゆみの顔がすぐそばに来て、そこで初めて気が付いたのだ。 右目と左目が、それぞれ違うところを向いていた……と、言うより右目はきっと動いちゃいない。だからそんなふうに見えたのと、彼はその後すぐに気が付いていた。 となれば、右目は見えていないのか? なんだとすれば、それは自分のせいだろうか? 彼はしばらく玄関扉を見つめ、そんなことばかりを考え続けた。 自分の部屋に戻ってからも、まゆみの右目のことが頭から離れない。 もしも、自分がああなってしまったら……そう考えると身体がズシンと重くなり、脳裏にあの日のシーンが蘇るのだ。 あの時、自分はどうして、あんなに腹が立ったのか? たった二年だけの歳月が、まるで遠い昔のようだった。あの夜にあったことすべて、無かったことにしたいと痛烈に願う。 ――違うことが原因だって、ことはないのか……? そんな可能性だってあるにはあったが、その都度まゆみの言葉が思い出され、その可能性を「あり得ない」んだと打ち消していく。 ――達ちゃん、これは違うからね、右目のこととか関係ないの。 彼女はそう言ってから、歳のせいだと声にしていた。 これは右目のせいじゃない。 まゆみはわざわざ達哉に向けて、そんなことを告げたのだ。 「クソっ!」 久しぶりにムカついて、思わず声になっていた。 しかし以前の達哉のように、それは誰かに向けてのものじゃない。 「ちくしょう! 俺ってヤツは!」 そう声にした後も、次から次へといろんな言葉が浮かび上がった。 どれもが後悔の念から溢れ出たもので、いつしか強く思うのだった。 ――帰ってきたら、ちゃんと謝ろう! 土下座したっていい。 そのくらいのことをしてしまったんだと、達哉は本気で思い始める。 しかしすでに、二年という年月が過ぎ去っていた。今頃になって謝ったって、「今さら何?」って言われるか、実際、変に思われるってのがオチだろう。 そう考えた時やっと、達哉は元々の疑問をやっとのことで思い出す。 ――じゃあ、俺になったやつは、いったいどうしたんだ? 達哉になったその誰かは、ああなった経緯を知らなかったに違いない。両親との関係を想像すらできないうちに、そいつは次の日、どんな態度を取ったのか? 先ずは、そいつが誰か?……が問題だ。 ――何か、残されてないか? そう思い、自分の部屋を漁り始める。そうして一、二時間が経った頃、達哉は驚きの事実をたくさん知った。 抱いていた疑問の大半を、ほぼほぼ知ることになったのだった。 達哉はなんと、大学の一年生になっている。それも私立ではトップクラスと言われる一流大学で、受験勉強をしたっていう痕跡があっちこっちに残されていた。 教科書に参考書、赤本にまで書き込みやラインマーカーがびっしりで、何度も読み込んだせいだろう……その厚みが本来あったものよりぜんぜん厚い。 本棚には見たことのない書物がやたらと並んで、 ――俺なんて、本なんか読んだことなかったし……。 きっと、こいつは必死に頑張ったのだと、次第に達哉も悟っていった。 記憶だけは残っていたが、当然頭脳や身体は別人なのだ。十七歳だった彼もヨボヨボになり、脳みそ≠フ方だって一気に忘れっぽくなったと思う。 しかしその分、知らなかった知識が増えていて、天野翔太の記憶が蘇ってからは、無性に活字を欲したりもしたのだ。 しかしいざ読もうと思ったら、老眼のせいで読むのが結構辛かった。 だからきっと、ずっとサボってきた達哉の頭で、受験なんてのはとんでもない荒技の筈だ。それも一流大学に合格するには、ちょっとやそっとの頑張り程度じゃ追いつきゃしないに決まっていた。 ――それをあいつは、あんな歳でやり遂げたのか? あいつとは、やはり天野翔太のことだった。 六十一歳でいきなり高校生の身体になって、達哉とは違った困惑だってあっただろう。 ただとにかく、彼は一流大学に入学し、まゆみに達ちゃん≠ネんて呼ばれるくらいになっていた。 ――俺とは、大違いだもんな……。 驚くくらいに誰にだって好かれ、それ以上にすべての人に対して優しい。そんなのは周りの態度で分かったし、そのお陰で達哉もずいぶん助けられた。 彼が部屋で覚醒した時、驚きすぎて気付かなかったが、目の前には書きかけのノートが置かれていたのだ。ついさっき、そんなことにも気が付いて、目を向けた途端に心臓が止まりそうに驚いた。 本当に、ありがとうございました こんな文字が目に飛び込んできて、彼はそのノートを大慌てで手に取った。 自分の字じゃないのはすぐわかったし、見たことがないかって言えばそうじゃない。 思えば……天野翔太の文字だった。 達哉になってからじゃなく、それ以前に書き残された文字そのものなのだ。 きっと達哉の身体になってからも、たくさんの文字を書き続けたのだろう。小学生のような達哉の文字を、日々の鍛錬で自分の文字にしていった。 そこにあるのは達筆というべき大人の文字で、まさしく達哉の知っている天野翔太の文字なのだ。
最後の最後で、最高の時間をプレゼントされた気分です あなたが戻って来るのかは分かりませんが、とにかく、心から感謝いたします ご両親を、大切にしてくださいね 本当に、ありがとうございました
それから最後に、「天野翔太」と書かれてある。 ――最後の最後で? ――まさか癌だって、知ってたのか? それにしたって、いつ、何時何分に入れ替わるってこと、あいつは知っていたのか? ――じゃなきゃ、どうして……? あんなノートを前に座っていたのか? そう考えた途端だった。 達哉の知っている天野翔太が勉強机に向かい、何か書き込んでいる姿が思い浮かんだ。 それはもちろんシワだらけの老人で、今にもポキンと折れてしまいそうにか細い体躯のままなのだ。 ――クソっ……。 もちろん、戻って来れたのは最高に嬉しい。 実際、最後の方では達哉だったことさえ忘れていたし、あのまま死んでしまったって不思議じゃなかった。 だからって、手放しで喜んではいられない。あんなに辛く厳しい人生で、最後のたった二年間が楽しかったからって……。 ――何が、ありがとうだよ! 「おまえ! 馬鹿じゃねえのか!?」 達哉は無性に腹が立ち、 「ふざけんなよ! ありがとうとか、言ってんなよ!」 天野翔太への熱い思いが声となって溢れ出た。 「ホント! 馬鹿だよ! 馬鹿野郎としか、言いようがねえって!」 そんな言葉が次から次へと飛び出して、終いに達哉は立ち上がり、手にしていたノートを壁に向かって投げ付けた。 「パン!」という音がして、大学ノートが壁からストンと真っ直ぐ落ちる。 そんなのと同時に、部屋の扉がゆっくり開いて、まゆみが顔を出したのだった。
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