第2章
1 四十一年前
フッと意識が覚醒した。 しかし、ただ目が覚めたってのとはぜんぜん違う。 指には鉛筆が握られていて、なんたって勉強机なんかに座っているから、寝ていたわけじゃ絶対なかった。 いきなり座っている己れに気が付いて、見つめているのが小難しそうな文章だ。 手にとってみれば、「日本経済史」などと書かれているから、学校の教科書か何かなのだろう。 ――それにしたって、どうして経済史≠ネんだ? 学校で経済史なんてやってたろうか? そう考えた時、突然、彼は一気に思い出すのだ。 ――俺って、死んだよな……? 彼はいきなり立ち上がり、辺りを慌てて見回した。 ついさっき……たった今ってくらいに病院にいて、妻への感謝を声にしようとした筈だった。 「ありがとう」 そう言ったつもりだったが、きっと唇だって動いちゃいない。 ――あなたのお陰で、やっと幸せになれました。 だから伝えたかった思いも声にできず、彼は息を引き取った筈だった。 ところがだ。ストンと意識が消え去った瞬間、いきなり周りが眩しくなった。 ガッと息を吸い込んで、フッと自然に瞼が開いた。するとなぜだか見覚えのある光景に囲まれて、呼吸器どころか横になってさえいないのだ。 ――ここって、俺の部屋か? だろうと思うが、何か、大きく印象が違う。 壁から天井まで、ベタベタ貼ってあったアイドルのポスターなんかがなくなっていた。 そのせいか、部屋がなんともスッキリ見える。しかし知っている物もたくさんあって、彼はある一点を見つめた途端、あれっと思った。 真正面にある壁の中央に、見覚えのないカレンダーが掛けられている。それも大きな花びらの写真もので、どう考えたって以前の部屋にはなかったものだ。 彼はゆっくり歩み寄り、カレンダーそのものを捲ってみると、 ――やっぱり、なんだ……。 そこに、しっかり穴が空いていた。 いつだったかは忘れたが、何かにムカついてやっぱり彼がぶち抜いたのだ。 ――ってことは、リビングにもきっと……。 達郎にタバコのことで注意され、同じような穴を開けてから家を飛び出した。 そんなことを思い出し、彼はゆっくり手を広げ、そしてそのまま顔の辺りまで持っていく。それからドキドキながら己の頬にその手を寄せた。 手にある感触は明らかに、記憶にあるものと違っている。 ざらざら感がまるでなく、ふっくらとしていて滑らかなのだ。 ――これって、やっぱり! そこで勢いよく部屋を飛び出し、階段を一気に駆け抜けた。 あっという間に洗面所に到着し、鏡に映る姿に目を向ける。 ――やっぱり……。 思った通り、そこに映っていたのは正真正銘、藤木達哉の顔だった。 ところが記憶にあった姿じゃない。 ――どうなってんだ? キンキンの金髪でロン毛だった筈が、ごくごく普通の頭になっている。 耳がしっかり見えていて、何とも間抜けな感じに見えた。 そして一番の驚きは、大きく変わってしまったその体型だ。 八十キロを越えていたのだ。顎の下には肉がダブ付き、腹の出っ張りだってなかなか見事なものだった。 それらがすべて消え失せて、 ――これって、俺か? ってくらいに、ほっそりスマートになっている。 きっと六十キロちょっとって感じだろうか? つまり、二十キロくらいの肉の塊が、彼の肉体から消え失せたってことだ。 ――俺はあっちに、何年いたんだ? 天野翔太として未来を生きて、あっという間に癌で死んだ。 それでもまるまる二年以上はいた筈で、もしもその間、誰かがこの身体で生きていたんだとしたら、 ――それが、あいつだったら!? そう思ったと同時に、鏡に何か映った気がした。 慌てて後ろを向こうとするが、その寸前に明るく声が響くのだった。 「あら、達ちゃん、どうしたの? 今朝はいやに遅いのね?」 見れば母、まさみが立っていて、顔だけ覗かせ、満面の笑みを見せている。 ――達ちゃんって? ――でもって、今朝は遅い? と、続けざまに思ったが、それでもなんとか笑顔を作り、「ああ、ちょっとね……」とだけ必死に返した。そしてもちろん、そのまま部屋に戻ろうとする。 ところが再びまさみの声だ。 「お母さん、これから病院で定期検診だから、ご飯食べたら洗わなくていいから、そのままにしておいてちょうだいね」 そう言ってから、彼女は手まで振って見せたのだった。 さっき部屋の時計を目にした時、確か七時を指していた。 窓からの日差しも明るいし、どう考えたって夜ではない。となれば朝の七時だろうし、なのにそんな時間を「遅い」と言った。 ――それも、達ちゃん≠チて、いったい何だよ? 確か小学校の頃までは、そう呼ばれていたような記憶があるが……。 ――まさか、母さんまで、誰かと入れ替わったのか? そんなことを考えて、そのまま二階へは向かわずに、恐る恐るリビングの様子を見に行った。 そこからダイニングまでが見通せて、以前の達哉なら決して自ら入ったりはしない。 それでも目を向けた途端に、やっぱり何かが違って感じる。 ――なんだ? 何が違う? そう思ってすぐ気が付いたのは、飾ってあった植物だった。 それもリビングだけじゃない。途中にあった出窓にも、大きな花瓶に真っ赤な薔薇の花が咲いていた。さらにここには、紫陽花の花が飾ってあって、他にも名前の知らない観葉植物があっちこっちに置かれているのだ。 以前なら、こんなことは考えられない。 あの辛気臭い母親が、花を飾るなんて想像すらしたことなかった。 こんなことにすぐ気付くのも、きっと天野翔太だった経験があったからだ。 以前のままの達哉なら、変化自体に気が付いたかどうかだって怪しいもの。 そして一番大きく違っているのが……、 ――カーテンが、違うんだ……。 以前はレースのカーテンだけじゃなく、さらに分厚い布地が部屋という部屋すべてを覆っていたのだ。 だからどんなに天気がいい日でも、家中どこもかしこも薄暗い。 ――俺が大声を上げるたんびに、母さんは慌てて部屋中のカーテンを引っ張って……。 朝になっても、雨戸が閉めっぱなしなんてしょっちゅうだった。 それが今は、部屋全体が明るくなって、思えばさっきの母親だって大違いだ。 何とも明るい声で、それも達ちゃん≠セなんて呼びかけて来た。 ――いったい何が、あったんだ? きっとこっちでも、それなりの時間が経過している。そう確信し、彼は辺りを見回し新聞を発見。慌てて手にして、そのまま日付に目を向けた。 ――1979年5月21日。 事故に遭ったのは七十七年、五月の二十日だ。と、いうことは、事故にあった日の二年後、その翌日に戻ってきたってことになる。 ――俺が死んだのは、六月の最後の日、だった……。 とにかくほぼほぼ二年間、達哉はここにいなかった。そしてその間、達哉として暮らしていたのは……? ――入れ替わり!? などと思って、天野翔太の顔が思い浮かんだ瞬間だった。
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