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作品名:アナザー・デイズ 1977 作者:杉内健二

第14回   第1章 〜 5 天野翔太(藤木達哉)(2)
5 天野翔太(藤木達哉)(2)



 いつものように散歩していて、いきなり何かにつまずいた。
 身体がフワッと前のめりになって、
 ――まずい!
 以前の入院騒ぎが頭を過り、慌てふためいて足を必死に動かしたのだ。
 それがかえって大失敗。踏み出そうとした足が地べたをこすって、そのまま頭から突っ込んでしまった。
 思わず「うわっ」と声を上げ、左の頬と地べたがガツンとブツかる。
 あまりの痛みにしばらくうずくまったまま動くことができない。
 そうしてようやく、彼が立ち上がろうと決意した時だ。
「大丈夫ですか!?」
 走り寄る足音とともに、女性の慌てた声が耳に届いた。それからすぐに胸の辺りに手が差し込まれ、誰かが抱き起こそうとしてくれる。
 そんな女性の手を借りて、彼がなんとか立ち上がって見れば、正面に見知らぬ女性が立っていて、心配そうに見つめる顔が真正面にあった。
 彼は礼を言おうとその女性を見つめ、実際ひと言ふた言何かを告げた。
「すみません」だったか、「ありがとう」と言ったのか、とにかく声にした後すぐ、続ける言葉を失ってしまった。
 ――俺はこの人と、どこかで会ったことがある!
 ――それは、なんでだ?
 頭の中でそうなった理由を必死に探し、
 ――この時代でか? それとも以前でだったか?
 ――いや、それならとっくに墓の中だ! 
 そう感じた瞬間に、目の前の女性が不安げな笑みを浮かべて、彼に向かって問いかけたのだ。
「まだ、お具合悪いんですか?」
 訳がわからずキョトンとすると、彼女はさらに沈んだ声で言葉を続けた。
「ここひと月くらい、ぜんぜんいらっしゃらないから、本当に心配していたんですよ。こんなことなら、お住まいがどこかくらい、チャチャっと聞いておけば良かったって、後悔してたんですから……」
 ここのところ……よく胃が痛み、医者に行こうかと思ってる。 
 そんな話を聞いてから、彼は一切、彼女の前に現れなくなった。
「あの公園には、もういらっしゃらないんですか?」
 そんな言葉を聞いた途端に浮かんできたのは、不思議なくらいに鮮明な景色。
 ――そうだ……河川敷にある、公園だ……。
 暗闇から一気に抜け出たように、それはあまりに鮮明なるものだった。
 毎朝のように川っぺりまで散歩して、河川敷にある公園のベンチに腰を下ろして本を広げ、辺りの景色に目を向ける。そうして季節折々の変化をしばし楽しんで、帰宅するのが天野翔太の習慣だった。
 実際、そのコース自体は違ったが、今もそんな習慣はほぼほぼ変わっていないのだ。
アパートのすぐそばに、ここ数年で大きな施設ができたのだった。
そこは特別養護老人ホームで、彼女はそこに勤める介護職員。老人の乗る車椅子を押して、施設の近所を散歩している姿を何度も見かけた。
 女性はいつも優しい笑顔で、老人に向かって何やら話しかけている。
 たったそれだけのことだった。なのに妙に気になって、ネームプレートにある名前を頭にしっかり刻み込んだ。
 そうしてある早朝のこと、なんと彼女が子犬を連れて姿を見せた。もちろん相手は彼のことなど知りはしないから、彼の座るベンチの前をさっさと通り過ぎてしまうのだ。
 本当ならば、声など掛けずに終わってしまう筈だった。
 ところが運がいいのか悪いのか、大型犬の登場によって状況は大きく変化する。
 女性がその存在に気が付く前に、子犬がいきなり全速力で走り出した。彼女の手からリードがすり抜け、子犬は大型犬に向かって一直線だ。
 一方大型犬の飼い主の方は、百キロ近くはありそうな巨漢の男。
子犬は大型犬から数メートルのところまでやって来て、キャンキャンと吠えるばかりでそれ以上は近付こうとしない。女性も慌てて駆け寄ってきて、リードを必死に掴んで大型犬から離そうとする。
 その時だった。いきなり男がリードを離した。
大型犬は待ってましたとばかりに突進し、今にも噛みつこうとばかりの体勢なのだ。
 女性は泣きそうな声で制止を叫び、男の方はそんな姿を楽しんでいるようで、顔には笑みさえ見えるのだった。
そんな状況を予想したわけじゃない。
逃げ出した子犬を捕まえてあげようと、そんなふうに思っただけだ。
ちょうど女性に追い付いた時に、リードが男の手から放たれたのだ。もちろんこっちは還暦過ぎのジジイだし、まさに骨と皮ばかりの枯れ木のような存在だ。
それでも身長だけは一メートル九十センチ近くある。いくら大きい犬だろうと、地上一メートルくらいから見上げれば、きっと恐ろしいに違いない……などと即行思って、彼は一気に子犬の前に飛び出した。
腕組みをして、真上から大型犬を見下ろしながら大きな声を出したのだ。
「やるならやってみろ! 人間様を舐めるんじゃないぞ!」
 自分でも驚くような大声だったが、内心、これでダメだったらどうしようかとドキドキだった。
 ところがそんな強張った顔のまま、彼が視線を男へ移すと、男の顔付きが一気に変わった。既に笑みはその顔になく、男は慌てて大型犬に駆け寄って、リードを手にしてさっさと背中を向けてしまうのだ。
 まだまだ去り難い思いで一杯の飼い犬を、男は両手で引っ張りながら土手の方へと歩いて行った。
すると彼女は慌てて犬を抱き上げ、何度も何度も翔太に向かって頭を下げる。
 その時思わず、彼は彼女の苗字を口にした。
変に思われないかと後悔したが、
「あ、もしかして、仕事中にお会いしてますか?」
 などと言って返し、強張っていた表情が一気に明るくなったのだった。
 きっとこれまでに、似たようなことがあったのだろう。
「わたし、しょっちゅうネームプレート外すの忘れちゃうんです。だから綾野≠チて名前、この界隈で結構知られていたりして……」
 そう続けて笑顔を見せる彼女とは、これ以降、あっという間に親しくなった。
 と言っても週に何度か公園のベンチで話す程度だが、それでも彼にとっては何より楽しいひと時となる。
 そしてこの日、久しぶりに出会った彼女は、彼を家まで送ると言い張ったのだ。
もう大丈夫だと声にしても、
「わたし今日、仕事お休みなんです。だから何を言われたって付いていきますからね、天野さんのご自宅まで……」
 そう言って彼のそばから離れようとしない。
 どうせボロアパートを目にすれば、さっさと退散するだろう。そう思っていたのだが、綾野という女性は全くもってそうじゃなかった。
 鍵を開けた途端、さっさと自ら部屋に入り込み、
「押し入れ、失礼しますね〜」
 そう声にしたと思ったら、いきなりせんべい布団を敷き出した。
 ――ひどい顔をしている。
 ――絶対どこか悪いか、どうしようもなく疲れているに違いない。
 ――だから素直に、横になってください!
 さっき起きたばかりで、まだ寝ませんよ……と、笑いながら声にすると、彼女は一気にそんなことを捲し立てた。
 きっとこっちはそんな顔に、すでに見慣れてしまっているのだろう。
 あと半年も経たないうちに、普通の生活ができなくなるのだ。このひと月ちょっとで、彼女が驚くくらいに変わったからって不思議じゃない。
 ――どうする? 話してしまうか?
 しかし……朝の散歩で話すくらいの関係で、そんな打ち明け話をされたらそれこそ大迷惑だ。すぐにそう考え直し、素直に横になろうと決めたのだった。
 ところがあっという間に、彼は眠り落ちてしまう。
「お休みになられたら、わたしは静かに出ていきますから……」
 鍵はポストに入れておくので、目が覚めたらすぐに取って欲しいと、そんな言葉までは覚えていたが……、
 ――あれで、俺はすぐに寝てしまったのか……?
 それ以降のことを、彼はまったく覚えていない。
やはり彼女が指摘した通り、それなりに疲れが溜まっていたのだろう。
そうして目が覚めるのは、かなり日の傾いた頃。台所には夕食の惣菜が並べられ、彼女の置き手紙と食材の余りが残されている。
 近所のスーパーまで買い物に出掛け、それなりに手の込んだ手料理をわざわざ作ってくれたのだ。
 正直言って有り難かった。涙が出そうになる程ジーンと来たが、何がどうあろうとも、彼女と親しくなるのはまずいって気がした。
 ――未来が、ないんだ……。
 だからもう河川敷には近付かず、これっきり会わないようにした方がいい。そう心に決めて、彼は翌日から朝の散歩もやめてしまった。
 ところが当然、綾野の方はそうじゃない。
 次の日も、その次の日も、彼が朝の公園に現れないものだから、三日目の夕刻に彼女がいきなり現れるのだ。
「天野さん、大丈夫ですか!?」
 そんな声と一緒にアパートの扉を何度も叩いて、出て行かないと帰りそうもなかった。


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