4 山代勇(3)
三日間ほど胃の痛みが続き、その夜はあっという間に眠りに落ちる。胃痛も幸い起こらない。だからいつもと違って朝までぐっすりの筈だったのだ。 なのにどうして目が覚めたのか? 深い眠りから無理やり引き摺り出された印象で、正直目を開けるのも辛かった。 ――今、何時なんだ? そう思って布団から腕を出し、頭の上にある筈の目覚まし時計に手を伸ばす。 ところがそこには何もないのだ。 「あれ?」と思って、頭までかぶっていた布団から顔を出し、翔太が頭上に目を向けようとした時だった。 「えっ」と思わず声に出て、そこで慌てて上半身だけ跳ね起きた。 暖房など付けずに寝ているから、当然部屋は冷え切っている。 ところが寒いどころの騒ぎじゃなかった。 部屋の中を風がピューピュー吹き抜けて、まるで表にいるようなのだ。 ――どうしてだ? 年を越し、まだ二月になったばかりという真冬の夜に、窓を開け放して眠る馬鹿などどこにもいない。 なのにだ。窓が大きく開いていた。 慌てて窓に近付いて、顔を表に出してみる。 もちろんそこには誰もおらず、雑草だらけの小さな庭があるだけだ。 外はまだ真っ暗で、となればさっさと寝てしまう以外にやることはない。夜空を眺めながらそう決めて、彼は開け放たれた窓を閉めようとした。 その瞬間、「ガタン」と後ろの方から音がする。 「えっ」と思って振り返り、辺りを見回そうとしたその時だ。 いきなり何かが部屋の隅っこから飛び出した。そのまま翔太の目の前を通り過ぎ、玄関へと続く短い廊下に入り込む。 そこでやっと、飛び出した何かが人間で、窓が開いていた理由が知れた。 侵入者はあっという間に玄関口に到達し、内鍵を開けようと何やらガチャガチャやっている。翔太もすぐに玄関口まで走っていって、侵入者の背中に向けて大声を出した。 「お前は誰だ!」 そう言って、明らかに男だって姿を凝視したのだ ところが男は反応なし。背中を向けたまま、鍵を開けようと悪戦苦闘しているようだ。 あまりに旧式過ぎる内鍵は、開けるのにちょっとしたコツがいる。そんなことに気が付いたのか、男はいきなり扉を開けることを諦めた。 下を向いている姿勢を崩さず、そのまま翔太に向かって突進したのだ。 その時、侵入者の顔がチラッと見えた。 その驚きに、翔太は身構えたままその場で硬直。続いて「ドシン!」と衝撃があり、彼は真後ろにひっくり返ってしまうのだった。 しこたま後頭部を畳に打ち付け、あまりの痛みに頭を抱えて動けない。 その隙に侵入者は窓を開け、片足を必死に下枠に乗せた。 そのまま一気に外に出ようとしたのだろう。両手でしっかり窓枠を掴み、あとは残った足を蹴り上げ、身体ごと表へ飛び降りようという算段だ。 その時、もう片方の足の下には何かがあって、侵入者は気にすることなく力一杯踏み込んだのだ。「ガキッ」と鈍い音がして、足が微かに横滑りする。 もしもこの時、一瞬でも飛び降りることをためらっていれば、結果は少し違っていたのかも知れない。 しかし右足を下枠に乗せたまま、男は躊躇なく身体を窓の外へと放り出した。 ところが左足は窓の下枠を越えられない。横滑りしたせいで踏ん張りが効かず、下枠を越えるどころか、畳から少し浮き上がっただけだった。 身体は縁を描いて窓の外へ落ちていき、いきなり「バタン」と大きな音がした。 その音に気が付き、やっと翔太は顔を上げる。後頭部を押さえつつ立ち上がり、恐る恐る窓の方を振り返るのだ。 すでに侵入者の姿はなくて、開け放たれた窓から冷たい風だけが入り込む。 凍えるように寒かった。 しかし皮膚から伝わる冷気より、より震えてしまう事実が彼を捉えて放さない。 侵入者が振り返った時、豆電球の微かな光が顔付きを照らし出していた。 その顔を見たせいで、後頭部の痛みと共に必死に思っていたのだった。 ――嘘だ! ――どうしてだ? ――勘弁してくれよ! 脳裏に張り付いているその顔は、どう考えたって知った顔。 部屋にいたのは山代だった。 山代勇が翔太の部屋に忍び込み、慌てて窓から逃げ出していた。 「山さん……」 父親であろう男の名を呟いて、翔太はそこでやっと部屋の電気を点けたのだった。 部屋は見事に荒らされていて、衣類やら何やらが所狭しと散らばっている。 そんなのを見ても、もはや何も感じなかった。 実の父親が息子の住まいに押し入って、金目のものを漁って逃げた。そんな現実にショックを受けて、翔太はただただその場に立ち尽くすのだ。 ――どうせ、盗まれるものなんて、何もないんだから……。 だから追い掛ける意味さえないと、彼は疑うことなくそう思う。 ところがその日はそうじゃなかった。片付けは後にして寝てしまおうと、彼が再び布団に就こうとした時だ。 ――まさか……? 脳裏に浮かんだ疑念を、翔太はしばし……微動だにせず考える。 ――知ってる、筈がない! 「DEZOLVE」のことは、当然知っているだろう。 しかしもしも、もう一方の働き口まで嗅ぎ付けていたなら、 ――俺を、尾けたのか? となれば、話は一気に変わってくるのだ。 翔太は慌てて立ち上がり、正面にある壁まで走り寄った。 そこには昼間着ていたジャケットが掛けてあり、一見変わった様子は見られない。 ――考え過ぎ、だったのか? 彼はほんの少し「ホッ」として、ジャンパーの内ポケットへ手を伸ばす。 ところだった。 何も、入っていないのだ。 反対側にも手を突っ込んだ。 衣紋掛けからジャンパーを外し、あっちこっちを弄ってみる。 それでも何も出てこない。終いにはジャケットを上下左右に振り回してみるが、生地の擦れ合う音が聞こえてくるだけ……。 彼は「クソっ」と呟き、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。 バーの給料とは違って、日雇いの仕事は日払いが原則。それでも少しの無駄使いさえ防ごうと、彼は三ヶ月ごとの支給をわざわざ頼み込んでいた。 そうして手渡しされた三ヶ月分を、次の日にそのまま金融業者へ持っていく。 そんな日雇いの給料の日が、実は昨日だったのだ。 そこそこ厚い封筒を受け取り、それをジャンパーの内ポケットに押し込んだ。どうせまた着るジャンパーだから、次の日まで入れっぱなしにするのもいつものこと。 それをまんまと見つけ出し、山代はどんな顔して喜んだのか? ――クソっ! いい加減にしてくれよ! まるで疫病神だった。望んでいた父親なんかじゃまるでなく、翔太を苦しめるために出現したとしか言いようがない。 「ふざけるな……ばか、やろう……」 思わず、声になっていた。 「どうしてなんだ……え? どうしてだよ……?」 そう呟きながら、彼はゆっくり窓際に近づいて、闇夜に向かって大声を上げる。 「ふざけるな! バカ野郎!!」 涙がポロポロ溢れ出て、何度もおんなじ言葉を叫び続けた。 きっと今頃、スキップでもしながらどこかの夜道を歩いている……そんな想像が次から次へと現れて、彼の言葉はさらに毒気を帯びていくのだ。 「山代てめえ! この野郎!」 「地獄に、堕ちやがれ!」 「今度会ったら、絶対殺してやるぞ!」
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