山代勇(2)
――猫だ! と思った時にはブレーキレバーとフットペダルを同時に作動させたのだった。 ところが距離があまりに近過ぎて、過度な減速が仇となる。いきなりバイクが横転し、どうにもならないまま横滑りして電信柱に激突だ。 目撃者の話によると、猫はさっさと飛び退いて、何かを咥えて再び垣根の中へと消えたらしい。 そんな証言を耳にして、黒い塊がなんであったかを彼は知る。 飛び出した猫も真っ黒で、きっと道にいたのは子猫だったに違いない。 生まれたばかりだったのか、ただとにかく、親猫は子猫を守ろうとしてバイクの行くてを遮った。そして幸い大したスピードは出ておらず、彼も何箇所かの打撲と擦り傷だけで済んだのだった。 それでも脳震盪で気を失っている間に救急車で運ばれ、あっという間にバーの開店時間が来てしまう。やっと病室で自由になって、彼が山代に電話をしようと心に思った時だった。 「よお! 大丈夫か?」 まるで図ったように山代が顔を覗かせ、ノックもなしに照れ臭そうな笑顔を見せた。 「どうして? どうしてここが? あ、店は、店はどうしたんです?」 「そりゃお前、翔太が事故に遭ったと聞いて、店なんかやってられんだろう?」 バーに来たことのある客が現場に居合せ、わざわざ店に電話を入れてくれたらしい。 「若い女性だったから、お前さんのファンなんじゃないか?」 店の電話に留守電が残されていて、山代は「臨時休業」という紙を扉に貼り付け、慌てて病院までやってきた。 「でも、どうしてここってわかったんですか?」 「そりゃあ翔太、あの大通り辺りで事故ったってなりゃよ、だいたいはここか玉堤の方だろうって」 そうして東都中央病院にやって来てみれば、見事に翔太が運び込まれた病院だった。 「でもまあ、大したことがなくてよかったな……二、三日で、退院できるんだって?」 「はい、すみません。退院したら、すぐ店に出勤しますから」 「ばか、いいんだよ。ゆっくり休んでからでいいって……」 山代はそう言ってから、して欲しいことはあるかと翔太に尋ねる。翔太はアパートの鍵を差し出し、着替えや保険証なんかを持って来て欲しいと頼むのだった。 そうして次の日の午前中、山代は見覚えのないバッグを抱えて現れる。 いらないバッグだと、返却不要だからと付け加え、彼は不思議なほどあっさり病室からいなくなってしまった。 ただとりあえず、頼んでいたものは手元に届き、後は退院の許可を待つばかり。 ところがなかなか許可が下りない。 二、三日があっという間に五日となって、やっと病院を出られたのは一週間目の火曜日となる。腰を強打したことで古傷が炎症を起こし、痛みがひくまで大事を取ろうということだった。 そうして翌日、普段より一時間以上も早く、彼は「DEZOLVE」に顔を出した。 当然山代の姿はないが、彼のいない間に掃除を済ませてしまおうと、店内へ続く階段をホウキで掃き始めた時だった。 「きみが、天野くんだね……」 いきなり声が聞こえて、慌てて見上げる翔太の視界に見知らぬ男の姿が映る。 それが臨時のマスターだった。 すでに四日目になると告げて、翔太に頭をチョコンと下げてきた。 山代はいきなり姿を眩まし、病院に姿を見せた翌日から店に出て来ていないという。 「それでまあ、以前ちょっとだけここにいた僕に、声が掛かったってわけなんだ」 アパートも引き払い、どこに行ってしまったのかまるで見当つかないらしい。 ――どうしたんだろう? そう思いつつも、翔太にとってはそれほど大きな変化じゃなかった。 ところがこんなことはまだ序の口で、本当の事件はそれから三日後に姿を見せた。 「天野さん、だよね。天野翔太さん……」 アパートの前に停まっていた車から、突然そんな声が翔太に掛かった。 立ち止まった彼の前に、ドアが開いて、いかにもって感じの男が現れる。 「ちょっと、お話いいですかね?」 身長こそ翔太より低いが、それ以上にがたい≠フ良さが際立つ男がそう続けた瞬間、彼の脳裏に浮かび上がったのは山代のことだった。 ――やっぱり、借金のせいで!? となれば翔太も無視などできない。だから言われた通りに車に乗り込み、それでも所詮他人事だ……という、どこか安心している自分がいたのだ。 ところがまるでそうじゃなく、翔太はまさしく当事者だった。 「どうして……?」 ――どうしてだよ! 何度も何度も声にして、それ以上に心に強く問い掛けた。 「仕方がねえよなあ……実の親父だっていうんだからよ。ここはまあ一発、素直に払っちゃくれまいかねえ〜」 何が何だかわからなかった。 ただ少なくとも、どうしてこうなったかだけはすぐに理解できたのだ。 「山代の野郎がさ、雲隠れしやがったのよ。まあ、見つけようと思えば見つけられるさ。でもよ、人手も時間もかかるだろ? それにさ、ありゃあ、どうしようもねえやつだからよ、いつおっちんじゃう≠ゥもわからんし、まあさ、あんたの方が若いしね、真面目そうだから、確実だってことなのよ……」 「借金って……いくら、なんですか? それに、どうして山代さんが……?」 「まあよ、その辺はさ、これからじっくり教えてやるから……」 それ以降は、何を聞いても男は黙ったままだった。 そうして古びたビルに連れ込まれ、金融業者らしい会社の一室で説明を聞いた。 それでもワケがわからなかった。 どうして自分が払わなきゃならない? 何度もそんな自問自答を繰り返し、それでも結局、翔太は念書にサインした。 「まあよ、どうしようもねえ野郎だがさ、それでもアイツがいなかったらよ、あんただってこの世に生まれてねえんだから、ま、そこんところでさ、よろしく頼むよ」 それが、男の発した最後のセリフで、翔太も実際おんなじことを考えていた。 子供の頃、ずっと思い続けていた父親が、やっと目の前に現れた。 残念ながら消え失せて、さらに借金まで押し付けられたが、それでも生きていたってことには変わりない。 山代はきっと、アパートで何かを見つけて知ったのだ。 母親が死んで施設に移った時に、母の持っていた母子手帳と二冊のアルバム、そしてほんの少しの身の回りのものだけ持ってアパートを出た。 だからきっと、母子手帳かアルバムだ。 どっちを見たって気付くだろうし、だから病室に現れた時、どうにも様子が変だった。 ――だからって、どうして借金ってことになるんだよ! 「天野由美子ってさ、あんたの母ちゃんだろ? その天野由美子って女とさ、あの山代との間に生まれたのがあんた、天野翔太くんって、ワケなんだよ……」 そう言って差し出された白黒写真に、母、由美子だろう若い女性と、やっぱり若々しい山代の姿が写っていた。二人は頬をピタッと寄せ合って、どう見たって恋人同士だって感じに見える。 「だからよ、グダグダ言わずに、念書にサインしてくださいよ」 月々利息分の十万円を返済し、元本についてはある時払いでいいとある。 それではいったい、返し終わるのはいつ頃になるのか? そんな疑問を心で幾度も唱えつつ、翔太は男の事務所を後にした。 それから地獄のような生活が始まった。 利息分だけの返済じゃ、いつまで経っても借金は減らない。だから月に三十万は返そうと、翔太は朝から晩まで死に物狂いで働いたのだ。 朝早くから工事現場で動き回って、夜はこれまで通り「DEZOLVE」でも働いた。 日に日に体重が減っていき、ただでさえ細かった身体がますます枯れ木≠フように削られていく。さらに元々、たまに痛むことのあった胃が、こうなって毎日のように翔太のことを苦しめた。 決まってだいたい夜明け近く、眠りに就いて数時間が経った頃だ。 胃がチクチクと痛み出し、どうしたって目が覚める。そんなのはすぐには治まってくれず、眠るのを諦め、起きてしまうことも多かった。 そんな日が週に何度もあって、次第にそんな睡眠不足にも慣れていく。 そうして三年近くが経った頃、そんな生活を捨て去る時がやってきた。
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