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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第6回   第1章  1963年 プラスマイナス0 - すべての始まり 〜 4 一条八重
 4 一条八重

「おいフナ! バカ言ってんじゃねえぞ、一条八重みたいな有名人が、どうしてこんなところをプラプラ歩いてるんだ? それも一人でだって!? あり得ねえって、そんなことよ!」
 いきなり強面が立ち上がり、隣に座る男の顔を覗き込むように睨みつけた。すると同じテーブルを囲む何人かも、神妙な顔つきで頷いて見せる。
 そこは、児玉剛志の両親の店で、その名も「児玉亭」というやきとり屋だ。
 昼は母、恵子が切り盛りする定食屋で、昼頃から起き出してくる父、正一が、夕方から営業を始めるやきとり屋の担当だった。
 昭和三十年代に増え始めた大衆やきとり屋は、当時まだまだ貧乏だったサラリーマンにとっての憩いの場となっていた。そんな中、正一も、当時やきとん≠ニ呼ばれていた牛や豚の内臓だけでなく、いち早く普及したての食肉用ブロイラーの鶏を使い始める。
 そんなこともあって、彼の店はあっという間に人気店となった。そこそこ遠方から食べに来る客だっていて、店にはいつも、宵の口から赤い顔をした輩がいたのだった。
 ただしそんな時間から訪れるのは、だいたいがご近所に住む顔見知りだ。
 定年退職して暇を持て余している者から、連れ合いに任せっきりでいる酒屋の主人など、夜も更ければ更けるほどに店内は賑やかになる。そんなご近所さん五人が肩寄せ合って、やはり宵の口から四人掛けテーブルを囲んでいた。そしてそのうちの一人、「フナ」と呼ばれているサラリーマンが、ふと、独り言のように呟いたのだ。
「そういや僕、一条八重を見ちゃったんだ。丘本町の急坂あるでしょ、あそこを上り切った辺りをさ、彼女たった一人で歩いてんだ……」
 そう言って、彼は串に残った最後のひと欠片を、名残惜しそうに口の中に放り込んだ。
「あ、俺もちょっと前に見たことがある。最初はエッと思ってさ、でも、あれは絶対、一条八重だったな。俺ン時はさ……砧南公園辺りのバス停に、たった一人で立ってたのよ。あれはやっぱり彼女、バスを待ってたのかなあ?」
 フナの唐突な呟きに、真っ先に反応したのが「スーさん」こと鈴木尚志だ。年齢どころか、普段仕事をしているのかいないのか、いつもだいたい日暮れ頃には現れる。そんな彼の発言に、強烈なリアクションをしたのが「アブさん」と呼ばれている強面の男。
 頭をカミソリできれいに剃り上げ、一見すると堅気には見えない。ところが戦前まではこれでも、銀幕にしょっちゅう登場する売れっ子スターだったらしい。
身長こそそう高くはないが、昔は痩せていて当然髪だってふさふさだ。とにかく女という女にモテまくっていたんだと、彼は何かにつけてよく自慢する。
 そんな彼がまさに突然、一条八重の話に吠えまくった。
「あの一条八重がな、それもたった一人で、こんなところを歩いているはずないだろうが!」
「でもさ、近くに映画の撮影所があるじゃん……もしかしたらそこに……」
「てめえこの野郎! まだそんなこと言いやがるか!?」
「こらこらアブさん、やめなって! スーさんもさ、アブさんが一条八重の大ファンだって知ってるでしょ? アブさんはね、自分が会ったことないのに、二人がこの辺で見かけたなんて言うもんだから、そう言ってるだけなんだって……だからもういいじゃない! もしかしたら、他人の空似ってことかもしれないしさ……」
 こう言ってきたのが彼でなければ、そこそこ酔いの回ったアブさんは、とことん言い返していたに違いない。しかしいつもこんなシーンで、彼はフッと割って入ってその場を収めてしまうのだ。
「さあ、もう一回、今宵にみんなで乾杯しよう!」
 そう言って焼酎グラスを掲げたのは、この中で一番の年長者である「エビちゃん」だ。
 彼はいつでもニコニコ顔で、いざという時不思議なくらいに頼りになる。それがどうして一人だけ、この面子の中でちゃん&tけなのか? それはきっと彼独特の雰囲気と、幼なじみである酒屋の「ムラさん」がそう呼んでいたことによるのだろう。
 とにかく彼の一言で、一条八重の話はそこで一気にたち切れとなった。
 ところが店の裏手にある階段で、五人の会話に聞き入っている者たちがいた。部屋から出てきたばかりの剛志と智子で、階段途中でいきなり「一条八重」と聞こえてくる。その場で智子が立ち止まり、剛志も一緒に聞き耳を立てた。
 そうして十数秒、再び歩き出そうとした智子の耳に、またまた聞き捨てならない名前が飛び込んだのだ。
「そういやさ、伊藤ってヤツ知ってるか? 一年くらい前に、俺んとこのアパートの二階に引っ越してきたんだけどよ、とにかく馬鹿みたいに背が高くてヒョロッとしやがって、なんとも挙動不審な野郎なんだ」
 乾杯のグラスをテーブルに置くなり、アブさんが開口一番そんなことを口にした。
「あ、俺知っている。一時桐島さんところに居候してた人でしょ? うちはあそこによくビール届けるし、最近あの人、うちにウイスキーを買いにくるからね。でもまあ、この辺で知らない人なんていないんじゃない? ありゃあ、あまりにデカすぎるもん……」
 酒屋のムラさんはそう返した後、記憶喪失で発見されたなんてことまで話して聞かせる。すると急にアブさんが、妙に不審げな顔つきになった。
「記憶喪失? そりゃあねえな……あいつ、絶対に何か隠してるぜ。だいたいな、記憶喪失だっていうヤツが、どうして外国の言葉は覚えてるんだよ。それにな……」
 あいつはしょっちゅう、おかしな行動をするんだと言って、
「まあよ、毎日じゃないんだけど、あいつ夕方になるとな、丘向こうにある林の中に入っていくんだ。偶然一回入るところ見かけてさ……だけどいいか? それ以降、何度か後を尾けたんだけどよ、あいつ、俺が後ろにいるってのに気づくと、急に違う方向に歩き始める。とにかく用心深くてよ、しょっちゅう後ろを振り返るから、どうにもすぐに見つかっちまうんだ。まあさ、それだけ、何かヤバいことを企んでるっつうハナシだわな……」
 何日かに一度、夕方になるとアパートの二階から、伊藤が出かけていく物音が聞こえる。
「つまりな……あいつはあの林に、ヤバいもん隠してやがるに違いないぜ!」
 となれば、記憶喪失であるはずないし、だいたい暗くなってから、あんな林に向かうなんてのは怪しすぎる! と、決めつけた。
「まさかあれかな……逃げて、きたとか?」
「スーさん、それって、まさかの監獄?」
「フナ、そうそう、それでさ、林にね、埋めてあんのよ。だから、心配で心配でさ」
「……ってことは、その人って、殺人犯!?」
 ――ちょっと! 胡子さんまで、何いい加減なこと言ってるのよ!
 あともう少しでそう言って、そこから飛び出してしまいそうだった。
 しかしそこはグッと堪えて、残り三段の階段を智子は一気に飛び下りた。

「きっとさ、実家とかが、この辺にあるんじゃないのかな?」
「それはないの! 本人がラジオで言ってるんだから。東京の空襲で、家も何もかも失ったってね……だから、そんなこと絶対にないわ」
 一条八重のような有名人が、どうしてこんな東京の外れを歩いていたか?
 表に出た途端の問いかけに、剛志は思ったままを素直に返した。ところが智子は速攻剛志の意見を吐き捨てる。
「とにかくね、あんな有名人が一人で出歩くなんておかしいわ! それに剛志くんは知らないらしいけど、今、週刊誌とか、一条八重のことで大騒ぎなんだから……」
 さらにそう言った後、何も、知らないのね――そんな感じで剛志の顔を睨みつけた。
 一条八重……当然本名ではないだろうが、智子は占い師である彼女の大ファンなのだ。
 戦後、間もなく発生した福井地震を予言して、一条八重は見事に的中させている。そこから新聞や雑誌にエッセイなどが連載されて、女性を中心にみるみる人気が出たのだった。さらにテレビが普及し始めると、彼女の美しさに男性ファンも一気に増える。
 実際に、地震以外でも彼女の予言はけっこう当たった。
 テレビは一家に一台になって、総天然色のテレビだっていずれ夢ではなくなっている。
 ただの白黒テレビ一台が、会社員年収の何倍もする時代に、ラジオでのそんな発言を信じる者などいなかった。ただ、そんな時代がくればどんなにいいかと、人々は彼女の話を夢物語として楽しんだのだ。
 ところが智子が中学に上がる頃には、そんなのが現実として想像できるようになる。
 もともと彼女の話題は生活に根ざしたものばかりで、女性はこぞって八重のラジオに夢中になった。もちろん智子も同様だ。女性誌に一条八重が掲載されれば、何を差し置いても貸本屋≠ノ駆けつける。親に見つからないよう雑誌をソッと持ち帰り、彼女のページを、目を皿のようにして読み返した。そうしていつしか、八重が身につけているような洋服を、自分の手で作ってみたいと考えるようになっていた。
 ところがここ数年、一条八重の露出が激減。人気が衰えたわけではけっしてない。
なのに長年続いたラジオ番組が終了し、テレビや雑誌にも滅多に出てこなくなる。さらに昭和三十八年を迎えてからは、彼女の姿はメディアから完全に消え去ってしまった。
 一条八重は、いったいどこに消えたのか!?
 世間はそんな話題で大騒ぎだと、剛志は智子に聞いて初めて知った。
「まあ、週刊誌がいくら騒いだっていいけど、あんないい年した男どもがさ、わざわざ話題にする話じゃねえよな。まったく、毎晩毎晩、飽きもせず飲んだくれてさ、あんなのが支払った金で暮らしてると思うと、ホント俺、心底嫌になっちゃうぜ……」
「どうして? みんないい人ばかりじゃない。それに、剛志くんだってお店継ぐ気なんでしょ? だったら、剛志くんにとっても、大事なお客さんだってことになるわ……」
 ――ね、そうでしょ?
 という顔を剛志の眼前に突き出してから、智子はさっさと彼の前を歩き出してしまった。
 ずいぶん前から、剛志は店の常連客をなぜか相当嫌っている。どうしてそうなったのか? 智子も尋ねたことはあるのだが、はっきりした理由を教えてくれない。
 実のところ、彼は父親のこともよくは思っていないのだ。もしかしたらそんな感情が勢い余って、正一が大事にしている客にまで及んでいるのかもしれなかった。
 剛志はその日、結局智子を家の前まで送っていった。
 そして彼の背中を見送って、智子が玄関扉を開けた途端だ。
「あら、ちょうどよかったわあ〜」
 なんて声が目の前から響いて、見れば母、佐智が何かを抱えて立っている。
「はい、そのまま、これをお願いね」
 佐智はたったそれだけ言って、手にしていたものを智子に向けて差し出した。
 それはきっと、野菜盛りだくさんの焼きそばか? あるいはもうすぐひな祭りだから、
 ――普段よりちょっとだけ豪勢な、ちらし寿司、ってとこかしら?
 なんてことを一瞬だけ思う。しかし風呂敷で包まれた大皿からは、少なくともソースの香りは感じられない。ただ、どっちにせよだ。
 ――はいはい、わかりましたよ。
 こんなリアクションを思った頃には、佐智は長い廊下の先にいる。
となれば、たった今上ったばかりの急坂を下って、今から伊藤のアパートまで行かねばならない。そしてもしもその途中、急坂を下らずにまっすぐ行けば、児玉亭で話題になっていた林へ続く道に出る。
 もちろん伊藤が脱獄犯で、死体が埋まっているなんてまるで信じていなかった。
それでも彼については当初から、何かにつけて不思議に思うことが多かったのだ。
 ――本当に、いったい何をしていた人なんだろう……?
 アパートに住み始めたばかりの頃などは、木造アパートがミシッと鳴っただけで死にそうな顔をする。前の通りをダンプカーが通ろうものなら、古いアパートはガタガタッと揺れて、彼は恐ろしさのあまり畳に這いつくばってしまうのだ。
 さらに面倒だったのは、理解に苦しむくらいの潔癖性だ。佐智がこしらえたコロッケや蒸かし芋などを、智子が新聞紙に包んで伊藤のところへ届けに行くと、
「君は、口に入れるものを、そんなものに包んで平気なのか?」
 どんな不潔な人物が、その新聞に触れていたかわからない――と嘆いて、まさに苦みばしった顔をした。一事が万事こんな感じで、最初は本当に驚くことが多かった。
 ――この人は、これまでどんな生活をしていたの?
 そんな疑問を抱え込んだまま、いきなり飛び込んだのが児玉亭でのあの話。
 もし本当に、記憶喪失というのが嘘だったら……?
 ――バカバカしい! ものすごい熱だったのよ!
 ――倒れちゃうくらいの状態で、嘘なんかつけるわけないじゃない!?
 一般常識を知らなかったり、一方で物知りだなんてとても演技とは思えない。嘘ならば、もっと上手いつき方があるはずだと納得し、智子はアパートの階段を勢いよく駆け上がったのだ。
 仕事中だからと迷惑顔の伊藤に構わず、それからズケズケ部屋の中にも入り込む。
「ねえ、伊藤さん、最近さ、丘向こうにある林に行ったりするの?」
 そんなことを言いながら、立ったままの伊藤に風呂敷包みを突き出した。
 それから埃一つない畳にさっさと腰を下ろして、
「ほら、急坂上がって右にずっと行くとさ、あるじゃない? 木がいっぱい生えてて、ちょっとした森みたいなところ。あんなところに、伊藤さん行ったりしないよねぇ〜」
 真剣な顔を伊藤に向けて、智子はそんな質問を投げかける。
 すると伊藤はチラッとだけ視線を合わせ、小さくコクンと頷いた。
「そうだよねぇ、でもさ、見たって人がいるのよ。だいたいさ、伊藤さんみたいに背のおっきい人そうそういないわ。だから普通は、見間違えたりしないと思うのよ……」
 そんな言葉に、「だからなんだ?」なんて顔をして、伊藤はいきなりソッポを向いた。
 政治や経済の話は楽しそうにするくせに、こんな場面ではいつも決まって口が重い。ところが彼はこの日に限って、別人のようにいろんなことを話し出すのだ。
「もしかして伊藤さん、もしかしてよ……人に知られたくないような何かを、あの林に隠してたりなんかする?」
 冗談っぽい感じでそう言って、智子が伊藤の顔を覗き込もうとした時だった。
 あらぬ方を向いていた彼が、いきなり智子の方を振り向いた。それからさっさと智子の前に腰を下ろし、薄ら笑いを浮かべて言ってくる。
「そう言えば、智子は知ってるのか? 今度のオリンピックが中止になっちゃうって」
 まるで見当違いなそんな話に、智子は思わず飛び上がるくらいに驚いた。
「ちょっと待ってよ! 伊藤さん! それってホントのことなの?」
 智子がびっくりするのも無理はない。
 1940年、昭和十五年開催予定だった東京オリンピックは、支那事変の影響で1938年の七月に中止と決まった。それから二十五年後、一度は完膚なきまでに破壊し尽くされた東京で、再びオリンピックが開かれようとしているのだ。
 翌年、1964年に開催予定である祭典は、まさしく日本人の悲願であり、有色人種国家として初めての開催となるはずだった。勇蔵からもさんざんそんな話を聞かされていたし、そうでなくても夢にまで見たオリンピックだ。それが突然中止と聞いて、あまりのショックに目頭までが熱くなる。そんな様子に、伊藤が慌てるようにさらに言った。
「おいおい大丈夫だよ、智子ならさ、次のオリンピックだって観ることができるから」
 ――なんで、そんなことが言えるのよ!
 とっさにそんな台詞が頭に浮かんだ。が、それを口にする前に伊藤の言葉がさらに続いた。
「まあ残念だけど、とにかく今年の七月にね、今度のオリンピックは中止が決定する。だけど智子の年齢なら、あと二回は東京でのオリンピックが観られるはずさ。日本ではその後も二回開かれるけど、それはさすがに、生きて目にするのは難しいだろうな……」
 智子が死んだ後のオリンピックは、二回とも東京開催ではないんだと彼は言った。
 その頃には驚くようなスピード列車が日本中を結んでいて、資金の問題などもひっくるめ、東京でなければならない理由はなくなっている。そんなことを話す彼は笑顔だったが、果たして冗談を言っているようにはまるで見えない。
 ただとにかく、あまりに突飛な話で何がなんだかわからなかった。
 だからそんな気持ちを素直に声にしよう思ったのだ。
 ――ちょっと、いったい何を言ってるの?
 まさにそう言いかけた時、伊藤の顔つきが一気に変わった。
 それまでの雰囲気を消し去って、真剣そのものといった表情になる。そうしてその時、伊藤は口元に人差し指を当てながら、いかにもといった感じで静かな声を出したのだった。
「いいかい……今から言うことは、けっして誰にも言っちゃいけないよ……」


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