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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第55回   第8章  1945年 マイナス18 - 始まりの18年前 〜 4 生き抜く
4 生き抜く



もともと、労働者向けの簡易旅館だったところが、戦後次々と連れ込み旅館に変わっていた。
 宿泊なら一日一回転だ。ところが連れ込み旅館にすれば、一日に何回転もしてくれる。
そんな旅館を、空襲によって家を焼かれた夫婦ものや、未婚のカップルたちがこぞって利用したのだった。
もちろん商売女が利用することも多かった。表では実際不衛生だし、特に夏場は大事なところが蚊に刺されたりして具合が悪い。
 彼女も必ず連れ込みを利用して、表を望む客は断るよう決めていた。
 そしてある日、運命というべき偶然が起きる。以前よりさらに太っていたが、それはあの日、マシンの中で見かけたもんぺ姿≠フ女だった。
 相手は智子を覚えておらず、いきなり彼女に向かって言ってきた。
「ちょっと新人さんさ……、そんなところに立たれてちゃ、こっちがやりにくくてしょうがないだろう。さっさとさ、違う場所にいってやっておくれよ!」
 そう言って、睨みつけてくる女の手首に、智子のしていた時計が巻かれているのだ。
しかし智子の方も腕時計どころか、女とのことだって覚えていない。だから単なる商売敵で、すぐに忘れてしまうような存在だった。
 ところが女が突然死んだ。まさに声をかけられた夜のことだ。
ともえ≠ニいう名で通っていた女は、いつものように人気のないところで商売をして、金を払おうとしない客と言い争いになった。致命傷は、銃による後頭部への一発。その銃弾からして、犯人が日本人である可能性は少ない。
となればこの時代、それは犯人などいないと同じことだ。
 彼女はつい宿代をケチったか――単に時間が惜しかっただけかもしれないが――とにかく、そのせいで見事なまでの犬死にとなっていた。
 ――人通りのない裏路地で、商売なんかするからだ。
 そんな目に遭わないためにも、智子は絶対外でのことをしなかった。そして優しそうな目をした日本人≠セけを選んで、いつも同じ連れ込み旅館でと決めている。
 そうすると旅館の従業員――と言っても、年老いた両親と、行き遅れたその娘だけ――とも親しくなるし、日本人に関してならば、室内では滅多に変なことはしてこない。
 今日も人の良さそうな男に声をかけ、智子はいつもの旅館の二階にいた。
「どうして……君みたいな子が、こんなことをしてるんだ?」
 そして新聞社に勤めているという初めての客が、真面目な顔してそんなことを智子に聞いた。
 実際のところ、こんな感じを言ってくる客はけっこういて、
「することしといて何言ってるの? こんな時代に身寄りもなければ、こうでもしないと生きていけないの。新聞記者なら、それくらいのことわかるでしょ」
 いつもこんな感じに言い返すのだ。
 するとたいがいは押し黙って、そそくさと帰り支度を始めるか、「心配してやってるんじゃないか!」なんて大声を出しつつも、だからどうしてくれるとは決して言わない。
 ところがこの男はそうじゃなかった。
「そんなことはないよ。いくらにもならないかもしれないが、住み込みの女中とか、君くらい可愛かったら、他にだっていくらでも仕事はあるさ」
「いくらにもならないんじゃ困るのよ。できるだけ早く、たくさん稼ぎたいからこうしてるんでしょうよ」
 智子がそう返してすぐ、どうして? ――きっとそんな感じを言いかけたのだ。しかし理由を耳にする勇気がなかったか、男は一度口にしかけた言葉を呑み込んでいた。
 したくて、してるわけじゃない……。
 一度だけ、以前こう叫んで客を驚かせたことがある。
それはこの商売を始めたばかりの頃で、娘を手放してそう経っていない頃だった。 
 友子が生まれてしばらくは、大家さんもいろいろ助けてくれた。だから大変ながらも順調と言えば順調で、こんな日々がずっと続くと思っていたのだ。ところが友一の失踪から一年ほどが経った頃、後家となっていた大家のばあさんが突然亡くなる。
 すると母屋から貸家までが売りに出され、智子はすぐにも出ていかねばならなくなった。
 それからも、様々なことが彼女の身の上に降りかかる。アパートの世話を頼んだ男が消え失せて、預けた金は一銭たりとも返ってこない。残った金もあっという間にスリにやられて、気づいた時にはスッカラカンだ。結果、すべてを失い、家もなければ頼っていい人もない。
 そんな状態でこれからどうやって生きて行こうか……。いっそ、友子と死んでしまおう、などと思いながら、智子が多摩川の土手道をトボトボ歩いていた時だった。
いきなりドンパチに巻き込まれ、ひょんなことからヤクザの死に際に立ち会うことになっていた。男は持ち合わせた金を智子に預け、河原の上で一人静かに生き絶える。
 ――俺の分まで……生き抜いて、くれ……。
 最期の言葉がこれだった。
こんな言葉を耳にして、ふと、友一の言葉が聞こえた気がした。
 ――だから君には、これからもずっと生き抜いて、俺の分までちゃんと、日本の未来を見届けてほしいんだ。
 俺の分まで……。そんな声が蘇った途端、智子の中で何かが大きく変化した。
 ――何もわからないまま死ぬなんて、冗談じゃないわ!
 次々と、そんな思いが溢れ出て、
 ――何をしたって、生き抜いてやる!
 地面に置かれた傘を手にして、もう一度男の亡骸に頭を下げた。
 ――トコトンお金を稼ぎまくって、友子と一緒に幸せになるんだ!
 力強くそう思い、智子は赤ん坊と一緒に土手に向かって歩き出した。
 きっと、この川は今度の台風で大荒れになる。
男の身体は海まで流れていくか? 途中どこかで浮かび上がって発見されるか? 
どちらにしてもその頃には、ほっそりして優しげな顔は変わり果てているだろう。そんなことを智子は思って、名井という男と出会えたことに心の底から感謝した。
 ――わたしはあなたの分まで、きっとこの時代で生き抜いてみせます。
 そう誓って、智子はその数日後、以前から知っていた孤児院に向かった。日の出とともに、友子を施設の玄関先に寝かせ、あとは逃げるようにただただ走った。
 とにかく身軽になって金を稼ぐ。金が貯まれば友子とだって暮らせるし、そのためにはなりふり構っていられない。そう考えて、智子はその夜から街に立った。

そうして月日は流れていくが、あの記憶≠フことだけはずっとわからないままだった。
 ところがそれから十数年経って、突然すべてを知ることになる。
 なぜ、昭和二十年という時代に自分はいたか?
 そんな事実を思い出す代わりに、智子はあまりに大切なものを失った。


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