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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第53回   第8章  1945年 マイナス18 - 始まりの18年前 ・ 2 昭和二十年 春
2 昭和二十年 春

 

――ここは、どこ?
 ふと、そう思って目を開けると、少なくとも林などではまったくない。
 ――ここは、病院……?
 一瞬そう思ったが、すぐにそこが病室ではなく、診察室のような部屋だと知った。
 すぐそばで、見知らぬ男が椅子に腰掛けている。首を窮屈そうに折り曲げながら、それでも平気で寝こけているのだ。声をかけようかと顔を上げると、正面の壁に貼られた不思議なものに目がいった。
『遂げよ聖戦 興せよ東亜』
『聖戦だ 己れ殺して 国生かせ』
 まるで書き初めで書いたかのように、壁にそんな文字の並んだ大判の和紙が貼られている。
 もちろん智子だって知っていた。『ぜいたくは敵だ』なんてのが一番ポピュラーで、『欲しがりません勝つまでは』も、ドラマのシーンなどでしょっちゅう見かけたものだった。
 ――だけど、どうして今さら……?
 智子は不思議に思いながら、しばらく壁に目を向けていた。
 すると眠っていたはずの男から、突然智子へ声がかかった。
「よかった! 目が覚めたんだね。すごい熱だったから、一時はどうなることかと思ったよ」
 それはなんとも明るい声で、嬉しそうな顔して智子のことを見つめている。驚きながらもそんな笑顔に、智子は少なからずの安堵感を覚えた。
 彼は仕事帰りに偶然、林の入り口に倒れている智子に気がついていた。慌てて彼女を抱きかかえ、親戚がやっていた診療所に担ぎ込む。その時一瞬、自宅へとも思ったが、万一大病なら対処のしようがわからない。さらにこの辺りのちょっとした病院は、どこも空襲でやられた患者でゴッタ返しているはずだった。
そんなことを知っていた彼は、すでに引退していた叔父に智子の診察を頼み込んだ。
 そうして担ぎ込まれてから二日目の午後、智子の熱は少しずつだが下がり始める。
「でも、もう大丈夫だ。熱はあと少しで平熱だそうだし、栄養つけて、あと二、三日寝ていれば、きっとすぐ元のように元気になるよ」
 そう言った後、男はなぜだか声のトーンを一気に落とし、
「あのさ、君の家もやっぱり、一昨日の空襲でやられちゃったのかい?」
 そう続けてから、フッと視線を外して横を向いた。
 正直この時、智子にはなんのことだかわからない。だからしばらく黙っていると、
「いや、いいんだ。余計なことを聞いて申し訳ない。そんなことより今は何より、元気になることが一番大事だ。よし、何か食べるものを持ってくるよ。とは言ってもさ、今どき、蒸かし芋くらいしかないだろうけど……」
 そう言って立ち上がり、彼はさっさとその部屋から出ていってしまった。
蒸かし芋≠ュらい……とは、いったいどういう意味なのか? 
確かに、小さい頃のおやつといえば、蒸かした芋は定番だ。しかしいくらなんでもこんな時、蒸かし芋ってのはやっぱり少し違うような気がする。
 ――それに、一昨日の空襲って……いったい、なんのこと言ってるの?
 戦時中じゃあるまいし、などと、智子は素直にそんなことを思っていた。
 だいたい、どうしてこうなっているかがわからない。ここに連れて来られる前、自分が何をしていたのかまるで覚えていなかった。
それでも家がどこにあって、自分が誰なのかはわかっていたから、これは熱による一時的な状態。いずれすぐに治ると思って、そう心配はしていなかった。
 ところが翌日、男に付き添ってもらって自宅に向かってみると、そこに記憶にある家がない。
 草ぼうぼうの野っ原だけがあって、さらにさらに、見知らぬ風景ばかりが辺り一面広がっている。
 ――どういうことなの?
 当然の混乱が彼女を襲い、続いて涙が一気に溢れ出した。
「どうしてなの……家が、ないわ。ここに、わたしの家が、あったのに……」
 心で思うすべてが言葉となって、思わずその場にしゃがみ込んだ。そんな姿を見てやっと、記憶喪失なのかと男は思う。そっと彼女の背中に手を置いて、静かな声でポツリと言った。
「あのさ、君は、どこまで覚えてる?」
 そんなことを言われて、智子も必死に考えるのだ。
ところが不思議なくらいに、どうして倒れていたかが出てこない。だから困った顔して男を見つめ、なんとかひと言声にした。
「どこまで……って」
「あのさ、じゃあ今が昭和何年で、何月だかって君にはわかる?」
 今は昭和二十年で、東京大空襲から六日しか経っていない。そう男から告げられ、智子の混乱は最高潮に達した。自分は戦後の生まれで、昭和三十八年を生きる高校生だ――と、すぐ声高に訴えるべきか? そう思いながらも、
 ――もしかして、わたしの方がおかしいってこと?
 なんて不安を拭きれない。さらに姓名を尋ねられ、下の名前しか出てこなかった。
 自分の住んでいた家のことや、高校に通っていた記憶なんかはちゃんとある。きっとこのままテストを受ければ、そこそこの点数だって取れるような気がした。
なのに、肝心の苗字が出てこない。
こうなる前の記憶が消え失せ、両親や友達の顔もまるで覚えていなかった。そんな大事なことを忘れて、大化の改新がどうだなんてことだけ知っている。
 頭を打つか何かしたか、それとも高熱のせいなのか?
 とにかく何がどうだったとしても、これからだって生きなきゃならない。
 幸い男の実家は裕福で、父親は代議士、彼自身は弁護士という名家だった。当然住まいはかなり大きく、ちょうど家政婦が一人辞めたからと言って、
「もし、よかったらだけど……記憶がちゃんと戻って、帰る家が見つかるまでの間だけでも、うちに来て、住み込みで働かないか?」
 呆然と野っ原を見つめる智子へ、男はかなり遠慮気味にそんなことを告げたのだった。
 そうして大きな不安を抱えながらも、智子はそんな申し出を受け入れた。
 それでも幸い、掃除や洗濯は嫌いじゃなかった。そんな記憶だけはちゃんとあって、さらにいざ働いてみると、女中という響きから連想するほど、辛い≠ニいうこともほとんどない。
 ただ、風呂焚きだけは別だった。
石炭を燃やして沸かす水管式のボイラーなのに、肝心の石炭が貴重品だから薪だけで沸かすのだ。そうなると、しょっちゅう火の具合を見に行かなければならないし、当然食事の用意だってあるからそれはもう大忙しだ。
 最初のひと月はあっという間に過ぎ去って、あと数日でまる二ヶ月という頃だった。
 夕方から急に雨が降り出し、智子は男のために駅まで傘を届けることになった。
言われた通り駅に着くと、彼はすでに改札口に立っている。ところが智子が駆け寄るなり、突然コーヒーを飲んで帰ろうと言い出した。それから駅前通りにあるカフェ目指して、自分だけさっさと歩き出してしまうのだ。
 本当ならすぐに帰って、もう一人の家政婦と夕食の準備に取りかからねばならない。
それでもコーヒーなんてずいぶん久しぶりだったから、
 ――一杯だけ飲むくらいなら、きっと大丈夫よね……?
 そんなふうに思って、智子は慌てて男の後ろについていった。
 そうしてカフェで待ち受けていたのは、あまりに予想外の展開だ。
「結婚して、もらえないか?」
 なんの前触れもなくそう言って、あとは智子の顔を穴のあくほど見つめている。
 だいたい智子は十八歳にもなってない。なのに二十八歳からプロポーズされて、それも知り合ってまだ数ヶ月というのにだ。
 ただ、彼のそんな気持ちに、これまでまったく気づかなかったというわけじゃない。
好かれてる? くらいはなんとなくだが感じていたのだ。しかし十歳以上の年の差だ。まさかこんなことになるとは夢にも思っていなかった。
 聞けばこの時代、十五歳になれば結婚自体はできるらしい。
 だからと言って、智子の感覚では結婚なんて遠い未来のお話だ。
「少し、考えさせてください」
 もちろん受ける気などなかったが、まずはそう返しておくのがベストだろうという気がした。
ただの気まぐれだってこともあるし、明日になれば気が変わっているかもしれない。
 ――だいたい、あの母親がこんな結婚を許すんだろうか?
 そんなことまでを考えて、とりあえず断ることはしなかった。
ところがそんな心配が、予想もしない形で智子自身に降りかかる。
その翌朝、彼が仕事に出かけてすぐのことだ。智子は彼の母親に呼び出され、呆気なくクビを言い渡される。
どこの馬の骨とも知れない女を、息子の嫁にするなんてとんでもない。
 一言で言えばそんな理由で、智子がたぶらかしたと言わんばかりの言い方だ。もちろんそんな気はないと必死になって説明するが、到底ちゃんとなど聞いてはくれない。
 剣幕は最後の最後まで収まらず、
「今後一切、息子に近づかないでいただきます!」
 こんな言葉をピシッと放ち、さっさと部屋から出ていってしまった。
そうして入れ代わりに執事が現れ、打って変わって優しい声で言ってくる。
「どちらか、ご希望の場所はございますか?」
 向かう先があるかと聞かれて、そんなところあるわけない。だから首を一回左右に振って、ゆっくりその場で立ち上がった。
その後すぐに車に乗せられ、執事の運転でさらに郊外へ連れていかれる。二時間ほど走って小さな駅前で降ろされて、執事はご丁寧に駅のホームにまでついてきた。
 遠くに行くのを見届けろと、きっと言われているのだろう。智子がホームのベンチに腰掛けると、執事はそこで初めて笑顔を見せて、小さな封筒を彼女に向けて差し出した。智子がそれを受け取ると、彼は深々と頭を下げて、無言のままそのホームから立ち去った。
 封筒の中を覗き込むと、汚れひとつない百円札が入っている。抜き出して数えれば十枚もあって、ハガキ一枚が五銭で買えるんだからそれはもう大金だ。
 智子は最初、今回のことは母親の独断だと思っていたのだ。プロポーズしたと彼から聞いて、帰宅する前に追い出してしまおうと考えた。ところがこんなものが出てくるからには、彼も反対を受け入れたのかもしれない。
ただ、そうであればそれでいいのだ。どちらにしても結果は同じ。
 ある意味これは智子にとって、都合のいい結末だったと言えるだろう。
 ――勇蔵≠ウん、ありがとう。
 何がどうあれ、彼のおかげでこの時代に慣れることができた。彼の家でのふた月がなければ、一人で生きていこうなどと思えなかったに違いない。
 彼ならきっと、わたしなんかより相応しい女性に――もちろんそれは、年齢的なところが大きいのだが――巡り会えるに決まっている。と、心の底からそう思って、勇蔵≠ヨの感謝を心の中で呟いた。
 そしてこれからは、桐島家≠ナの経験を頼りに、たった一人で生きていかねばならない。さらにどうして、自分は記憶を失くし、あんなところに倒れていたのか?
 ――きっとあの場所で、わたしに何かあったんだわ!
 智子は強くそう思って、ホームのベンチから勢いよく立ち上がった。
 ――やっぱり、東京に戻ろう。
 そう決心すると同時に、彼の母親の顔が脳裏にくっきり浮かび上がる。
 ――結局、勇蔵≠ウんに会わなければ、それでいいんでしょ?
 万一会ってしまっても、智子には話したいことなんて一切ない。
 ――なんなら、走って逃げちゃえばいいのよ。
 智子はさっさとそう決めて、急ぎ足で反対側のホーム目指して歩き出した。


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