4 八年前の、あの日
「どうも、大変ご無沙汰しております。わたしのこと、覚えていらっしゃいますか?」 平成二十一年、今から八年くらい前、男は間違いなく、ドアフォンを通してこう言った。 剛志自身、どこかで会ったような気はするのだ。ところが玄関に立つ男を眺めても、具体的なことは何も浮かんで来なかった。それでもとにかく……、 「今日は、岩倉節子さんのご依頼で参りました」 そう言ってきた男を、剛志に追い返すことなどできやしない。 男は黒いスーツを着込み、今どき珍しい中折れのマニッシュ帽を手にしている。もちろんそんなのがセールスマンのわけないし、ならばいったい? ――節子の依頼ってなんだ? それにこいつは、何者だ? 遠慮ないそんな視線に男もようやく気づいたようで、リビングのソファーに座るや否や、 「この名刺をご覧になっても、すぐにはおわかりにならないと思います。なんと言っても、もうずいぶん昔のことですから……」 少し慌てたようにこう言って、一枚の名刺を剛志の前に差し出した。 ――弁護士 石川英輔 神仙総合法律事務所。 そう記された名刺を見た瞬間、頭の後ろっ側がカアっと一気に熱くなった。 ――見たことがある! そう思うと同時に、思わず声になったのだ。 「じゃあ、あの時病院で……?」 病室にいた弁護士も、確かにずいぶん背が高かった。 「病院と言いますと、入院なさっていた時ですね。そうなんです。九年ぶりに目が覚めたという連絡が入って、その時にお邪魔したのが、弁護士、石川英輔本人になります。今から、もう四十年以上も前のことになりますから、もちろん、英輔はわたしではありません。実は、英輔はわたしの父でして……」 剛志はとっさに、高校生の頃、母親の病室に現れた弁護士を思い浮かべた。ところが男から返った答えは、明らかに剛志自身が入院していた時のことだ。 高校生の時に出会って、三十六歳で二十年前に戻ってから交通事故に遭った。それから九年近くを棒に振って、再び同じ人物と出会っていたということなのだ。 そしてさらに、過去に戻った彼が警察にいる時、嘘八百並べて救い出してくれたのも、目の前にいる男の父親だったということになる。 本当の石川英輔は十年前、七十四歳で亡くなっていた。息子である男も弁護士になって、父親の死後、そのまま事務所も継いだのだろう。もちろん継続中の仕事も引き継いで、その中に節子との契約もあったのだと彼は言った。ただ、残された書類だけでは全容が不明で、彼はそのことについて申し訳なさそうに剛志に告げた。 「何をしたのかについては、すべて父の残した記録があります。しかし、資格剥奪となるくらいの危険まで冒して、父がなぜこんな大それたことに付き合った……、いや、付き合ったはおかしいですね、十分すぎるお支払いはしていただいてますから。ただとにかく、わたくしどもはいきさつなどの詳しい事情を存じ上げません。だから逆に、もし、岩倉さまがご存じであるなら、ぜひ教えていただきたいと、わたくしどもも思っているんですが……」 どのような理由で依頼を受けるに至ったか、彼はまるで知らないと言って困った顔を見せるのだ。 さらに依頼主の夫、岩倉剛志はどうなのか? もしも何も聞かされていなかったなら? 節子の依頼と告げても門前払いとなるかもしれない。そう思った彼は、昔、父親が愛用していた帽子やスーツを引っ張り出した。 父親ほどではなかったが、幸い彼もかなりの長身だから……、 「すみません。父の生前には、周りから父の若い頃にそっくりだと言われたものでして……」 父、英輔であるフリをして、以前会っていると剛志に告げる。そうすれば、きっと何か思い出すだろうし、その上で依頼人の名を出せば、話くらいは聞くだろう。 そう考えた息子、英一の思い通りに、剛志は彼を家の中に招き入れた。 そうしてきっと、ここからが彼の本題なのだ。穏やかな感じがスッと消え、真剣な眼差しを向けてくる。 「事実だけを、申し上げればです。わたしの父は、節子さまからあまりに様々な依頼を受けていました。それは、児玉剛志という学生への資金援助の手配から、あなたに新しい戸籍を用意したり、入院している間の財産管理に至るまで、それらは実際、弁護士という職務からかけ離れたものも多い。なのに、なのにです。あの堅物だった父が、そんな依頼を断りもせずに、なぜかすべてを引き受けている。そうして父の死後、奥様からの依頼を引き継いだ時には、奥様はすでにご病気になられていて、わたくしがすべきことは、もう、あと二つしか残されていませんでした」 就職するまで続いた資金援助までが、実は節子からのものだった。 これはけっこうな衝撃で、その後の話がぜんぜん頭に入ってこない。 そんな昔から、節子は剛志のことを見続けていた。そしてさらに、なんということか……、この時代で授けられた名井という名も、節子が用意してくれたんだと彼は言う。 ――ということは、彼女は児玉剛志と、名井良明が同一人物だと知っていた? ならば高校生の剛志への援助から、入院していた彼に、自分から接近してきたことだって筋だけは通る。 ――だけど、いったいどうしてだ……? 節子こそが未来人で、剛志の行動をずっと前から見張っていた。そう考えれば何から何まで納得できるが、そうだったなら、彼女の話した昔話はなんなのか? ――施設に置いてきたっていう子供のことは、ぜんぶがぜんぶ作り話か? ――ちょっと待て、それじゃあ一条八重だったって、あの話はどうなんだ? あっという間にここまで思って、思わず剛志は石川の顔を睨みつけた。 ところがそんな剛志を気にもせず、彼は背広の内ポケットから何かを取り出し、妙にゆっくりテーブルに置いた。 「これが、奥様からの遺言状です。基本、すべてご主人にお譲りになるということですが、今となってはもう、こんなもの必要ありませんよね。えっと、それからこっちが、やはり奥様が先にお亡くなりになった場合に、ご主人に渡してほしいとずいぶん昔に、奥様からわたくしの父がお預かりしていたものなのですが……」 実際には、節子は死んでなどいない。しかし剛志の年齢を考えてこうすることにしたと言い、彼は足元に置いてあった大きな革鞄を膝の上に置いた。 そしてそこから出てきたのが、初めて目にする節子の日記であったのだ。 「もし、お渡しできないままお亡くなりになった場合は、処分してほしいということでした。しかしこれでそうせずに済んで、わたしどももホッとしています」 そう言ってからは大した話もせずに、彼は程なくして帰っていった。 そうして剛志の前に、封筒が一つと、三冊の日記帳が残される。 剛志は最初、それがなんなのかをまるで知っていなかった。一番上に置かれていたのがボロボロの大学ノートで、まさかこれによって真実を教えられるとは想像すらしていない。 ところが表紙をめくった途端、剛志は一気にすべてを悟った。 どうしてこの名が? そう思うよりずっと早く、ストンとぜんぶが腑に落ちる。 ――桐島 智子。 途端に目に飛び込んだのは、鉛筆で書き込まれた桐島智子≠ニいう文字だった。 それはまるで、『わたしはここにいる』と訴えるように、上から下までやたらと大きく書かれていた。慌てて何ページかめくってみるが、あとは細かな文字が規則正しく並んでいる。 剛志は一旦ノートを閉じて、ただただそんな可能性について必死になって考えた。 節子の日記だと渡されたものに、桐島智子の名があった。彼女はその名を知らないはずだし、それにどうして、こんなに大きく書かねばならない? ――ならばやっぱり、節子は本当に、あの智子……だったのか? 十六歳だった智子が、知らぬ間に成長して剛志の前に現れていた。 さらに警察から彼を救い出し、名井という名と戸籍を与えてくれる。学生時代の資金援助や入院中のすべてだって、ぜんぶあの智子がやってくれたということだ。 ――そんなの嘘だ……ありえない! そう心で叫ぶたび、さっき目にした大きな文字が、脳裏にハッキリ浮かび上がった。 桐島智子。そう書かれていたのは間違いない。さらに次のページからの細かな文字も、節子のものと非常によく似ている気がした。 ――勘弁、してくれよ……。 この期に及んで、何をどうしたくてこんな事実が現れるのか? 智子は死んでいなかった。 それどころか、二度と会えないと思っていた彼女と、実はずっと一緒に暮らしていたのだ。 きっと天と地がひっくり返っても、到底今ある驚きには届かない。 しかし、だったらどうしてだ? 彼女はどうして、そうだと打ち明けてくれなかったのか……?? 智子であると知っていれば、記憶喪失だなんて嘘をつかずに済んでいたし、マシンのことだって、どうしたのかを尋ねることができたろう。 ――じゃあやっぱり、智子は過去に戻ったんだ……。 剛志が送り返したマシンに乗り込み、彼のいる時代よりさらに過去へと飛んだのだ。 ――じゃあ、あの太った女は? やっぱり智子じゃあなかったか? そしてあのデジタル時計も、確かに向こうの時代に行き着いていた。 ――で……? ならば、あのマシンはどこにいった? 少なくとも今、あの岩の上には何もない。さらに過去に送ったなら、運び出したりしない限りはここにあるはずだ。 ――ということは、あれを未来へ送ったのか? ――しかし、いったいなんのために? そんな疑問への回答も、きっとこのノートに書かれているのだろう。 ――だからあいつは、自分が先に死んだ場合、俺にこれを託そうとした……。 そんなことまで考えて、剛志はやっと、再びノートを開こうと思う。 ところがいざ手にしても、なかなか表紙がめくれない。 すべてが、勘違いであったなら……。 節子が智子だなんて思い違いで、まったく別の真実が現れ出るかもしれない。 そんな不安が膨れ上がり、ボロボロのノートをそのままゆっくり横に置いた。 それから残りを一冊ずつ手にとって……、 彼はそこで初めて、それらが日記帳であると知ったのだった。
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