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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第49回   第7章  2013年 プラス50 – 始まりから50年後 ・ 2 すべては、書庫と日記から……
2 すべては、書庫と日記から……


 平成二十一年、新しい世紀になって十年目。そして剛志が昭和三十八年にやって来て、四十六年後のことだった。
 本当に、時間を飛び越えたなんてことがあったのか?
 最近では、そんなことさえも疑わしく思える。それでも剛志の生まれたのは間違いなく昭和二十二年で、本当なら平成二十一年では還暦とちょっとのはずなのだ。
 それがすでに八十二歳になっていて、二歳年下の節子も今日が傘寿のお祝いだ。
 節子は年々硬直が進んで、最近では普通の車椅子にはなかなか座っていられない。だからリクライニング式の車椅子に乗せて、近所を散歩するのが毎日の日課になっていた。
 さらに天気のいい日や今日のような誕生日には、庭先にあるテラスで数時間を二人で過ごす。
そうすると、滅多に声を出さなくなった節子も、時折機嫌良さそうに声をあげた。
 庭園は綺麗に整備され、車椅子が通るための通路も新たに作った。畑だけは小さくなったが、それでも少しずつ、多種類の野菜を無農薬で栽培している。
そこで採れたものをミキサーやジューサーを使ってドロドロにして、毎日少しずつだが節子にも与えた。
 その日も彼女と一緒に散歩してから、節子のそばに座って昼間っからビールを始める。ほろ酔い気分で、車椅子の節子へ思いつくまま話すのだ。
 もちろん返事は返ってこない。それでもごくごくたまに、それらしい反応を見せることはあった。それは「あー」だったり「うー」だったりと、時折笑顔だって見せたりする。
 実際のところ、言葉に反応してかどうかなんてわかりゃしない。
 それでもそんな反応が嬉しくて、そうしている時間がついつい長くなっていた。
 テラスはリビングからすぐに出られて、この時間のために開閉式の屋根まで付けた。そこから庭園全体が見渡せて、もちろんあの岩だってしっかり見える。
 ここ十数年、意識して眺めることはなくなったが、それでも目に入ればいろんなことを思い出した。その時も、つい思った言葉が口に出て、それはもちろん節子に向けてものだった。
「なあ節子、あれは今頃、いったいどこの時代に向かってるんだろうなあ……?」
 マシンが現れるとすれば、それがいつであろうと岩の上には違いない。
今この瞬間に現れたって不思議じゃないし、過去に送られたなら、二度と目にすることはないだろう。そんなことをふと思い、ほんの気まぐれで剛志は疑問を口にした。
 ところがその時、節子がはっきり反応を見せる。
 あらぬ方を向いたまま、まるで怒声のような大声をあげた。
 ――どうしてお前、そんなことを言うんだ?
 剛志の言葉に、節子は確かに「違う」と訴えたのだ。
 しかしそもそも、節子がそれを知っているはずがない。だから彼女の眼前に顔を突き出し、
「おい節子、今なんて言った? 節子、もう一度言ってくれ、なあ節子……」
 もう一度声にしてほしいと、彼は何度も節子という名を口にする。ところが何を言っても無表情のまま……終いには眉間にシワを寄せ、剛志へ睨むような目を向けた。
 ――きっと、そう聞こえただけだ。だいたい、そんなことはありえない……。
 そう思いながらも、剛志は心の片隅で、節子が知っていた可能性について考えた。
 剛志はもともと、昔の記憶すべてを失ったということになっている。だから彼の方から昔話なんてするはずないし、もちろん日記の類はつけていない。
 ――だから、節子が知っているはずがない!
 再び、力強くそう思った時だ。
 頭の中でフッと突然、完全に忘れ去っていた記憶の一部が浮かび上がった。
「あ、わたし、日記書いてない……」
 節子が以前、ふとそう漏らしたことがあったのだ。
発症からけっこう経った頃で、剛志への言葉というより、心に浮かんだ気づきが声になったという感じだろう。
「へえ、節子、日記なんかつけてたんだ……」
 そう返すと、彼女はいきなり怒り出し、意味不明な言葉で何かを必死に訴えた。
 ――日記の存在を知られたと思って、それであんなに慌てたんだろうか……?
 ところがその頃すでに、節子は誤魔化す術など捨て去っている。
 ――だから、本当にそんなものがあるのなら、それさえ見れば……。
 そうすれば、さっきの意味がわかるはず。そう考えてからは早かった。
 ――節子、すまんが、日記を見せてくれ!
 そう思った時には、車椅子のストッパーを外していた。それから節子をベッドに寝かせて、馴染みの介護ヘルパーに電話をかける。調べ物があるからとお願いすると、幸い二つ返事で引き受けてくれた。
 本当は、ずっとついていなくても大丈夫なのだ。
しかし時折、農作業で何時間も庭に出てたりすると、戻った時に様子がおかしい時がある。泣いたような跡があったり、妙に興奮していたりする。きっと何かの拍子に、少しだけ我に返るのか? あるいは単に、一人でいたくないだけなのかもしれない。
ただそんなわけで最近は、長い間付いていられない時にはヘルパーを頼むようにしていた。
 節子は一度寝てしまえば、まず朝まで起きることはない。だから寝かしつけるまでをやって来たヘルパーに頼んで、彼は二階にある書庫へさっさと向かった。
「もしもね、わたしが先に死ぬようなことになったら、あなたはずいぶん暇になるでしょ? だからね、ぜひここにある本を片っ端から読んでほしいの。特にこの辺はね、わたしの絶対的なオススメよ!」
 そう言って笑う節子は、籍を入れた頃から何かにつけて剛志に言った。
「本を読まないってことはね、読んでる人より損をしてるのよ。いろんな人生を体験できるチャンスを、自分から放棄しちゃってるのと一緒なんだから」
 彼女の言う本とはビジネス本や実用書ではなくて、いわゆる小説全般のことだった。
 こうなる前は、テレビや映画などには興味を示さず、節子は暇さえあればここで本を読んでいた。一方剛志はここ五十年くらい、本一冊だって読みきったことがない。もちろん若い頃は違ったが、この時代に来てからというもの、一切その気にならないままだ。
 そうしていつしか節子の方も諦めて、あれがいいこれがいいと勧めることはなくなった。
 だから書庫は彼女の部屋そのもの。日記があるならここしかないと、彼は案外すぐに見つかるだろうなどと考えていた。ところがそうは問屋が卸さない。
四方を本に囲まれた二十畳のスペース中央に、ソファーが向かい合わせに置かれている。ちょっとしたテーブルもあったりして、いわゆる書斎と言ってもいいくらいの空間だ。
 しかしいざ来てみれば、日記を隠しておく場所がほとんどない。
 引き出しなんかはあっという間に調べ終わって、本棚の奥にもさんざん手を差し入れた。しかし指に触れるのは微かに積もった塵だけで、そこは見事に本だらけの場所なのだ。
 だからすぐに書庫を出て、剛志は思いつくところを探し回った。
 終いには、ベッドの下まで覗き込むが、結局日記は出てこない。
 剛志は思いの外くたくたになって、最初に探し始めた書庫へと舞い戻るのだ。年齢を痛烈に感じながら、ソファーにドシンと腰を下ろした。その時ちょうど正面に、節子一押しの書物が並んでいるのが目に入る。絶対的なオススメよ! そう言っていた本がズラッとあって、
 ――やっぱりさっきのは、俺の勘違い、だったんだな……。
 などと思うと同時に、
 ――節子すまん、あれぜんぶ読むなんて、やっぱり俺には、ぜったい無理だよ……。
 たとえ短編ものであっても、きっと最後までは無理だろう。そんなことを考えて、正面の本棚全体に目を向けた時だった。
 ――あれ?
 ちょっとした違和感を覚えて、剛志は慌てて背もたれから背中を浮かした。
 節子がお勧めだと言った棚が、明らかに他のところと違っている。もちろん背表紙にある題名なんかは様々だ。文字の大きさや字体だって違うから、それらはどう見たって別々の書物。
きっと様々なジャンルが混在しているのだろう。そんなことだってわかるくらいに、みんなしっかり別々に見える……が、どう考えても不自然なのは、それらが不思議に同じ大きさだということだ。
その棚以外はみなバラバラで、厚さはもちろん、そのサイズ自体が少しずつ違う。
 ――なのにどうして、ここだけみんな一緒なんだ?
 そんな疑念に突き動かされ、剛志は正面の棚に向かって近づいていった。そうして近くに寄れば寄るほど、それらが見事なまでに均一に見える。
 彼は右端にあった一冊を抜き取り、まずはその題名を記憶に刻んだ。それは剛志も知っている小説で、映画にもなっている有名な作品、ジミーPの「永遠の詩」だ。
表紙を捲れば見返し≠ナ、その次の扉≠ノも再び本のタイトルがある。
 剛志にもそのくらいの覚えはあって、その本にも確かに見返しだけはあったのだ。
 ところが次のページにタイトルはなく、そこを目にした途端、剛志は呆気にとられて呼吸をするのも忘れてしまった。
 じっと数秒、手にあるものをただただ見つめる。それから二冊、三冊と棚から書物を抜き取って、題名も見ないままカバージャケットを剥がし取った。
 ――なんだよ、これ……。
 カバーが違うだけだった。
 中は何から何までおんなじもので、それらはまさに、市販されている日記帳……だ。
 慌てて同じ大きさの本をぜんぶ抜き取る。それからすべてのカバーを次から次へと外していった。すると現れるのはどれも一緒で、それらはぜんぶで二十六冊にも及んだ。
 一冊が365ページ。一年で一冊だから、二十六年分の日記帳だということになる。
 ――わざわざ一冊ずつ、それぞれ違うカバーを……?
 どう見たって本物の表紙で、プロの印刷屋にわざわざ依頼したに違いない。
 ――だからあいつは、自分が死んだらここを読めと……?
 節子は同時に、自分に何か起きない限り、剛志は決して読んだりしないと知っていた。
 そんな彼でもだ。もしも節子が死ねば彼女の言葉を思い出し、ふと、目を通そうと思うかもしれない。
 彼は最初手にした日記を再び手に取り、慌てて扉を開き目を向けた。
そこには手書きで「2001年」と書かれてあって、となれば八年前に書かれた日記ということだ。その頃節子は何を思い、日々をどう感じていたのか?
 剛志はドキドキしながら読み始めるが、どのページにも大したことが書かれていない。
 だいたいが一日、数行程度しか記述がないのだ。寒いからヒーターを点けたとか、今夜は疲れたからもう寝たいなど、どうでもいいことばかりが綴られている。それでも飛ばさず読み進めると、なんの前触れもないまま途中でピタッと白紙になった。
 四月の二十三日が最後で、それ以降は一文字だって書かれてない。
 それも最後のページには、何を言いたいのかわからない文章がたった一行あるだけだ。
 拍子抜け。まさにそんな感じで、最後のページを意味ないままに見つめ続ける。
 すると不意に、目にしている文字に違和感を覚えた。
 ――あいつ、こんな字だったかな?
 記憶にある節子の文字は、もっとしっかりして美しかったはずだ。
ところが目の前の文字はぜんぜん違う。筆圧の感じられない弱々しい線で、ミミズが這ったような文字ばかりが並んでいる。
どうして? そんな疑問を思いつつ、剛志は2001年の日記帳を床に置き、その隣に並んでいたもう一冊を手に取った。
 開いてみれば、しっかりした字で「2000年」と書かれている。
 ――またどうせ、似たような感じなんだろうな?
 さっきまであった高揚感は消え去って、一冊目とは段違いの気軽さで最初のページに目をやった。ところがページの一番上に目を向けた時、剛志の心はそこで一気に凍りついてしまう。
『このままわたしは、どんどんおかしくなっていくの?』
 そんなのが目に飛び込んで、剛志は思わず手にある日記を閉じたのだ。
 2000年、平成十二年の正月といえば、節子がおかしいと気がつく二年以上も前のことだ。
 ――そんな頃からあいつは、自分の状態に気づいていたのか!?
 そんな可能性をうかがい知って、いっときのお気楽さが跡形もなく消え失せる。
 正直、読むのが怖かった。それでも節子はまだ生きていて、日記から彼女の願いが知れるかもしれない。そうなれば、まだ何かしてあげられる可能性だってある。
 ――それに、さっきのことだって、何か書かれているかもしれないし……。
 だから嫌でも読まなきゃならない。そう決めて、彼はその場に腰を下ろした。それから深呼吸を一回だけして、2000年の日記に目を通していったのだ。
 不思議なくらいさっきと違って、文字もしっかり節子のものだ。
きれいな字が気持ちよく並んで、だいたいページいっぱいに書かれている。そして年明けから四月中旬頃までは、剛志も知らない失敗談があっちこっちに綴られていた。さらにその後には必ず、この先どうなってしまうのか? という恐れの言葉が続くのだ。
 ところがそれ以降、梅雨の頃にはどんどん日記が短くなった。
内容もありきたりに傾いて、天気がどうだったとかどうでもいいことが多くなる。
 さらに年末に近づくと、もうほとんど2001年の日記と変わらない。きっと五月を迎えた頃には、何かおかしい≠ニいう事実さえ彼女は忘れてしまったのだろう。
 思考そのものが鈍化して、何が起きようとおかしいなどと思わなくなる。そんな状態だったというのに、それから剛志は一年以上気づかなかった。
 ――だから、料理教室もやめたのか! ならばどうして、ひと言俺に言ってくれない!?
 素直にそんなことを思ったが、たとえ相談されたとしても果たして何ができたのか?
 もちろん、検査する時期は早まったろうと思う。しかし治癒の手段がないのだから、遅かれ早かれおんなじ道をたどるだろう。
 もしかしたら節子は、そんなことだって知っていたのか……だから、恐怖に怯えながらもなんの行動も起こさなかった。
 ――いや、そうじゃない。彼女なりに、抵抗はしたんだ……。
 ほとんど見なかったテレビを剛志と一緒に観るようになったり、確かパソコンを始めたのもこの頃だった。そして何より日記帳にも、彼女なりの抵抗がしっかりある期間だけ残されている。
 三月からのほぼひと月、多い日には、日記半日分くらいにまでそれは及んだ。
 いわゆる記憶の羅列に他ならない。口に入れたものすべてが書かれていたり、誕生日や血液型など、剛志に関することばかりが並んでいたりする。
さらにそんな日記の中には、剛志が初めて目にする過去の事実もあったのだ。
 その中の一つが、これまで耳にしたことのない日付の羅列だ。きっと誕生日なのだろう。
 大正六年 五月五日。
 大正十年、四月八日。
 昭和四年、六月二十八日。
 昭和二十二年、八月二十八日。
 大正六年と十年というのは、きっと節子の両親だ。そしてその横、昭和四年、六月二十八日と書き込まれたその次に、昭和二十二年八月二十八日とも書かれている。
 昭和四年六月の方は、紛れもなく節子の誕生日なのだ。
 それでは昭和二十二年って方は、いったい誰の誕生日か?
 剛志が生まれたのも昭和二十二年だが、彼の場合は五月生まれだ。それにこの世界では、昭和二年生まれってことになるからどっちにしたって違うだろう。
 正直、記憶喪失だなんて言い出した手前、節子にもほとんど昔のことを尋ねていない。
 もちろん戦争中の空襲で、一瞬にして天涯孤独になったのは知っている。しかしそんな話も遥か昔に聞いたことで、それ以降、その手の話は一度だってしていないのだ。
 それでも剛志は聞いていた。八月二十八日生まれの人物について、彼が思い出すのはそれからすぐのことだった。

――どうして、こんな大事なことを忘れていたんだ……?
 そう思って愕然とするのは、やはり日記にあったひと言によってだ。
『あの子は今頃、生きているのか、死んでいるのか?』
 たったそれだけだったが、目にした瞬間、欠落していた記憶が一気に舞い戻っていた。
 まさしく終戦直後、岩倉節子は未婚のまま赤ん坊を授かったのだ。彼女は乳飲み子を一人抱えて奮闘するが、ある日とうとう我が子を手放す決意をする。さらに施設に預けて三年くらいが過ぎた頃、節子は再び施設を訪れ、無理やり娘の養子先を聞き出した。
「正直に言うとね、最初はなんとしてでも連れて帰ろうって思ってたんです。でも、このままの方があの子のためになるなって、心の底から思えちゃって、だから、そのまま……逃げるようにその場を離れました……」
 そう告白していた節子は、その後一度も娘と会っていないはずだった。
 その子が昭和二十二年生まれなら、今年でもう六十二歳という年齢だ。だからって死んでなどいないと思うが、そのくらい何もわからないということだろう。
 節子は確かに言ったのだ。大きな庭で、若い夫婦が祖父母と一緒に娘のことを眺めていたと。
 ――やっぱりその娘ってのが、桐島、智子だってこともある?
 智子も剛志と同じ昭和二十二年生まれだ。誕生日までは覚えてないが、彼女も節子の娘と同じ養子だった。さらにシーソーのことはさて置いて、
 ――智子の家にも、かなり大きい庭はあった……。
 節子が智子の母親なら、本当にそうならさっきの言葉だって不思議じゃなくなる。
 あの時、「なあ、節子……」と言って、剛志は節子に話しかけた。すると微かに知性が舞い戻ったか、節子がいきなりこう言ったのだ。
「わたし、ともこ!」
 節子じゃない、わたしはともこ! そんなふうに剛志には聞こえて、必死になってその真意を確かめようとした。しかし今になって思えば、「わたしの智子」だったのかもしれない。
 さらにそうであったなら、単なる偶然であるはずはないし、節子はきっと意味あって剛志の前に現れたのだ。
 ――だから子供の名前を、ゆうこ、だなんて言ったのか……?
 そんなふうに決めつけて、剛志はその後もずっと節子の日記を読み続けていった。そうして介護ヘルパーが帰った後も読み進め、すべて読み終わったのはもうほとんど明け方だ。
 ところが二十六冊すべて読み終わっても、あの節子の言葉についてはわからない。
 それでも彼は、読み続けて良かったと心の底から思うのだった。最後の数冊は例外として、日記のほとんどから彼女の幸せを感じることができたからだ。
 ただその一方で、腑に落ちないところも確かにあった。
 一番古い日記は結婚して三年目、昭和五十一年、1976年からのものなのだ。ここまでしっかり日記をつける習慣が、結婚して急に身についたとは考えにくい。
 ――であればだ、それ以前の日記だって、きっとどこかにあるはずだろう……?
「それも、この家のどこかに置いてあるのか? 節子……」
 剛志はひとまず寝室に戻って、節子の寝顔を眺めながらそんなふうに問いかけてみる。
 まずはひと眠りして、またヘルパーに来てもらって探してみよう。彼はさっさとそう決めて、節子の隣に置かれたベッドにもぐり込んだ。
 ところが二時間くらいが経った頃、玄関チャイムがしつこいくらいに鳴り響き、いつまで経っても鳴り止まない。キンコンキンコン、キンコンと鳴って、鳴り終わったかと思えば、また同じリズムで鐘の音が鳴り響いた。
 そのうち節子が目を覚まし、不機嫌そうに呻き声を発し始める。
「くそっ!」
 こうなってしまえば、寝ているわけにはもういかない。彼女一人では何一つできないから、やるべきことは山ほどあった。ただその前に、ひと言くらい文句を言わねば気がすまない。
 ――いくらなんでも、朝の八時ってのは早すぎるだろう!?
 セールスなんかだったら怒鳴りつけてやる! そんな気持ちを抱えつつ、彼は足早に玄関へ向かった。ところが備え付けの画面に目をやって、チャイムを押すのがセールスなんかじゃないとすぐに悟った。さらに……、
 ――俺はどこかで、こいつと会ったことがある。
 不思議なくらい強烈に、そんな気持ちが湧き上がる。
 しかし単にそれだけで、具体的な記憶などは浮かび上がってこないのだ。
 ただとにかく、画面に映るその姿には、セールスマン特有の何かがない。自信満々……、とでもいうのだろうか? 己の判断で生き抜く強さが、画像からでも過ぎるくらいに感じ取れた。
 もしかして医者か? そんなことを思いながら、剛志は通話ボタンを押したのだ。
「あんた、誰?」
 不機嫌そうにそう言って、すぐに終了ボタンへ手をかける。そうして返ってきた相手からの答えは、想像以上に明るい声そのものだった。
「どうも、大変ご無沙汰しております。わたしのこと、覚えていらっしゃいますか?」


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