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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第48回   第7章  2013年 プラス50 – 始まりから50年後 ・ 1 平成二十五年(2)
1 平成二十五年(2)



「ここってずいぶん、殺風景なところよね……」
 きっとそう言いながら、ここはどこなんだと探っている。
「まあ病院なんて、どこもこんなもんさ。ここはそれでも絵が飾ってあったり、けっこう気を遣ってる方じゃないかな?」
「そうね、そうよね、病院なんだから、殺風景くらいがちょうどいいわよね」
 こんな会話が繰り返され、そのたびに、彼女はここが病院と知って安堵の顔を見せていた。
 病院にいるのを忘れるんだから、人間ドックのことだって忘れているはずだ。なのに、どうしてここにいるかは聞いてこない。
きっと病院にいる理由より、今いる場所を知らない方がよっぽど不安なのだろう。
 そうして病院にいると知り、しばらくの間は落ち着いている。
 ところがそんなのも数分だ。またなんとなくソワソワし始めて、
「ねえ、もう帰りましょうか?」
 いかにも真剣な顔を向け、帰りたいという意思を告げてくる。
「人間ドックはね、けっこう時間かかるんだよ。だからさ、もう少し我慢して、僕に付き合ってくれるかな……」
「そうね、そういうものよね。人間ドックか、それじゃあ、しょうがないか……」
 きっと旅行などの場合なら、互いの格好や持ち物などですぐにそうと知れるのだ。もちろん住み慣れた自宅なんかにいるのなら、それはなおのことだろう。
 ところが病院にある検査待ちブースとは、見事なまでに殺風景な空間だ。
だから彼女の不安はいつも以上に高まっただろうし、そのせいでより強い症状が出たのかもしれない。
 とにかくあの朝の出来事以降、剛志はできるだけ節子と一緒に過ごすよう心掛けた。するとそれまで気づかなかったのが不思議なくらいに、チョコチョコとおかしな言動を繰り返すのだ。そんな時間を過ごすたび、彼は心の底から願うのだった。
 ――頼む! 病気でもなんでもいいから、せめて、治せる病であってくれ!
 ところがそんな切なる願いも、検査結果によって見事なまでに崩れ去った。
 アルツハイマー型、認知症……。
 そう告げられた病名こそ、剛志が一番恐れていたものだった。
 一度アルツハイマー病が発症すれば、治療といっても進行を遅くするくらいがせいぜいで、いずれ何もかもわからなくなって死に至る。あっという間に進行するケースもあるらしいが、発症して十年、二十年後も生存している人だっている。
 ただ実際、発症後二十年も経ってしまえば、生きる屍のような状態になるのが普通だという。
 ショックだった。
そう遠くないうちに、剛志のことだって忘れ去ってしまうのだ。
 いずれ身の回りのことができなくなり、己の感情さえ捨て去っていく。終いには寝たきりになって、あとは死を待つだけという感じだろうか……。
 そうして検査結果が出た途端、唯一の治療薬だと言われ、病院である薬を処方された。
 ところが飲み始めてからすぐに、ちょくちょく失禁するようになる。それどころか日に日に、節子らしくない乱暴な言動が増えていった。
 ある夜、ふと目が覚めて隣を見ると、また節子の姿がどこにもない。
最近は万一のために間接照明は消さないから、寝室に誰もいないことは間違いなかった。慌ててベッドから飛び下りようとすると、それを制するように突然声が響き渡った。
 ――あんたはだれだ。
 きっとそんな感じだろうが、剛志には叫び声としか聞こえない。
しかし続いた掠れた声で、やはりそうなんだろうと知ることができた。
「すぐに、ここから出てってよ、じゃないと殺す、わよ……」
 一転して静かな口調だが、その顔は真剣そのものだ。さらにその言葉が嘘でないのは、固く握られている刺身包丁によってどうしたってわかる。
 節子が、開け放たれた扉の向こうに立っていた。
 ――俺を忘れてしまった?
 疑念、驚きを抑え込み、できるだけ普通に「節子、どうしたんだよ」と剛志は言った。
 ところがまるでうまくないのだ。
「節子って誰よ! あんたは何者?」
 ――自分の名前も、忘れちまったか?
 衝撃だった。
いずれこんな日が、とは覚悟していた。
それでもまさかこんなに早く? さらに自分の名前まで忘れるなんて、まるで予想していなかったことなのだ。
 ――直近のことから忘れていきます。そして少しずつ、昔のことも忘れていって……。
 こんな医者の言葉は嘘だったのか!?
 腹立たしさを思った途端、こめかみ辺りが「ジン」と鳴った。いかん! と思った時には顔の中心がカアッとなって、いきなり視界が揺らぎ始める。
 何か、言わなければ……と焦れば焦るほど、涙が溢れ出て止まらない。
 それでも、剛志は目を開けていた。頼む、頼むと念じながら、必死に節子を見つめ続けた。
 智子を二度も失った。十六歳で失って、三十六でも智子はマシンとともに消え去った。それから彼女の死を知って、実際剛志は三度も智子を失っている。
 ――なのにまた、節子もいなくなってしまうのか……?
 ――頼むから、そんなことしないでくれ!
 剛志は誰かに向けて必死に祈り、ただただ節子を心に思った。
そうするうちに、節子も何かを感じたのか? 顔の強張りがフッと解け、不安そうな印象だけがその顔に残った。
 すかさず無理やり笑顔を作り、剛志はこぼれる涙を必死に拭き取る。
 ――僕は何もしないよ。だから、安心して……。
 そんな印象を全身全霊で訴えた。
すると驚くくらい唐突に、スッといつもの節子が現れる。
「あなた、何?」
 不思議そうな声を出し、剛志を今見たばかりのような顔をした。
 それでも節子は、剛志のことを「あなた」と呼んだ。
さらにきっと、手にあるものを知ってはいない。
 剛志はベッドから飛び下りて、剥き出しの包丁を節子の手から奪い取った。そのままキッチンまで走っていって、流しに包丁を放り込む。そうして何事もなかったように、彼は節子のもとに戻ったのだ。ところがその時、剛志の姿を目にした途端、節子は再び大声をあげた。
「ちょっと! あなたどうしたの!?」
 叫ぶと同時に剛志の右手をつかみ上げ、慌てて彼の掌に顔を寄せた。
 節子から包丁を抜き取った時、わずかに見えた柄の部分をつかんだのは間違いない。
 ところがそのまま引っ張って、あごの部分から刃元辺り――刃渡りの柄に近いところ――が当たったか? 節子のつかんだ手は真っ赤に染まって、床にポトポト血が滴っていた。
 そしてその翌日、節子を連れて、いつもの病院で手の具合を診てもらった。
すると節子が叫んだ通りに、縫わないとくっつきゃしないとさんざっぱら脅される。
「ダメよ、こんなに深くちゃ縫わなきゃダメ、すぐに病院に行きましょう!」
 夜中であると知ってか知らずか、節子は剛志にこんな大声を出したのだ。
 結果、親指の付け根辺りを十針ほど縫って、包帯で右手をぐるぐる巻きにされる。そんな状態で診察室を出た途端、二人にいきなり声がかかった。
「岩倉さん、じゃないですか?」
 声の主はご近所に住むご婦人で、節子があの屋敷に住み始めた頃からの知り合いだ。
 剛志はまだかかりそうだったので、二人は喫茶室でおしゃべりしながら待っているということになる。多少心配だったがダメだなんて言えない。結局二人を見送って、剛志は一人、痛み止めやらなんやら処方箋が出るのを待ったのだ。
 掲示板の数字が何回か変わって、やがて剛志の手にある札番号が表示される。なんだかんだでもう昼近く、剛志はやれやれという印象いっぱいに立ち上がった。
 この時、遠くで誰かが手を挙げたのが目に入る。それも白衣姿で、その立ち姿は記憶にあるような人物ではない。
 ――誰か、後ろにいるのか?
 そう思って後ろを見るが、居眠りをしている老女がたった一人いるだけだ。
 再び前を向けば、さっきの人物が明らかに、剛志目指して近づいてくる。そして少し離れたところで立ち止まり、彼を覗き込むようにして意外な言葉を口にした。
「名井さんじゃありません? ほら、わたし広瀬です。広瀬正ですよ、名井さんでしょ? わたしのこと、覚えてませんか?」
 広瀬正? 確かSF小説家にそんなのがいたな? なんてことをちょい思うが、少なくとも岩倉と呼ばないってことは、あの事故より前に出会ったのかもしれない。
「わかりませんか? そうですよね、あの頃わたしは三十にもなっていなかったし、それが今や還暦にあとちょっとなんだから、まあ、わからなくても無理ないか……」
 そう言われてやっと、以前ここに入院していたのが、三十年くらい前のことだと思い出した。
「あ、昔、わたしが入院してた時の……」
 だからいったいなんなのか? 剛志はなんにもわかっちゃいない。
「そうですよ。ほら、名井さんが目を覚ます時、わたしがあなたの名前を呼んだんですよ。確かあれは……昭和四十八年、でしたよねえ〜」
 そう言って、男はなんとも嬉しそうな顔をした。
「あの時、いろいろと説明しなきゃと思って、万国博覧会や札幌オリンピックのことなんかをけっこうしっかり調べたんですよ。でもいざとなると慌てちゃって、調べたことの半分も話せなかったなあ……。でも、そんなことがあったおかげで、折に触れて、よく思い出していたんですよ、名井さん、どうなさってるかなあって……」
 広瀬先生――確か、節子がそう呼んでいた。
直接の担当医ではなかったが、とにかく目覚めた時、そばにいてくれたのがこの医師だった。
 スラッとした細身の印象が記憶にあったが、今ではまったくそんな面影は残っていない。
 聞けばこの病院の院長だそうだ。先代から引き継いで十年以上ってことだから、このくらいの肉と貫禄が付くのは当然と言えば当然だろう。
 彼は節子との結婚についても知っていて、当時心から喜んでいたらしい。
「わたしだけじゃないんです。わたしの父も、わたし以上に喜んだんですよ。いえね、昔住んでいた家が岩倉さんの近所でして、実はここの院長だった先代は、ずっと岩倉さんの大ファンだったんですから」
「岩倉、節子のですか?」
 もちろん近所に住んでいれば、偶然見かけることもあるだろう。それで見初めたということならば、大ファンだなんて言ったりするか? そう考えて、剛志は思ったままを声にした。
「節子のファンってのは、いったい……?」
「え……ご存じないんですか? 節子さんから聞いてないです? いかん、こりゃ、少々まずかったかな……?」
 なんて言いながらも、広瀬は隣に陣取って、剛志の知らない節子の話を語り始める。
「あれは確か、僕が大学受験に失敗した頃だから、まあどっちにしたって、昭和のど真ん中って時代ですよ。一条八重って覚えてませんか? けっこう人気のあった占い師なんですが、彼女がその頃、急に行方不明になったんです。マスコミなんか大騒ぎでね、でも実際、一条八重は、どこにも消えてなどいなかった。それまでの衣装や厚化粧を捨て去って、やっと普通に戻ったってことなんでしょうね。きっとあの頃、すでに三十は過ぎてたんでしょうが、薄化粧の方がよっぽどお綺麗でね。なんていうのかな……気品があって、もちろん上品なんだけど、実際はすっごく気さくな方でね、道ですれ違ったりすると、ニコッと笑ってひと声かけてくれる。そんな時、本当に心臓がドキドキしたものですよ」
 そこまで一気に広瀬は話して、妙に嬉しそうな顔を剛志に向けた。
 ところがそんな顔を向けられても、剛志にはなんのことだかさっぱりだ。
 一条八重が行方不明。確かにどこかで大昔、智子とそんな話をした覚えがある。
 あれはいったい、いつ、どこでだったか? そんなことを考えていると、まだわからないのかといった顔を広瀬が向けて、
「わかりませんか? 先代がファンだった一条八重って占い師、実はね、岩倉さんなんですよ。つまり名井さんの現在の奥様、節子さんのことなんです」
 なんてことを言ってくる。
 一条八重とは、実は岩倉節子のことだった。
 そう聞いた瞬間、ちょっとした混乱が剛志の頭で起きるのだ。
 大昔、智子も一条八重のファンだった。
となれば、剛志だって智子と同じ年だから、どうしたって十以上は年上だということになる。しかし節子は剛志より二歳も下だ。
「いや、しかし、そんなことあるはずは……」
 思わずそう声にするが、次の瞬間、フッと脳裏に蘇った。
 ――違う! 俺は三十六歳のとき、昭和三十八年の、あの林に戻ってるんだ。
 二十年戻って同じ時代を生きたのだから、節子が二歳年下なら、あの時の彼女は三十四歳だったことになる。それに莫大な資産のことだって、広瀬の言葉通りなら……さもありなんって感じだろう。
 ――節子が、占い師をやっていた。それも、あの一条八重だったなんて……。
 あまりの驚きに、否定の言葉さえ出なかった。そんな剛志の驚きを知ってか知らずか、広瀬はほんの少しだけ間を空けてから、何もなかったように話を続ける。
「実はわたし、奥様の病気のことを、さっき初めて知ったんです。家内が偶然、今日病院に来てましてね、さっき奥様を、待合室で見かけたと言ってきたんですよ。それで患者さん専用の管理ネットワークで検索したら、岩倉さんのお名前が本当に出てきて、慌てて脳神経内科に問い合わせをしたんです。そうしたら、奥様が、アルツハイマー型認知症だと言われまして……」
 さらに今日は診察日ではないとも告げられ、広瀬はとにかく、一階にある一番大きな待合室にやって来た。するとタイミングよく剛志が立ち上がり、彼の目にもその姿が飛び込んだのだ。
 症状が進むと、どんどん赤ん坊のようになっていく。平常心でいるのが難しい出来事が増えていき、いずれは施設へ、ということになるのだろう。
 だからぜひ、それまでの間は、節子に優しくしてあげてほしい。広瀬は真剣な口調でそんな望みを声にして、さらにさらに、驚くべき事実を剛志に向けて告げるのだった。
「名井さんが、いや、今は岩倉さんなんですよね。岩倉さんが事故に遭われた時に、実は、救急車が向かった先はここじゃありませんでした。すべては節子さんの希望でして、うちの病院にとっても、ありがたい話ではあったんですが……」
 もともと顔見知りだった節子が病院を訪れたのは、剛志が事故に遭って三日後の朝だった。
 院長室に現れて、挨拶もそこそこに剛志の病状について話し始めた。
「あなたを、助けてくれって言うんですよ。事故に遭って目が覚めない。どんなことをしてでも救ってほしいと言って、わたしの父にものすごい金額を提示したんです。その金額自体は、あえてここでは申し上げませんが、とにかく目が覚めるまで、最高の治療を続けるという約束で、院長は彼女の申し出を受け入れました。正直当時は、うちはかなり厳しかったんですよ。だから渡りに船でお引き受けした。たとえ九年という長きにわたっても、彼女の申し出は、あの頃のうちにとっては救いの神だったんですよ」
 それで事故から一週間目、剛志は広瀬の病院に転院となった。
 しかしどうして? きっとそんな気持ちが顔に出たのだろう。広瀬はそこで剛志の顔から視線を外し、正面を見据えて感慨深げに声にした。
「わたしもね、どうしてそこまでなさるのかと、一回だけ聞いたことがあったんですよ。しかしあの人、ほんの少し笑っただけで、何も答えてくれなかった。だからその辺のところは、岩倉さんと一緒でなんにも知っちゃいないんです」
 この時ふと、遥か昔の記憶が剛志の脳裏に蘇った。
昔、父、正一に世話になった人がいて、その人物のおかげで母子ともども助けられた。
もちろんその当人は、もう生きてなどいないだろうが……、
 ――そんなことがもしかして……関係しているってことなのか?
 だったとしても、剛志のことをいつ知って、そもそもダンプとの事故をどのようにして知ったのか? そんなことを思った時、いきなり新たな疑念が思い浮かんだ。
「あの、わたしが節子と出会った時、確か彼女は何か病気で、ここに通院していたんですよね? そして先生が、彼女の担当医師だった……」
「そう、それだってね、わたしは困ると申し上げたんですよ。ところが土下座せんばかりに頼み込まれて仕方なく……だから、それもね、実は大嘘なんです。本当にすみません、でも、それからしばらくして、風の噂で一緒になられたと耳にしましてね、ああ、やっぱり、なんて思ったのを、今でもはっきり覚えています」
 節子の通院までが嘘だった。
「どうして、そんな嘘をついてまで……」
「さあ、どうしてなんでしょう……。ただ、そんなことに理由があるんだとすれば、きっと、けっこう単純なことじゃないでしょうか? あなたを助けようと、奮闘した彼女としてじゃなく、同じ病院でたまたま出会った、そんな普通の感じが、節子さんの望みだったのかもしれません。まあ、なんにしても、もう大昔のことですし、真相を知るには、節子さんご本人に聞いてみるしかないでしょうね……」
 広瀬がそう返したところで、少し離れたところに事務員らしき女性が立った。
「そうか、もうこんな時間か……」
 腕時計に目をやりそう言うと、広瀬は長椅子から名残惜しそうに立ち上がる。そして打ち合わせがあるんだと剛志へ告げて、
「今度はわたくしどもで、奥様のことを、しっかりやらせていただきますから……」
 そんな言葉を最後に、深々と頭を下げて待合室から立ち去った。
 一方、あまりの衝撃に、剛志はしばらくそこから動けない。こんな事実を知ってしまって、このまま何もしないでいいのだろうか? そんな気持ちが湧き出る反面、
 ――しかし今さら、あんな状態の節子に、なんと言って問いただせばいい?
 その結果、耳にすべきではなかった真実が現れ出れば、残りの人生後悔し続けることになるだろう。そう長くはない二人の時間に、これ以上の不安材料を持ち込むなんてまっぴらだった。
だから剛志は即決で、広瀬の話を聞かなかったことにしようと決めた。

 その後、広瀬が言っていたように、節子の病状は悪化の一途をたどっていった。
包丁騒ぎのようなことがしょっちゅう起きて、つい手を上げそうになることが増えていく。
担当医に相談すると、そんな症状に効く薬があると言われ、剛志は藁にもすがる思いでその薬を処方してもらった。薬は本当によく効いて、節子に飲ませると劇的に大人しくなる。だからなんの疑いもないままに、彼は戻ってきた平穏な日々に心の底から感謝した。
 しかしそんなありがたい日々も、そうそう長くは続かない。
 きっと頭の片隅で、薄々感じていたと思うのだ。ところが以前の状態を恐れる余り、知らず知らずのうちに考えないようにしていたのだろう。
ふと気がつけば、節子が滅多に話さなくなっている。
話しかければ返事はあるが、そうでなければ滅多に言葉を発しない。ついこの間まで、歩き回られて困っていたはずが、あっという間に一人では満足に歩けなくなった。
 なんとも間抜けな話だが、剛志はここまでになって初めて作用の強さに気がついたのだ。
 その日から、薬の投与をすっぱりやめて、慌てて担当の医師に相談しに行く。しかし希望に沿って処方した薬で、ああだこうだ言われたって困るという答えが返った。
 確かに、十分すぎるほど大人しくはなった。
しかし今あるこの状態は、大人しいなどという表現にとどまらない、まるで人間らしさを削ぎ落とされてしまった印象なのだ。
 剛志はやりきれない気持ちのまま、節子の車椅子を押しながら帰った。
途中何度も涙が溢れ出て、やはりタクシーに乗らないでよかったと心から思う。そしてもう二度と、あの手の薬には頼らない。そう誓って、心の声だけで節子に何度も詫びたのだった。
 ところが服用をやめた後も、節子の状態は元のようには戻らない。
さらに病状も進んでいって、ある日とうとう何をどうしようと立てなくなった。その頃には一人で食事もとれないし、もちろんトイレも手取り足取りという感じだ。
こうなると当然、剛志への負担はかなり大きいものになる。
 しかし剛志はそれでも、施設へ入れようとは思わなかった。
支援サービスなどをどんどん使って、自宅で介護を続けようと決めていた。そして彼女の死を元気なまま見届けようと、剛志は心に強くそう思う。
ところがそんな願いが一瞬にして、ある日を境に吹き飛んでしまった。


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