第6章 1983年 プラス20 - 始まりから20年後 ・ 3 革の袋(3) 次に目が覚めた時、剛志は病院のベッドに寝かされていた。すぐそばには節子がいて、今にも泣きそうな顔であらぬ方を見つめている。 剛志が薄眼を開けて「節子」と呼ぶと、彼女の横顔が一気に崩れる。それからすぐに剛志の顔を覗き込んで、口の動きだけで「バカ」とだけ言った。 それからすぐに医者と看護婦が現れて、痛みはあるかと尋ねてきたり、名前や誕生日なんかをさんざんっぱら聞いてくる。血圧やらなんやら検査があって、彼らが病室を去ったのは三十分くらいしてからだ。 そうして二人っきりになってすぐ、剛志は節子に聞いたのだった。 「俺は、なぜ病院なんかに? それにおまえ、どうして日本にいるんだ? まさか俺、三週間ずっと寝てたのか……?」 ツアーから戻った節子が、書斎で倒れているのを見つけてくれた。そんなふうに思ったが、それはあまりに見当違い。 「ぜんぜん違うわよ。やっぱり、三週間って長いじゃない? これまで一週間くらいはあったけど、こんなに長い旅行なんて初めてだから、搭乗する直前、やっぱりって思ってキャンセルしちゃったのよ。そうして慌てて帰ってきたら、まあこれだもの。ホントよかったわ、あのまま飛行機に乗っちゃわなくて……」 三週間も、一人にしておくのは申し訳ない。 そんなことを言ってくれる彼女に、剛志は思わず声にしてしまった。 「三週間くらい、大丈夫だったのに……」 そんな呟きに、節子の表情が突然変わった。滅多に険しい顔など見せない節子が、いきなり眉間にシワを寄せ、明らかに不機嫌そうな声となる。 「あのね、いったいどこが大丈夫なの? ぜんぜん大丈夫なんかじゃないじゃない!? 事故になんか遭っちゃって、また目が覚めなかったらどうしようって、わたしがどれほど心配したと思ってる? あなたどうして、急に自転車なんか乗ったのよ。それによ、家に帰れば帰ったで、変な男たちが庭に入り込んでるし、あなたはいったい、あの日どこで何やってたの!?」 変な男たち……それは紛れもなくあの三人組だ。 やっぱり、あれはちゃんと起きていた。 きっと今頃あっちの時代で、三十六歳の剛志は警察の尋問を受けていて、そろそろ病院から連絡が入ったくらいだろう。 そして何より心配なのは、智子がどうなったかということだ。 ただ、マシンのことは口にはできない。だから心配かけたと一生懸命謝って、その後はなんだかんだ嘘八百を並べたてる。そうして機嫌が治った頃を見計らい、何気ない感じで聞いたのだった。 「……、それで、その変な男たちってどうなった?」 「不法侵入って、わたしが大きい声出したらね、すぐに逃げてったわよ。ねえ、あなた本当に、あいつらのこと知らないの?」 「知らないよ。だってその頃にはさ、俺は地面に抱っこされてたんだろ?」 「それはね、まあ、そうなんだけど……」 そう言いつつも、どうにも納得できないという顔をする。 「でもあの人たち、あそこで何してたんだろう? 離れの前に大きな岩があるでしょ? あの岩の周りに立って、ぼうっと何かを見ていたわ。そのあとすぐに電話があって、あなたがこの病院に担ぎ込まれたって言うでしょ。でもね、これも本当におかしいのよ。ここに着いてみたら、あなたがどこの誰だかって知らないの。だから、誰もうちに電話なんかしてないってわけよ……ホント、あの電話って、いったい誰からだったのかしら? あなたには、誰か思いつくような人っているの?」 そんなことを聞かれてしまうが、電話の主にはさほど興味がないらしい。 節子はあっという間に話題を変えて、剛志が担ぎ込まれた時の様子を話し始めた。 この時一瞬、女の子がいなかったかと言いかけるが、もしいたんなら節子が口にしないはずがない。マシンが消えて、あの三人が驚いている間に庭からさっさと逃げ出したのだ。だからきっと、剛志が送り返したマシンは、今も扉の閉まったまま岩の上にあるのだろう。 あの時、いきなり昭和三十八年の林に戻った彼は、一か八かの決断をした。 ――このままじゃ、智子はあっちに行きっぱなしになる! 智子を思えばそうするしかなかったし、マシンが向こうにちゃんと着けば、きっと彼女もこの時代まで戻って来られる。そう信じてマシンを起動させ、剛志は表に飛び出したのだ。 ところがマシンが戻った時には、智子は庭のどこにもいない。 幸い帰宅した節子も庭を眺める余裕などなく、大慌てで剛志の担ぎ込まれた病院までやって来た。 あの時、剛志は自宅のすぐそばで、ひん曲がった自転車と並んで倒れていたらしい。 そんなところを通りかかって、誰かが救急車を呼んでくれた。財布に入っていた身分証か何かで番号を知ったのか? とにかく家まで電話をかけて、この辺りで一番大きな救急病院の名前を節子に告げた。ところが病院に到着しても、剛志は目を覚まさない。 「身体の方は打撲程度なんだけど、また今度もね、頭をけっこう強く、打ったらしいの……」 それでも今回は、節子が到着して十五分くらいで意識は戻った。 ――それで、あんな変なシーンを、俺は見てたのか? 実際は軽トラックと接触して気を失ったくせに、そのまま自宅に戻った気になっていた。 であれば、あの四百万はどうなったのか? ショルダーバッグの所在を聞いても、現場には自転車以外、何も残されていなかったらしい。 ――救急車を呼んでくれた誰かが、中身を知って持ち去ったのか? だから名前も名乗らず電話を切った。そう考えれば辻褄は合う。しかし、たとえあの金が戻ってきても、三十六歳の剛志はもうここにはいないのだ。 すべては剛志の勘違いのせいだ。 それさえなければ、昨日の夕刻には五百万だって置いておけた。そうすればきっと、時の流れの何かが変わって、あの革袋だってちゃんと姿を見せたのかもしれない。 あの時、老婆の持ってきた札を眺めて、剛志はすぐに気がついたのだ。 「あれっ」と思って、手に取った札を端から端までじっと眺める。 「ない!」と思うまま、彼は札束をパラパラっとめくった。 一万円札のどこを眺めても、札束の万札どれもこれも……、 ――発行年なんて、印字されてないじゃないか!? 結局、何がどうであろうと同じなのだ。この時代で流通している紙幣でも、昭和三十八年でだって立派に通用する……と知った時にはもう遅かった。 ――どうして、発行年なんかにこだわったんだ? そのせいで、マシンは金のないまま行ってしまった。その後はおんなじことが繰り返されて、きっと今頃はマシンだけが庭にある。 歴史の流れというものは、何をしようと変わることはない。そんな確信がここに来て、いとも簡単に崩れ去ってしまった。 剛志はその晩だけ病院に泊まって、次の日の午前中には退院が許される。 会計やら何やら節子にぜんぶやってもらって、二人はお昼頃には家路に就いた。門の前でタクシーから降りると、車輪のひん曲がった自転車がすぐ目に入る。誰が運んでくれたのかと節子に聞くが、彼女は何も知らないらしい。 四百万のお礼のつもりか? 到底ありそうもない想像だったが、それ以外に誰が届けるかという気もする。 ただとにかく、自転車の状態からすれば、たった一晩の入院で済んだことには感謝しなければならないだろう。それからさっさと家に入ろうとする節子へ、剛志はずっと頭にあった言葉を投げかけるのだ。 「僕はちょっと、庭の方を見てくるよ。昨日いたっていう男たちが、もしかして庭で何かしてるかもしれないだろ?」 そんなことより身体の方を心配しろと、呆れるような声が返ってきたが、こればっかりは「はい、そうですか」というわけにはいかない。だからひと回りするだけだと返し、剛志はさっさと岩の方に歩いていった。 さっき、病院でのことだった。 担当医が正式に退院を告げ、病室から出て行ってすぐのことだったのだ。 「でも、わからんよな、二度あることは三度あるって言うからさ、家に帰った途端すっ転んで、また意識不明になっちゃってさ、担ぎ込まれるなんてこともあるかもしれんし……」 剛志は思わずそんな台詞を口にして、振り向く節子におどけた顔を見せようとした。 ところが節子が振り向かない。ボストンバッグを膝に置き、丸椅子に座って身動き一つしないのだ。 ついさっきまで、タオルや下着やらを器用にバッグに詰め込んでいた。それも途中で手を止めて、節子は背を向け、ジッと窓の方を向いている。だから剛志は続けて言った。ちょっとした気まずさを意識して、それでも明るい声で節子へ告げる。 「まあ、もちろんそうならないように、俺だって気をつけるから、大丈夫だけどさ……」 そう言い終わった途端だった。 節子の声が響き渡って、さらにひと呼吸置いてから、彼女の顔が剛志に向いた。 いい加減にしてほしい。 今度そんなことになったなら、 わたしはあなたと離婚します。 要約すればこうなるが、その何倍もの言葉が彼女の口から溢れ出た。 目には涙が溜まり、息を吸うたびに口元がわなわな震えて見える。 この瞬間、剛志は初めて節子の気持ちを知ったのだ。 植物状態の男が奇跡的に目を覚まし、なんとか十年間は生きてきた。しかし今後、何かの衝撃でいつなん時、再び眠りに就くかもしれない。 きっと彼女の心には、片隅にいつでもそんな恐怖があったのだろう。 ――これからは、節子との生活だけを考えて、生きていくから……。 そんなことを心に念じ、剛志は心の底から節子に詫びた。 もう二度と、今回のようなことはやって来ない。すべては終わってしまったし、こうなってしまえば、あとは忘れてしまうくらいしかやることはない。 そうして最後に、庭がどうなっているかを確認する。もちろん残されたマシンはそのままにして、いつなんどき智子が戻ってきても、使えるようにしておくつもり……などと、そう思っていたのだが、剛志の思う通りにはとことん進んでくれないらしい。 マシンがあれば、太陽の光ですぐにわかるはずなのだ。ところがいくら目を凝らしても、岩の上にはなんにも見えない。慌てて駆け寄っても同様で、 ――やっぱり、智子はマシンに乗ったのか? マシンがないということは、そういうことになるだろう。 庭からは出て行かず、彼女はずっとどこかに隠れていた。男たちが逃げ去って、節子が家に入ってか、もしかしたら病院に向かってからかもしれないが、過去から戻ったマシンにきっと智子は乗り込んだのだ。 それでも、二十年前には戻っていない。 ならば操作を誤って、二十年未来へ行ったのか? 二十年後、2003年で待っていれば、再びこの場所に現れるのか? そんなことを考えているうちに、新たな疑問が降って湧いたように浮かび上がった。 三十六歳の剛志は、確かにマシンに乗ったはずだ。男たちが呆然と立ち尽くしていたというから、そこのところはまず間違いない。彼のバッグは岩の隅っこに置かれたままだし、となればやっぱり無一文で旅立った。 ――ならばどうして、この時代になんの変化もないのだろうか? 金がなければ旅館には泊まれない。まして児玉亭への援助なんかは絶対的に不可能だ。となれば何から何まで状況は変わるし、節子との出会いだって同じようにはならないはずだ。 きっと、ミニスカートどころではなかったろう。生きていくだけで大変で、あんなアパートだって借りられたかどうか……? ということなら、あんな事故にだって遭っていないんじゃないか? ――俺は節子と、出会えてたのか? 様々な疑念が渦を巻くが、この瞬間まだ、剛志は慣れ親しんだ庭にいて、中では節子が剛志の戻りをイライラしながら待っている。これは紛れもない現実で、いつもと変わらぬ日常だ。 ――本当に、何も変わっていないのか? そう思って辺りをグルっと見回した瞬間、すぐに何かがおかしいと気がついた。 節子が家の中に入ってから、少なくとも十分以上は経っている。きっと普段の彼女なら、今頃どこかの窓から顔を出し、とっくに何か言ってきたっていいはずだ。 それなのに、すべての窓は閉じられたまま……。 「ちょっと、待ってくれ、やめてくれよ……」 剛志は思わずそう呟いて、その場で一気に動けなくなった。 たとえ今、三十六歳になった智子が現れても、それは節子の代わりにはなり得ない。 もちろん剛志にとって、智子は今でも大事な存在には違いないのだ。元の時代で幸せになってほしいし、叶うならいつの日かもう一度、きちんと会って話がしたいと思っている。 けれどそれは、五十六となった剛志にとって、昔懐かしい想いからくるものなのだ。 これからの人生一緒に過ごしたい――などというものでは決してないし、まして十六歳のままの智子であればなおさらだ。 この十年、節子と過ごした時間が大事で、彼女を失ってしまうことこそ、剛志の一番恐れていたことだ。 「節子!」 彼は思わずその場で叫んだ。 妻の名前を声にしながら、玄関目指して一目散に走り出す。玄関扉を押し開き、剛志は声を限りに叫ぶのだった。 「節子! 行かないでくれ!」
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