まさしく終戦直後、岩倉節子は未婚のまま妊娠し、そして出産。 身寄りのない彼女は乳飲み子を抱えて奮闘するが、あの時代、女性が一人で生きるのだって大変だ。ある日、節子はとうとう我が子を手放す決意をする。ろくに食べていないせいか乳もだんだん出なくなって、このままでは先に赤ん坊が死んでしまうと考えたからだ。 誕生日と名前だけを布切れに書いて、夜も明けきらぬうちに、養護施設の玄関前に赤ん坊と一緒に置いてくる。 それから今日に至るまで、彼女は一度たりとも我が子と会っていなかった。 それでも最初の頃は、いつか迎えに行くんだと、子供のために日々必死に働いた。 「それから三年ほどして、なんとか食べていけるようにはなったんです。だから子供を引き取ろうと施設を訪ねました。だけどもうその時は、すでに養子に出された後だったんです。それでもわたしは、どうしてもあの子を諦められなかった……」 絶対に会おうとしたりしない。遠くからその家を眺めるだけだからと拝み倒して、やっと養子に出された家の住所を聞き出した。 「裕福な家庭だとは聞いていたんです。でも、あそこまでとは思わなかったわ。本当に大きなお家に広いお庭があって、わたしが行った時、ちょうどご家族全員がお庭に出ていてね、わたしの子供が、木でできたギッタンバッコンに乗ってたの」 そこでうつむいていた顔を急に上げ、剛志の顔をジッと見つめる。 「ギッタンバッコンってわかります? 今ならみんな、シーソーって言うんでしょうけど、まあそれをね、おじいちゃんおばあちゃん、そして若いご夫婦みんなが嬉しそうに眺めてるの。あの子のためにね、あんな大きな遊具を買ってくれる。着せられているお洋服もね、わたしなんかじゃ、きっと買ってあげられないなって思ったわ。正直……言うとね、最初は、なんとしてでも連れて帰ろうって思ってたんです。でも、このままの方が、きっとあの子のためになるなって、心の底から思えちゃって。だからそのまま……逃げるようにその場を離れました……」 ここでようやくひと息ついて、節子はぬるくなったコーヒーをひと口啜った。 きっとその頃の記憶が蘇り、辛い気持ちを必死に堪えていたのだろう。 しばらく深い呼吸を繰り返し、そのたびに唇が怯えるように小さく震えた。 剛志はそんな節子が落ち着くのを待って、囁くように、頭にあった問いを節子に向けて口にする。 「お子さんは、女の子、だったんですか?」 節子が黙ったまま頷くと、 「お名前は……?」とだけ言って、彼女からの返事を待った。 すると、剛志の顔を見上げるようにして、 「ゆうこ、と言います」 そっと静かに、節子はそう言い返す。 我ながら、ずいぶん安直な発想をしたものだった。 女の子で養護施設、さらに裕福な家庭と来たものだから、桐島勇蔵から聞かされた智子≠フ話と結びつけてしまった。 そもそも節子には、どことなく智子に似ているところがある。 だからもしかしたら……智子の母親? などと、この時一瞬思ったが、そんな偶然がそうそうあっていいはずがない。 ――でも、智子の本当の母親も、きっとこんな感じの人なんだろうな……。 剛志の知っていた智子の母も美しい人だった。知的な感じのする美形タイプで、もちろん智子も節子も美人の方だ。 ただ二人の場合はどちらかといえば、可愛らしさの方が優っている気がする。それはまさしく剛志にとっての幸いで、もしもそんな彼女と暮らせれば、天にも昇る気持ちだろう。 ――もしよかったら、ここで一緒に暮らしませんか? あの時、あまりに突然、予想もしない言葉に驚きまくった彼に向け、節子はさらに続けて言ったのだった。 「あ、もちろん、嫌ならはっきり断ってください。わたしはね、いろんなことが言えないまま生きてきちゃって、これ以上、そんな後悔したくないって思ってる。だから、思ったことはすぐにちゃんと伝えようって決めてるの。だからね、そちらも思った通り言ってくださって、本当に、ぜんぜん構いませんから……」 そんな声に内心、踊り出したいくらいに嬉しかった。 しかし実際にそうするかどうか、一時の喜びだけで決められるものじゃない。 だから今日はこのままマンションに帰って、明日またこの時間に訪ねてもいいかと声にした。 ――彼女と一緒に、俺はこの時代で幸せになる! そして屋敷からの帰り道、彼は素直にそう思えるようになっていた。 しかしそうなるためには、クリアしなければならないことがある。 さらにきっと、節子も同じように考えて、次の日、剛志がやって来るなり過去を話し出したに違いない。 「わたしにはね、両親はおろか、兄弟、親戚だって人っ子ひとりいないの。親しい友人だってほとんどいない。まさに天涯孤独って身の上よ。だからここまで来るのに、いろんなことをして生きてきたわ。女も使ったし、いかがわしいことだって、正直やったこともある。でもね、なんと言っても最悪だったのは、わたしはこの手で、自分の子供を捨てたってことなの……」 丁寧だった言葉遣いが少しくだけて、彼女はそんな出だしで昔の話を語り出した。 そうして告げられた彼女の過去は、剛志にとってそれほど衝撃的とは思えない。 きっと戦後の混乱期なら、似たような話は山のようにあったろうし、それでも頑張ってきたからこそ、このような屋敷に住めるまでに彼女はなれた。 子供を養子先に残してきた話も、節子の優しさゆえだと素直に思える。 ところがだ。自分の方はそう簡単じゃない。 すべてを話してしまえば、どうしたってタイムマシンがどうこう≠ネんて話になるのだ。そんな事実を伝えることが、二人にとってプラスになるとはどう考えたって思えなかった。 だから剛志は、またまた伊藤博志を見習った。 伊藤が話していたのをそっくりそのまま、剛志は節子に話そうと決める。 「気がついたら昭和三十八年の街をね、ひとりぼっちで歩いてたんだ。自分がどこの誰だかさえわからなくて、もちろん名前だって思い出せない。背広っぽいものを着ていたから、きっとどこかで働いてはいたんだろうけどね。とにかく、そんなことも含めて、何もかも、俺は忘れ去っていたよ」 だから自分だって、本当は何をしていたかわかったもんじゃない……と、剛志は笑顔ながらに節子へ告げた。 「じゃあ、名井良明って名前は……嘘なの……?」 「いや、嘘っていうか……ちょっと言いにくいんだけど、実はね、その名前も戸籍も、死んだ人のものなんだ」 大筋は、紛れもない真実を伝えておいて、 「だから、戸籍とかは本物だけど、実際の名井って人には、僕自身会ったこともない。だからこの名前に未練はないし、もし、もしもだけど、昨日の話が本気ならば、この際わたしと、正式に結婚しませんか?」 そして節子の戸籍に入りたい。 と、ほんの少しの嘘を織り交ぜながら、彼は節子へ告げたのだった。
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