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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第38回   第5章  1973年 プラス10 - 始まりから10年後 - 3 名井良明として
 まさか! と思った。
 目を開けているのに、閉じているみたいになんにも見えない。もしも身体も動かなければ、あのリハビリも、退院だってぜんぶ妄想だったということになる。
 ――節子さんも、幻だったのか!?
 そう思った途端、彼は一気に起き上がろうとした。
 するとなんとも呆気なく、上半身がヒョイッと浮き上がる。と同時に身体がグラグラっと揺れて、あっと思った時にはドシンと全身に衝撃を受けた。
 それでも、ベッドから落ちた程度って感じだろうか……?
 彼は慌てて絨毯らしき上に両手をついて、それからゆっくり身体を浮かした。そうして辺りをうかがおうとした時、急に地べたが揺れた気がして、身体が左右に大きく揺れる。続いて吐き気が込み上げて、そんなものと一緒に記憶が一気に蘇った。
 ――……だったとしても、ここはいったい、どこなんだ?
 起き上がって見回すが、うっすら見えるものすべてに見覚えがない。
確かに、夕方から酒を飲んだ。
大した量ではなかったが、外で酒を飲むのは実質九年ぶりくらいになる。
そのせいなのか? それとも多少は緊張したか?
 とにかく不思議なくらい酔っ払い、途中から見事に記憶が消え失せている。
 ――ちくしょう! あの後、何があったんだ……?
 まさしく突然のことだった。まったくの予想外で驚きだったが、それ以上に今こうしている自分が理解できない。
 病院を退院してから、すでにひと月くらいが経っていた。
 節子の見つけてくれた賃貸マンションに入居して、家具や電化製品の購入から、細々した雑用に至るまで、彼女は何かと手伝ってくれたのだ。
 だから退院してからの半月ほどは、なんだかんだとしょっちゅう節子と顔を合わせた。そうしてようやく生活基盤も整って、節子と会わずに一週間くらいが過ぎた頃だ。特に用事はなかったが、節子に連絡しようと剛志は思う。
ところが、いざ受話器を手にすると、
 ――なんて言う? どんな理由で、電話をかけたと言えばいい……?
 そんな思いが湧き上がり、彼は何度か、そのまま受話器を置いていた。
 そもそもこの関係とはなんなのか? 病院でいくら親しげに映っていても、実際は手さえ握っていない。彼女の家だって知らないままだ。
 単なる、知り合い……。
 植物人間だった患者が目を覚まし、天涯孤独だったからいろいろと手助けしてくれた。このまま剛志が連絡しなければ、時の流れとともにそんな事実も忘れ去られる。
 ――それで、俺はいいのか?
 こんな疑問に結論を出すのが、節子と最後に会ってから十四日目の朝だった。
剛志はあえてそんな日に、ずっと行けずにいた児玉亭に顔を出す。するとちょうどお昼時で店内は満員。たまたま空いた入り口そばの席に座って、剛志はドキドキしながら新サンマ定食を注文した。
 幸いにして、九年も前に常連だった男の顔など覚えておらず、恵子はちらっとだけ彼を見て、「あいよ!」とだけ言って返した。
 店は彼女一人でてんてこ舞いだが、客は厨房から出される定食を自ら取りに行き、食べ終わった食器を片づけたりとまさに協力的だ。
 きっと見知らぬ同士だろうが、席を譲り合ったりなんとも見ていて気持ちがいい。
 こんなシーンを彼だって、これまで何度も目にしたことがあるはずなのだ。
 ――あの頃の俺の目には、まるで映っていなかったんだな……。
 そして何より恵子の笑顔が素晴らしく、新サンマと白米を頬張りながら、彼は母の背中に向けて力強く思った。
 ――お袋、俺はこの時代で、名井良明として精一杯生きていくよ。
 昭和五十八年に現れる智子を元の時代に帰してやって、三十六歳の剛志がこの時代に残れるようにする。それは変わらずに大事な使命だが、それだけを思って生きていくのを彼はやめようと心に誓った。
 過去の自分を捨て去って、新たな人生をちゃんと生きる。
 だから訪ねるのも今日で最後と、彼はこの日、母親に会いに児玉亭へやって来た。そしてその後さらに、やるべき大事なことが残っている。
 そうして彼は児玉亭に別れを告げて、バス停そばの電話ボックスへ向かうのだ。
 そこで節子へ電話をかける。
理由なんてもうどうでもいい。
会いたいから会おうと告げて、もしもダメだと返ってきたら、その時はその時、男らしくスパッと忘れるよう努力する。
 剛志は深呼吸を一回して、さんざん考え抜いた言葉を頭で何度も復唱した。続いて「よし!」と声を出し、受話器を手にして十円玉を電話機に落とした。
 ボックスの中は蒸し風呂のように暑い。それでも噴き出す汗を拭おうともせずに、彼がダイヤルに指をかけようとした時だった。
 え!? という驚きに続いて、
 ――違う、目の錯覚に決まってる!
 剛志は素直にそう信じ、再びダイヤルに目を向けようとした。
 しかし頭でそう思ったはずが、視線は前を向いたまま動かない。
 ボックスのガラス越しに、一人の女性が立っていた。
 正面からゆっくり近づいて、ボックス前で満面の笑みを見せている。
 もし、これが節子でないと言うのなら、それこそ剛志の頭はおかしくなったのだ。
 ――でも、どうしてだ……?
「どうしてって? こっちこそ驚いちゃったわよ。見たことのある人が電話ボックスに入ったって思って、まさかねえ〜なんて考えながら近づいていったの。そうしたら、ホントに名井さんなんですもの……こんな偶然って、滅多にあることじゃないと思うわ……」
 行きつけだという寿司屋に入って、席に座るなり節子がこう言ってきた。
 その日彼女には、多摩川の川っぺりにちょっとした用事があったらしい。そんなのを終えてバスの停留所に向かう途中、ふと向けた視線の先に思わぬ姿を発見した。
 しかし節子は、河原なんかにどんな用事があったのか?
「なんてことのない恒例行事なの……でも、本当にお話しするようなことじゃないんですよ。昔ね、そう、ちょっとした思い出があそこにはあって、ただ、それだけなんです。でも、そんなことより、本当にお会いできてよかったわ。わたしの方から電話するのも押しつけがましいし、名井さん、あれからぜんぜん連絡くださらないから、どうしてるだろうって、けっこう心配していたんですよ……」
 こう聞いた途端、自分がした質問のことなど剛志は一瞬で忘れ去った。
 連絡くださらない――この部分だけが頭で何度も繰り返される。そうしてきっと、そんな嬉しさのせいだろう。つい、口にした言葉が悪かったのだ。
「よし、今日は久しぶりに、冷酒でも頂こうかな」
 以前の剛志なら、昼間っから日本酒などは絶対に飲まない。
飲むにしたってビールか酎ハイ、ハイボールくらいがせいぜいなのだ。ところがついつい嬉しくなって――もしかしたら、店内の佇まいに影響されたのかもしれないが――冷酒を飲み始めたのが間違いの元だった。
 ふと気づけば、そこそこ酔いが回っていて、
 ――このまま、帰りたくない!
 そんなことを強く思ったと思う。そしてもう一軒と節子を誘ったまでは覚えているのだ。
 ――あれは、どこだった? 差し向かいで……まさか、個室だったか……?
 二人して、呼び止めたタクシーに乗り込んだのもなんとなくだが記憶にあった。
 ところが行った先を覚えていない。正面に節子が座って、自分だけ酒を呑んでいるイメージだけが微かにあった。
 ――俺が節子さんを、旅館に連れ込んだなんてことが、あり得るだろうか?
 そんなことを思った途端、再び強烈な吐き気が舞い戻ってくる。
 剛志は慌てて身体を起こし、必死になって吐き気に耐えた。それからゆっくり胡座をかいて、再び辺りを見回してみる。
 するとさっきまで暗かった空間が、知らぬ間にけっこう明るくなっていた。見れば大きな窓から陽が差し込んで、まさに夜が明けようとしているようなのだ。
 そこは広々としたリビングで、連れ込み旅館でなければ、間違ってもラブホテルなんかじゃない。剛志は傍らにあるソファーに寝ていて、起き上がった途端、絨毯の上に転がり落ちた。
 そこまでは、彼にもすぐに理解できる。
 それではいったい、ここはどこか?
 そう思うまま、誰かいませんか? そう叫んでみようと一瞬思った。
ところがもしも、
 ――さんざん酔っ払った挙句、忍び込んで勝手に寝ていたとしたら……。
 人など呼んでしまえば、取り返しのつかないことになるだろう。
そんな恐怖に突き動かされ、彼は即行立ち上がった。室内はどんどん明るさを増して、あっという間に扉も見つかる。
 ――どちらに、行くか?
 ちょうど左右に扉が二つ。彼はとっさに遠い方を選択する。そうして改めて部屋の豪華さに驚きつつも、フラつきながら扉に向かって進んでいった。
 音を立てぬよう扉を開けると、その正面にもまた扉がある。左右には長い廊下が続いていて、その先には真っ白な壁が見えるだけだ。
 ――くそっ、どっちだ?
 そんな焦りが湧き上がると同時、そこで初めて剛志は尿意に気づくのだ。
 それは不思議なくらい猛烈なるもので、とっさに限界が近いと彼は悟った。
 きっとこの時、アルコールの影響が多分に残っていたのだろう。さっきまで玄関を探していたはずが、不意にトイレは「どこだろう」などと思い始める。そしてなんとも大胆不敵に、目の前にあった扉に手をかけたのだった。
「あった……」
 思わず、そんな声が出た。なんという偶然か、扉の先はちゃんとトイレで、やはりその広さは普通とは段違い。剛志はスリッパも履かずに、大慌てで小水用便器の前に立ったのだ。
すると胸辺りから上が大きな窓になっている。もちろん窓の先には目を向けず、彼はただただそのことだけに集中した。
 小便が勢いよくほとばしって数秒、思わずフーッと息を吐いたところでだ。
 やっと彼の視線は前方に向けられ、難なく外の景色が目に飛び込んできた。
 ずいぶん昔、こんなふうに眺めたことがある。そんな記憶が蘇り、一気に床に飛び散った小便のことまで思い出される。
だから今度は慎重に、剛志は窓の外へと目を向けた。
十年とちょっと前、岩倉邸のトイレから眺めたのと何から何までまったく同じ。そんな景色の中央に、やっぱりあれがあったのだ。
 ――どうしてあの岩≠ェ、こんなところに?
 確か同じようにこう思った。それでもあの時は、同じ場所にいるという認識があったし、たまたま目に入ったから驚いたというだけだ。
 しかし、今度ばかりはそうじゃない。ここがどこだかも知らなかったし、
 ――まさか、ここが岩倉邸?
 となれば、何がどうなったかは別として、
 ――十年前、岩倉氏と話したリビングで、俺は寝てたってことなのか……?
 どう考えても答えはそうで、ここでウロウロしているのは最高に危険だって気がした。だから慌ててトイレを飛び出し、おぼろげな記憶を頼りに玄関目指して走り出そうとする。
 ところが二、三歩踏み出したところで、扉が「バタン!」と音を立てた。
剛志は驚いて振り返り、再び長い廊下が目に入る。その瞬間、不思議なくらい唐突に、これまで考えたこともなかった過去の事実が思い浮かんだ。
 ――そうか、そうだったのか……。
 なんという大間抜け。
 ――どうしてこんなことに、今の今まで気づかなかった!?
 それは過去の剛志への声であり、さらにその後の十年間、ずっと知らないままでいた自分に向けてのものでもあった。
「良かった、目が覚めたのね。どうです? 具合の方は……?」
 そんな声が耳に届くまで、長いことトイレの前に立っていた気がする。
 剛志が驚いて顔を上げると、リビングの扉から節子が顔を覗かせていた。きっともう一方の扉からリビングに入って、寝ていたはずの剛志がいないので捜してくれていたのだろう。
 節子の顔には心配する印象と、ホッとしたという安堵が入り混じって感じられる。
 そしてとにかく、ここはやっぱり節子の家だ。
「あの、わたしは……どうしてここに……?」
 だから、なんとかそう声にした。
「どうしてって、名井さん、昨日のこと覚えてないんですか?」
 たったこれだけで、顛末のおおよそが知れるというものだろう。
「もう、飲みすぎなんですよ……」
 そう言ってから、節子はやっと剛志に向かって笑顔を見せた。
「お寿司屋さんを出たでしょ? そうしたら、もう一軒行くんだって名井さん聞かないの。だからタクシーをつかまえたんです。だけど名井さん、途中で気持ち悪くなっちゃって、それでその時、うちの方が近かったからこっちにお連れしたんです。だけどリビングに入るなり、今度はウイスキーが飲みたいとおっしゃって……」
 困ったもんだ! そんな印象で剛志の顔を睨みつける。そうしてすぐに、いつもの優しい表情に節子は戻った。
「昔はわたしも仕事をしていたから、その関係でお客さまがいらっしゃることもあったんです。そんな時たまに、お酒なんかもお出ししたりすることがあって、だけどここ十何年はずっと棚にしまいっぱなし。だから本当に古いウイスキーとかなんですよ、なのに、それを名井さんソファーに座るなり見つけちゃって、それから飲む飲むって大騒ぎ……」
 完全に明るくなったリビングに戻って、節子は棚から一本のウイスキーを取り出した。
「どうしてもこれが飲みたいからって、ほら、これくらいをグイッと、あなた一気に飲んじゃったのよ……」
 ボトルに親指と人差し指を当て、節子は五センチくらいを作って見せた。
 きっとボトルをラッパ飲みして、一気にそのくらいを流し込んだのだろう。しかし普段の剛志なら、どんなに酔っていようとそんなことなどするはずない。
 たとえそれが、正一の大好きだった、ジョニ黒≠セったとしても、もちろんだ。
 するはずのないことを、ならばどうして昨夜に限ってやったのか?
「きっとそれで、一気に酔いが回っちゃったんだと思うわ。それから後は、声をかけても返事がなくて。ただね、名井さんおかしいの。何度も何度も、わたしの名を呼ぶのよ、だからわたしは返事をするでしょ? でもね、なんの反応もしてくれないの……」
 岩倉、節子……岩倉、節子……。
 まるで呪文のようにそう呟いて、剛志はそのまま酔いつぶれてしまったらしい。
 ――俺はどこかで、きっとそのことに気がついたんだ。
 表札か、トイレに行って気がついたのか? 
もしかしたら上がり込むより前、屋敷全体を眺めて思い出していたのかもしれない。
 ここは間違いなく元いた時代、昭和五十八年で訪ねていた岩倉邸で、その二十年前にはあの林があった場所だ。そしてきっと、あの時、俺を出迎えた……あの男こそ、
 ――あれは、きっと俺だった……。
 顔中を覆うようなヒゲに、暑苦しいべっ甲メガネを掛けて、
 ――三十六歳の俺に、気づかれまいとして……のことだ……。
 今この瞬間も、この世界の剛志はきっと銀座で働いている。そんなあいつがやって来て、五十六歳の剛志は素知らぬ顔で演技する。
こんなのは、まさに思いもよらない真実だった。
 しかしよくよく思い返してみれば、あそこにいた男こそが自分だったという気がしてくる。
 ――どうして、こんな簡単なことに気づかなかったのか……?
 そんな葛藤に黙り込んだ剛志に、節子はこの時、不思議なくらい何も言ってはこなかった。
 何度も何度もわたしの名を呼ぶ――そう言った後の彼女も、何か思いつめているようにも見えたのだった。
 やがてそんな状態に剛志も気づき、顔を上げ、慌てて何かを言いかけた。
ところがその寸前に、節子が彼の言葉を遮るように言ったのだ。
「あの、もしよかったら、ここで一緒に暮らしませんか? 部屋はたくさんあるし、わたし一人で住むには、ここは本当に広すぎちゃって……」


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