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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第37回   第5章  1973年 プラス10 - 始まりから10年後 - 2 岩倉節子

 伊藤を殺した犯人は、元の時代と一緒でやはり捕まっていなかった。
 これからさらに十年過ぎても、智子は行方不明のままだろう。
 ――だからこそ、再びやって来るあの日のために、やれることをすべて準備するんだ。
 このまま黙っていても、昭和五十八年のあの日は確実にやって来る。そこで行動を起こさない限り、また同じ出来事が繰り返されてしまうのだ。
 もちろん何より、智子を戻してやるのが一番だ。
 しかしそもそも剛志の方も、好きでこの時代に現れたわけじゃない。だからこそ三十六歳の彼をこの時代に残し、その上で智子を元の時代に戻したかった。
 ところがだ。そんなことをしてしまえば、
 ――過去に行ってしまう俺がいないんだから、今この時代にいる俺は……その瞬間に、この世から消え去ってしまうのか……?
 そうなってしまう恐れは、十二分にあるのだろうと思う。
 だから伊藤博志とそっくりな男も、この世界から忽然と消え去ってしまった。
もちろんその逆だってあるだろうから、そんな場合、未来の自分を殺した過去の方は、きっと今頃本来の時代に戻っているのだろう。
 ただとにかく、剛志が消え去ってしまうことになろうとも、三十六歳の方は本来の時代で生き続ける。それだって正真正銘自分のためだし、だからこそ一刻も早く、自由に動けるようになりたかった。
 幸い株の方はぜんぶ売れて、それだけで当分何もしないで――大概の贅沢をしたところで、十年二十年は存分に――生きていける。さらに剛志名義の土地を売り払えば、残りの人生ずっとだって遊んで暮らせるのかもしれなかった。
 あの日病室で、株券を目にした時だった。彼は一瞬にしてある出来事を思い出した。
 そのことのおかげで、勤めていた会社の業績も一気に落ち込んだのだ。比較的、大らかだった社風がギスギスし始めたのも、剛志が目覚めたこの1973年だ。
 第一次オイルショック。秋には日本を襲うこの石油危機は、その後の株価にも多大な影響を与えていた。だからすぐに売り払うと決める。そして下がるところまで下がったら、また買い戻そうと考えた。
結果、そんな思いつきは大成功。その後も彼は記憶を頼りに、降って湧いた資産について次々に手を打っていく。しかし変わらずに働いてくれる頭と違って、身体の方はなかなかそうはいかなかった。
目覚めて間もない頃などは、ドロッとした流動食を飲み込んだだけで、危うく死にそうになったくらいだ。さらに最初はお 遊び程度だったリハビリも、日に日にその厳しさを増していった。
 特に歩行が思うようにいかず、
「もう無理だ!」
 いくたびも心でそう叫び、投げ出したいと思ったかしれない。
 こんなに辛い思いをするくらいなら、車椅子生活だって構わない! そう思ってジリジリするが、いつも決まって思い出すのだ。
 ――あと十年経たないうちに、十六歳の智子があの庭にやって来る。
 その時のシーンが浮かび上がって、剛志は再び彼女のために頑張ろうと思った。
 ところがある日、そんな彼にさらなる不運が襲いかかる。
 嘘だろ!? 身体から伝わった音だけで、何が起きたのかをすぐに悟った。
 倒れ込んだ瞬間、なんとも鈍い音がして、右脚に激烈なる痛みが駆け抜けたのだ。
 ――全治二ヶ月。
 ただし、骨がずいぶん脆くなっているから、もう少し余計にかかるかもしれない。医師からそう告げられ、不覚にも涙が溢れ出た。
 九年間……気づけばそんな時を失って、今も満足に歩くことさえできないのだ。
 ――俺がいったい、何をしたっていうんだよ!
 怒りをとうに通り越し、言いようのない喪失感が彼の心を埋め尽くした。
 そしてその日を境に、剛志の中で大きく何かが変化する。それからは、ほとんどの時間をベッドの上で過ごすようになった。ギプスをしていようが車椅子には乗れるし、本当なら歩く以外のリハビリだってある。
 ところがどうにもそんな気になれない。
 ――慌てたって仕方ない。まずはしっかり脚を治す。すべては、それからだ。
 どうにもこんな風にしか思えずに、誰に何を言われてもリハビリ一切を断り続けた。
 それからちょうど一週間、起こしたベッドを背もたれにして、剛志が新聞を読んでいた時だった。小さなノックが二回響いて、扉の向こうから見知らぬ女性が姿を見せた。
 この時代にしては大柄で、厚化粧の感じが商売女を連想させる。
 そんな女性がいきなり現れ、目を合わせるなり明るい声で言ってくるのだ。
「あら、本当に目が覚めたんですね。へえ、意外と元気そうじゃないですかあ〜」
 きっと以前から、剛志のことを知っていて、どこからか覚醒したと聞きつけた。そしてその見た目にふさわしく、図々しくもここまで押しかけてきたのだろう。
「退屈していらっしゃるって聞いたんです。だからね、お好みかどうかわかりませんが、これ、陣中見舞いです……」
 反応ないままの剛志に構わず、女性は抱えていた紙袋をベッドの脇にストンと置いた。
 こうなって、さすがに黙ってもいられない。
「あの……どちら様ですか……?」
「あ、ごめんなさい。わたし、岩倉節子と申します。広瀬先生にお世話になっていて、あなたのことはずっと話に聞いていたんです。それで久しぶりに診察に来たら、先生からお目覚めになったってお聞きして……」
 だからつい、病室まで押しかけてしまった……。
 彼女は頭をチョコンと下げてから、そう続けて照れ笑いのような表情を見せた。
 ところがすぐに、そんな笑顔がぎこちなく揺れる。揺れる笑顔が真顔になりつつ……、
「でも、本当によかった……本当に……おめでとうございます」
 ふーっと長い息を吐き、再び深々と頭を下げた。
 その瞬間、彼女の目には涙があった。
 光るものが揺らめいて、顔を上げれば頰を伝った跡がある。
 今日、初めて会ったのだ。
なのに、何も知らない自分のために、涙まで流して喜んでいる。
 そんな事実に、一気に女性との距離が縮まったように感じた。そうしてやっと、ベッド脇に置かれていた紙袋に手を伸ばす気になる。すると中身は十数冊の文庫本で、ちょっと見ただけでも推理小説からSF、ハードボイルドまでと幅広いジャンルに及んでいるのがわかった。
「一応本屋さんに、面白そうなのを選んでもらったんですけど……つまらなかったら、無理しないでくださいね」
 そう言ってすぐ、「それじゃあ、わたしは帰ります」と、彼女が伏し目がちに呟いたのだ。
 その時とっさに、彼は思わず言ってしまった。
「もし、お急ぎじゃなかったら、ですが、もう少し……ここにいてもらえませんか?」
――いきなり俺、なに言ってんだ!
 言った途端にドギマギしたが、それでも剛志は彼女を見つめ、隅に置かれていた丸椅子に向け必死に指を差したのだ。
 どうして、こんなこと口走ったのか? 少なくとも年齢は近いだろうし、水商売であれなんであれ、その顔立ちは間違いなく美人だと言える。
 それでもやっぱり引き止めたのは、彼女が流したあの涙のせいだ。
 一方、岩倉と名乗った女性の方は、その瞬間目を見開いて、少し驚いたようにも見えた。しかしそんなのも一瞬で、すぐに剛志の方に笑顔を向けて、
「わたしには家族もいませんし、急ぐようなことは、何もありませんのよ……」
 静かな調子でそう言うと、丸椅子をベッド脇まで持ってきてから腰掛ける。
「あの、広瀬先生には、どうして……?」
 少々不躾すぎるかと思ったが、そう思った時にはすでに言葉になっていた。
「大した病気じゃないんですけど、ここのところちょっと悪くなって、これからしばらく、また先生のところに通うことになりそうです。家でじっとしてばかりだからいけないんだって、先生に前々から言われてたんです。だからせいぜい頑張って、この病院まで歩いて通おうと思ってるんですよ」
 そう言って、岩倉節子はなんとも優しい笑顔を見せた。
 それからというもの、彼女は週に一、二度、剛志の病室に姿を見せる。そうして他愛もない話から、身の上話なんかを楽しそうに話してくれた。
 きっと彼女は剛志より若い。前からそうだろうと思っていたが、実際の年齢を耳にして、剛志はその若々しさに心の底から驚いた。
「戦争で、両親や親戚、友達をみんな一気に亡くしました。だから戦後、わたしはいろんなことをして生きてきたんです。人に言えないようなことだって、たくさんたくさんしてきましたよ。幸い今はもう、こうして静かに暮らしていけるようになりましたが、それもこれも皆、戦争で亡くなった方々のおかげなんだなって、最近つくづく思うんです」
 名井さんはここに入院する前、お仕事は何をしていたのですか? 彼女はそう尋ねてすぐ、剛志の答えを待たずにそんな話をし始めた。
 戦後をたった一人で生き抜いた――そんな言い回しを口にするからには、終戦の年にはそこそこの年齢だったということだ。
「あの、節子さんは終戦の時、おいくつだったんですか?」
 剛志がそう聞いた時、節子は一瞬怒ったような顔をした。それからクスッと笑って見せて、「うそうそ」と言ってから誕生年を教えてくれる。
 昭和四年生まれ……ということだから、今年で四十四歳だ。
 東京大空襲の日、気がつけば焼け野原にたった一人で立っていたらしい。それからずっと、彼女はたった一人であの戦後を生き抜いたのだ。
 実際、戦後生まれである剛志には、到底及びもつかない苦労だってあっただろう。もしかしたら、不思議なくらい厚塗りの化粧は、そんな過去の生き様からきているのかもしれない。
 ただなんにせよ、剛志はそんな時代をまったく知らない。
「昭和二十年にあった大空襲の時って、名井さん、東京のどの辺りにいらしたの?」
 なんてことを尋ねられても、生まれてないから答えたくても答えようがなかった。下手な場所を告げて、「そこは火の海だったでしょう」なんて返されれば、きっと生き残れた理由まで話すことになるかもしれない。
 お互い、四十四歳と四十六歳という二歳違いだ。
 本当なら共通する体験も多いだろうし、特に終戦直後、当時のことは、絶好の話題となるはずだ。ところが剛志にとってはその手の話が一番困る。
「病院食なんて、今の人にはきっと美味しくないんでしょうけど、闇市の時代を知っている世代には、今の食べ物なんて、なんだって美味しいって思えるわよね」
 わたしたちの世代なら……きっとそうだと言いたいのだろう。
 それからさらに、闇市シチューは怖かったとか、それでも代用うどんは美味しかったなどと言われて、笑って頷く以外にどうしようもないのだ。
「あれって、進駐軍の残飯を煮込んだものって聞いてたから、そんなもの絶対に食べないって思ってたの。でもね、本当に何日も食べてなくて、そんな日に偶然出会った人に言われたのね。どんなことがあっても生きなきゃダメだって。そうしないと、この日本を救うため、遠い異国の地で死んでいった人たちに申し訳が立たないだろうって、真剣な顔で怒られたわ。その人と出会っていなければ、わたしはきっと、どこかで野たれ死にしていたと思うの。それからその人、グイグイわたしの手を引っ張って、どこかの闇市に連れて行ってくれたわ。そこで、さ、食べなさいって出されたのが残飯のシチューだった。あれね、残飯だけじゃないのよ。煙草の吸殻なんてマシな方、ちょっと口に出せないものだって入ってたりするんだからね。もう、本当にあの頃の日本人は、奴隷みたいなものだったのよね……白人さんたちの……。ああ、やだやだ……」
 その時、隣で同じものを食べていた勤め人風の男性が、いきなり「ウッ」と声をあげ、慌てて指先を口の中に突っ込んだという。
そして口から引っ張り出したのが、後になって考えれば使用済みのコンドームだったというオチ≠セ。
「その頃のわたしはそんなもの知らないし、へえ、風船まで入ってるんだ、くらいに思っていたのね。その人、それを道に叩きつけてね、それで、じっとおわんの中を見つめているの。脂っこくて、底に残っているドロドロっとしたのをしばらく見つめて、それでも、また勢いよく食べ始めたわ。きっとね、いろんなことを考えたのよね。でも、結局は食べたのよ。食べてこの日本を立て直すんだって、きっとそんなことを考えたんだと思う。だって、泣いてたのよ。その人は泣きながら、くそっくそって、小さな声で言って、それでも必死に、ドロドロしたシチューを一生懸命食べてたわ」
 そんな姿を目の当たりにして、彼女は残飯シチューを残さず食べると決めたのだった。
 こんな話を聞いていて、彼女はやっぱり違う時代を生きてきた、と、剛志は何度もそう思うのだ。それでも不思議と気が合ったのは、お互い共通する時代を知っていたからだろう。
 もちろん本当は、そのほとんどが同じ時ではまったくない。
 時の流れとして別々に存在する……昭和という歴史の中の一時代をだ。
 剛志は昭和三十年代に十代を生き、昭和三十八年に戻ってからは、彼女と近しい年齢のまま同じ時を生きている。
「終戦から東京オリンピックの頃までが、やっぱりわたしたちの世代には、一番思い出$[い時代よね……もちろん、良くも悪くもなんだけど……」
 なんてことを言われれば、本当の意味合いは大きく違っているものの、
 ――そうそう、本当にそうだよ。
 といった感じに反応できた。
そうして出会いからひと月くらい経った頃には、節子と一緒に散歩までするようになる。
 病院の周りをグルッと一周するくらいだが、彼女は病室を訪れるといつも、車椅子に乗せて剛志を外に連れ出してくれた。
 やがてそんなことは、節子の診察日とは関係なくなる。
二ヶ月も過ぎる頃には、顔を見せない日の方が珍しいくらいになっていた。
 当然、剛志も申し訳なく感じて、さぞ大変だろうと声にすれば、
「ここまで歩いて通うことが、わたしにとっては治療になるの。だから、そんなこと気にしないでください。それにね、名井さんと話していると楽しいから、会いたくなって、ついつい来ちゃうのよね……」
などと、笑いながらに返してくれる。
 そうしてちょうどその頃だ。節子が剛志の病室に、彼女の担当医と一緒に現れた。
「広瀬先生から、名井さんにお話があるそうですよ」
 節子は剛志の顔を覗き込み、そう言ってから、医師の背後へ隠れるようにスッと下がった。
 目が覚めた時、そばにいてくれたのがこの広瀬という医師だった。
 彼は懐かしげにその時のことを口にして、
「で、名井さん、どうでしょう? リハビリ、そろそろ再開しませんか?」
 満面の笑みのまま、彼は唐突に剛志に向けてそう言った。
 そんな、いきなりの提案に、
 ――これまで、どうしてそうしなかったのか?
 剛志は素直にそう思うのだ。
それからは、体重が増えただけ骨は折れたが、生まれ変わったように頑張った。
 トレーナーは前と一緒で、もちろんリハビリルームだって変わらない。
 ところが天と地ほどに気分が違った。
 ――こんなにも、違うものなんだな……。
 自分でも驚くくらい、節子の存在によって頑張る気になれる。
 あの頃、高校生になったばかりの彼の周りには、そんな存在がきっとたくさんあったのだ。
 両親や智子はもちろん、嫌っていたあの常連客たちだって、気づいていないだけで剛志の頼もしい味方だった。そして今、まさに天涯孤独の身となって、幸運にも節子という女性が彼の前に現れた。
さらに彼女はきっと、リハビリのスケジュールを事前に調べていたのだろう。
「さあ、今日はどのくらい歩けるかしら〜」
 リハビリの時間が近づくと、そんな声が響いて節子が病室に現れるのだ。倒れ込む剛志を心配そうに見つめながら、いつも最後までリハビリルームに居続ける。
 そうしていつしか二人のことを、周りは夫婦なんだろうと思い始めた。
「奥さん! ご主人、とうとうやりましたよ!」
 節子がトイレから戻ってくると、よく顔を合わす老人が突然そんな声をあげたのだ。
 節子のそばに走り寄り、介助なしで十メートル歩けたとニコニコ顔を見せてくる。
 するとすかさず節子の方も、
「あなた! もうひと踏ん張り、次はそのまま往復よ!」
 なんてことを言って返すもんだから、ますますそう思われたって仕方がない。
 ただそんなわけで、二人の仲はあっという間に病院中に知れ渡った。
 もちろん二人の間に何かがあったわけではない。それどころか実際剛志は、節子がどこに住んでいるかさえ知らなかった。だからたった一度だけ、尋ねたことはあったのだった。
「住まいはホント、ここの近所なんです。そうね、ゆっくり歩いて三十分くらいかしら……」
 そう言って返す節子に、剛志はあえてそれ以上を尋ねなかった。
それでも病院までが三十分なら、玉川までは行けないだろうが、剛志の暮らした町からだってそうは離れていないだろう。
 ただとにかく、そんな微妙な感じのまま、二人の関係は平穏無事に続いていく。そうして目覚めてから四ヶ月と十日目、七月二十日にめでたく退院の日を迎えることができた。


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