第5章 1973年 プラス10 - 始まりから10年後
昭和三十八年に戻ってしまった剛志は、不思議な男によって 名井良明≠ニいう新しい名前を授けられる。 若々しい両親とも再会し、 彼はこの時代で生きていこうとチャレンジするが、 まったくもってうまくいかない。 それでも新たな目標を定め、剛志が前に進もうとしたまさにその時、 彼はふと、父、正一の命日を思い出した。
1 覚醒、そして再会
――人の声が聞こえる。話し声? いや、違う、誰かが、どこかで泣いている。 女の声で、その感じはそう幼くない。 少なくとも、成人の女性という感じだ。 「目を覚ましてちょうだい」と、いったい誰に言っているのか? ――もしかして、俺は、死んだのか? ふとそう思ったのは、まるで何も感じなかったからだ。 手足の感覚もなく、身体がどうなっているのか、立っているか寝てるのかだってわからない。 真っ暗で、何も見えないし、声を出そうとしてみたが、息の吐き出し方さえわからなかった。 きっと、自分はどこかで死んで、思念だけで彷徨っている。そんなことを考えていると、突然、押しつぶされるような重みを一気に感じた。 肉体の存在を知らされたように、途端に息が苦しくなる。 ――ああ、俺はちゃんと、息しているんだ……。 そんな気づきと苦しさのせいで、不意に記憶が舞い戻ってくるのだ。 ――俺はあの時、親父のところに行こうとして……? 振り返った瞬間、すぐ目の前にダンプカーが見えた。 ――やっぱり俺は、あの時死んじまったのか!? 悲しみが顔の中心に集まって、激しく、燃え上がるように熱を持った。 ――くそっ! なんてことだ! 神も仏もいないのか! そう続いて叫ぼうとした時だ。 さっきとは段違いにはっきりと、すぐそばで声が聞こえてくるのだ。 「名井さん! 名井さん! わかりますか? 名井さん!」 これまで聞こえていたものとはまるで違い、少なくとも女性の声ではまったくない。 とにかくそんな声に突き動かされて、彼は身体を動かしてみようと思うのだ。 ところがまるで動かない。全身が鉛のように重く、微かに指先だけがなんとか動いた。あとのすべては脳と切り離されてしまったようで、てんで言うことを聞いてくれない。 くそっ! と思わず思ったが、それが声となっていたのを彼はその日の夕方やっと知った。
「九年間……って……?」 「もう、昭和四十八年なんですよ。まあ驚かれるのも無理はない。今やアポロ11号が月に行っちゃう時代ですから……」 そう静かに告げて、男は剛志の反応をうかがうように押し黙る。そうして、穏やかなままの彼に安心したのか、そこから一気に声のトーンが明るくなった。 「大阪で、万国博覧会があったんですよ。札幌オリンピックも去年開催されて、七十メートル級ジャンプでは、日の丸飛行隊が表彰台を独占したり、とにかくいろんなことがあったんです。この九年間で、日本もずいぶん変わりましたよ」 そこで一旦言葉を止めて、呆気にとられている剛志を満足そうに彼は見つめた。 それからさらに笑顔になって、 「そうそう、最近じゃ若い子の間で、ホットパンツなんてのが流行ってましてね、もし名井さんが目にしたら、きっと卒倒しちゃうんじゃないかなあ。まあとにかく、この九年間のことは、おいおい、少しずつ知っていけばいいんです。大丈夫ですよ、身体の方だって、すぐに元通りに、ちゃんと動くようになりますからね」 そう言って力強く頷いたのは、まだ青年と呼べるような若々しい医者だった。 それでも彼の言うことすべてが記憶にあって、長い年月が経ったというのは、掌を見るだけで理解できた。 まるで、年寄りの手のようなのだ。体重が落ちたせいだろう。手の甲にも細かなシワがたくさんあって、青黒い血管が蟻の巣のように浮き上がって見える。 あの日、児玉亭へ向かおうとした剛志は、アパートを出たところでダンプカーに撥ねられた。 幸い大したスピードは出ておらず、さらに運転手がとっさにハンドルを切ったおかげで、ダンプとの正面激突だけは免れていた。 それでも衝撃は凄まじい。運転手によって救急車が呼ばれ、彼はすぐ近くの救急病院に搬送される。そこでひと通りの治療を受けてから、今の病院に転院してきたらしいのだ。 それからの九年近く、彼はずっと目覚めぬままここにいた。 ただここ数週間、指先が微かに動いたり、気づけば薄眼を開けていたりなんてことが起きるようになる。今日という日もそんな感じで、看護婦が慌てて医師を呼んだのだ。 ところがたまたま呼ばれた医師の方は、 ――目覚めるわけがないだろう? 心ではそんな感じを思ってる。 ――ちょっと動いたくらいで、いちいち俺たちを呼ばないでくれよ。 それでも呼ばれてしまえば仕方がない。だからいつも通りに彼の名前を呼びかけた。 するといきなり唇が動き、吐息に声らしい感じが混ざった気がする。 ――今、くそって言ったのか? まさかこいつ、本当に目が覚めるのか? そんな驚きに、彼は慌てて顔を寄せた。すると瞼が震えるように細かく動き、彼は再び剛志に向かって声をかける。それからすぐに後ろを向いて、見守っていた看護婦へも大声を出した。 「ゆっくり、ゆっくり開けてください! おい! 窓のカーテンを閉めてくれ!」 男の声が再び響き、カーテンの閉まる音が続いて聞こえた。 その後すぐに、目の辺りに掌か何かが添えられる。光を遮ろうとしたのだろうが、それでも目を開けた瞬間は、あまりの眩しさに、目の奥が破裂したような痛みがあった。 それから彼は、数時間にわたって様々な検査を受ける。そうして元いた病室に戻ってやっと、剛志はたどたどしくもなんとか話せるくらいになっていた。 最初は、名前を口にするのもひと苦労で、顎を動かすだけでゴキゴキ音が鳴った。 九年間はあまりに長い。正一の七回忌もとっくに過ぎて、この時代の剛志は二十六歳になっている。正確に言えば、八年間と五ヶ月足らず。そんな時間眠ったままで、知らぬ間に四十六歳になってしまった。 正直言ってショックだった。一気に歳を取ったことが、この時代に来てしまった以上に心にズシンとのしかかる。 そうだと言って、意気消沈している余裕はない。この世界ではひとりぼっち。頼る人などないのだから、何から何まで自分一人でやらねばならない。 だから、剛志は聞いたのだ。 「あの、わたしの住んでいたアパートは、今、どうなっていますでしょうか?」 「えっと、詳しいことはわかりませんが、どなたかが引き払われたって、聞いてますよ」 「どなたかって?」 「いや、すみません。わたしはそこまでは知らなくて……」 借りていたアパートは引き払われ、さらに病院の費用一切を、どこかの誰かが払い続けていると言う。 ――入院費から、俺に関わる費用の九年分って、いったいどのくらいになるんだろうか? 剛志がそんな疑問を口にすると、担当医は待ってましたとばかりに言ってきた。 「えっと、それなんですが、この名刺の方が、明日、あなたを訪ねていらっしゃいます。費用についてはすべて、この方に聞いていただけますか?」 差し出された名刺をひと目見て、剛志の記憶は一気に二十八年前に舞い戻った。 ――弁護士 石川英輔 神仙総合法律事務所……。 間違いなかった。住所や電話番号は忘れたが、事務所の名前などは忘れようもない。 元いた時代で母親が倒れた時、病室で見知らぬ男に渡されたものときっと同じだ。 何か困ったことがあったら連絡しろと、あの男はこれと同じ名刺を差し出してきた。 ――あの時の弁護士が、どうして……? 顔を思い出そうとするが、大柄だったスーツ姿と、膝の上にあった洋風の帽子しか浮かんでこない。 あれから、剛志にとっては二十八年が経っている。 しかしこの時代の流れでは、たった八年という歳月だ。あの時、男と会った方の剛志は自分ではないし、この時代の剛志は二十六歳で別にいる。 なのになぜ、男は今になって自分の前に現れるのか? もし本当に、男が同じ人物であるなら、それこそ剛志の時間移動について、 ――知っている、ということにならないか? いくら考えても答えなど出るはずもなく、あとは男の現れるのを待つしかない。 そうして次の日、男は本当にやって来た。病室入り口に立つ男を目にした瞬間、剛志はまさに大声をあげそうになったのだ。 「ど、どうして!」 それでもなんとか、そんな声だけで踏みとどまると、 「ずいぶん久しぶりですねえ。しかしまあ、目が覚めて本当によかった。もう今後は、こんなことなしにしてくださいよ。ねえ……名井さん……」 男はそう言って、なんともいやらしい笑顔を見せる。 その瞬間、一気に記憶が舞い戻った。 多少の年月は感じるものの、確かに男の顔を知っている。 この時代に来てすぐに、彼は名井という名をくれて、警察署から剛志のことを連れ出してくれた。さらに恐らくは、あの名刺を渡してきたスーツ姿の弁護士でもある。 もともと病院関係者だなんて思ってなかったが、まさか弁護士だったとは、まさに開いた口が塞がらない。それでもだ……。 ――病室で会った弁護士と、あのヤクザっぽい奴が、おんなじ男? そんな事実が信じられず、過去の記憶を必死になってさかのぼる。 すると男は、あの時とは別人のように明るい声で言ってきた。 「そんなに驚きですか? 前回お会いした時、ほら、警察から十分くらい一緒に歩いたじゃないですか。その間、あなたが高校生の頃、病室で会った弁護士だって、もしかしたらわかっちゃうかな、なんて、心の底でずっと心配していたんですよ。しかしまあ、あなたにとってはあの時すでに、母上の病室でお会いしてから十八年? それとも十九年かな? まあとにかく、そのくらい昔のことになるんだから、わからなくたって当然といえば当然、なんですけどね……」 確かに、三十六歳となった剛志がこの時代に現れ、ほぼ二年近くが経った頃、男はこの時代の剛志と母親の病室で会ったのだろう。 それから今日という日まで、ほぼ八年という年月だ。 ところが四十六歳となった剛志にとっては、高校生で出会ってからすでに二十八年以上が経っている。病室でも数分くらいのことだから、男の顔などほとんど覚えていなかった。 ただある意味、この時代で生きる術を授けてくれた、名井という名をくれた男のことは、今でもはっきり思い出せた。 そうしておおよそ、おんなじ――であろう――顔が、今この瞬間も目の前にある。 ただし、あの時とはぜんぜん違って、なんとも穏やかな表情ばかりを見せていた。 「どうしてあんたが弁護士? でも、どうしてだ……?」 あまりに何がなんだかわからなすぎて、どうにもちゃんとした言葉が出てこない。 「あの時はね、弁護士なんて伝えない方が、真実味が出るだろうって思ったんですよ。もちろんお渡しした戸籍謄本も、今回の名刺だって、れっきとした本物ですよ。ただ、事務所の住所と電話番号は、あの頃のものとは違ってますが……」 男は剛志の就職を確認し、さっさと事務所をたたんだらしい。 「もともと、児玉さん専用の小さな事務所でしたからね。送金の必要がなくなれば、あとはまったくの用なしです。だから名井さん、本当ならもう二度と、お会いすることはないはずだったんですよ。それがまさか、こんなことでまたお会いすることになるとは、こっちとしても、たいそう驚きでしたよ」 「でもいったい、どうしてこんなことまで……してくれるんだ?」 「うむ、当然のご質問でしょうなあ。しかし、すべてをお答えするわけにはいかないんですよ。わたし自身には、当然して差し上げる義理などありませんから、もちろん依頼主がいらっしゃいます。ただ、ご存じでしょうが、弁護士には守秘義務ってのがありましてね。一つだけ申し上げられることは、こういうことを望んでいらっしゃる方が、この世のどこかに存在しているということです。ただまあ、こう言っちゃなんですが、どうせ金持ちの道楽なんじゃないですか? 正直、羨ましい限りですよ。叶うならわたしも、そんな人の一人くらい欲しいものだ……」 男はそう言って、苦々しげながらも笑顔を見せる。 それから手にしていたボストンバッグを持ち上げて、剛志の方に差し出しながら、さらに続けて言ったのだった。 「この中に、アパートに置いてあったノートや現金、あなたの身元を証明する書類関係などが入っています。それ以外のものについては、わたくしの方で大方処分させていただきました。それと、ただ寝かしておくのはもったいないんでね、ノートに書かれていた企業のいくつかへ、全額投資しておきましたから。もちろん、わたくしどももご相伴にあずかりましたが、それはまあ、手間賃くらいにお考えいただいて……。株券やらなんやら、その中にすべて入っていますから、今後はその金を使って、悠々自適に暮らされるもよし、それを元手に土地でも転がして、さらなる金持ちを目指されてもいいですし、まあ、お好きなように、生きてください……」 ――あんたは、あのマシンのことを、知ってるのか? 途中何度も言いそうになったが、すんでのところで勇気が出ない。 ただ実際は、聞いてみるまでもないのだろう。 この時代の剛志と、四十六歳の彼が同一人物だと知っている。 となれば、マシンの存在自体を知らなくても、時間移動のことくらい知っているはずだ。 ならば、彼も未来人か? さらに剛志を助ける金持ちだという人物、そいつもそうだと考えればだ、すべての辻褄が合うだろう。 ――見守っているのではなくて、きっと、俺のことを見張っているんだ……。 生活に困ったり、そのせいで何かしでかさないよう監視する。そうしていざという時に、姿を見せずに手を差し伸べるのだ。 しかしそれなら、高校生の剛志にまで資金援助したのはどうしてか? まだマシンの存在など知らないし、あの頃は伊藤が未来人だなんて考えてもいない。 ――未来が、変わってしまうからか? もしもあの時、剛志が高校を中退していたら、きっとそのまま児玉亭を継いでいる。 ――そうなったら、伊藤との約束だって、実行していたかどうか……? ちっぽけな店だからこそ、それだけのために休みになどしないだろう。それ以前に店が潰れていれば、もう約束どころではなかったはずだ。 ――きっと彼らにとって、昭和五十八年に現れる智子を迎え入れることが、何よりも大事なことだったんじゃないだろうか? 剛志は男が帰ってしまった後、ずっとそんなことばかりを考え続けた。 さらにボストンバッグの中身を知って、あの男が未来人なんだと心の底から確信する。 剛志は事故に遭った頃、すでに児玉亭への資金援助をしてしまっていた。もちろん切り詰めて生活していたが、日々の生活費だって馬鹿にはならない。あの頃きっと革袋には、せいぜい百五十万くらいしか残っていなかったと思うのだ。 ところがボストンバッグの中はというと、まったくそんなもんじゃない。 ――だいたい、あのノートを見ただけで、投資の対象だなんてどうしてわかる? だからこそ彼は未来人で、その確固たる証拠がこれなんだと剛志は思った。 ――いったい、いくらくらいになるんだろう? 今、株券やら登記簿謄本などが、ベッドの上に所狭しと広がっていた。その中に、一つだけ白い封筒があり、中にはA4の紙が三枚入っている。 それは剛志名義の資産一覧で、三枚目の紙には、証券会社や税理士の名刺がクリップで無造作に留められていた。 剛志はその中から証券会社の名刺を抜き取り、すぐさまナースコールで看護婦を呼びつける。 特別室である彼の部屋には、専用の電話機が備え付けてあった。 ところが彼一人では、電話台まで行くことができない。だからやって来た看護婦の肩を借り、剛志はなんとか車椅子に乗り込んだ。さらに電話台まで押してもらって、ようやく受話器を手にして電話をかける。 そうしてやっと、受話器から響く女性の声に、彼はいきなり告げるのだった。 「今、おたくにお願いしている株式ぜんぶ……すべて、売り払っていただきたい……」
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