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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第34回   第4章  1963年 プラスマイナス0 - すべての始まり ― 8 智子の両親
依然、智子は戻っていなかった。
 そしてまもなく、この時代で二度目の暑い夏がやって来る。
 剛志はどちらかといえば、もともとクーラーが得意ではなかった。それでもあのぼろアパートで夏を過ごし、クーラーのありがたみを初めて痛感したのだった。
 三日間降り続いた雨も、今日はやっとひと休み。どんよりとした雲の間から、時折夏を感じさせる太陽がコソッと顔を見せたりする。そんな日に、剛志はやはり部屋にいた。もちろん、児玉亭には毎日顔を出している。ところがそれ以外では、だいたい部屋でぼうっとしていることが多かった。そんなせいもあるのだろう。以前なら気にもとめなかったことを、ここ最近妙に意識したりするのだった。
例えば日が沈んだ後の暗さ。剛志が小学生の頃などは、そのせいでずいぶん怖い思いをしたものだ。両親二人して働いているから、しょっちゅう買い物を頼まれる。
「明日のパンがなくなっちゃったから、剛志、ちょっと行って買ってきてちょうだい」
 階段下から声が聞こえて、そんなのはだいたいが暗くなった後のことだ。
 ――あの頃は、本当に夜が暗かった。
 そして今、三十七歳になった剛志にも、この時代の夜は怖いくらいに暗く感じる。
 きっと街灯だけのせいではない。空の明るさ自体が決定的に違う気がした。
 特にどんより曇った日の夜は、昭和五十八年ならグレーがかった夜空が広がる。さらに地上が明るいせいか、雲の色がうっすら赤らんで見えることだってあった。
 ところがこの時代、雲が夜空を覆ってしまえば足元だっておぼつかない。それでいて街灯がところどころにしかなくて、それでもこの時代の親たちは平気で子供をお使いにやった。
 ただ、だからこそ星がたくさん見えるのだ。まだ光化学スモッグなんてのが発生していないのか……昼は昼で、空が記憶にあるものより段違いに青かった。
 ――俺はこんな空を見上げながら、いやでも、この時代で生きていくしかない……。
 あのマシンが戻らない限り、これはどうしようもない現実なのだ。
 それでももし、あのミニスカートが売れ出していれば、空を見上げている余裕などきっとなかったに違いない。
 ――時代を、俺が間違えたのか? それとも俺が来てしまったせいで……?
 何かが、大きく変化したのか? とにかく、売れない理由がわからなかった。
 売れ行きが悪い……では、まったくない。
店頭に置いてあった二週間で、見事に一枚たりとも売れなかった。
 業界で言うところの一番地、すなわち店内で最高にいい場所で打ち出されたのだ。ところが三日後には奥の方に追いやられ、返品となる数日前にはダイナミックに間引きされる。そうして残った数点も、大手メーカーの専属ラックに押し込められてしまった。
 きっと、何かを間違えた。
それでもあと五、六年もすれば、流行についての記憶も段違いにハッキリしてくる。けれどそうなった時、世界が記憶通りに動いてくれる保証はないし、さらにもし、剛志の記憶が間違っていれば、またまた小柳社長に悲しい思いをさせるのだ。
 ――もう二度と、彼に迷惑はかけたくない!
 だから誰もいない時間を見計らって、剛志は社長の机に辞表を置いた。迷惑をかけたという詫び状を添えて、さっさと庭にある事務所を後にする。
 それからすでにひと月経って、連絡先にしておいた児玉亭には何度か電話があったらしい。
 しかし剛志はそんな電話を無視し続けた。
そうして今日、この時代で正一と出会って以来、初めて林に向かって歩いている。
 きっともう、マシンは戻ってこないのだ。智子がマシンの操作を忘れたか、何かに邪魔され戻れなかった。だからと言って、すぐに何か始めようなんて気にもなれない。だからしばらくは、この世の中を観察し、もしも記憶通りに動くようなら、これ幸いだ。
 ――株でもいいし、土地だっていいんだ。
 その時点での残金すべて使って、記憶にあるベストの選択を繰り返していく。
 それでだめならサラリーマンにでもなればいいと、剛志はようやく腹を決めた。
 そうしてやっと、彼は林に行こうと思いつく。あの岩をちゃんと見届けて、この時代で生き抜く覚悟を刻み込もうと思うのだ。
 そして思った通り、やはりマシンは戻っていない。
一目見て、剛志はそんな事実をすぐ知った。戻っていれば、座れるはずのない岩の上に、俯き加減の男があぐらをかいて座っている。
 ――ああやっぱり、そうだよな……。
 それでもそれなりにショックは受けて、剛志は視線を落として下を向いた。
 そのままふた呼吸くらいして、再び顔を上げようとした時だった。
「あんた、誰だ?」
 微塵の好意も感じさせない声がして、見れば男が上目遣いに剛志を睨みつけていた。
「いえ、ちょっと……」
 剛志は思わずそう言って、とっさに何かを言いかける。すると俯き加減だった男の顔が、視線を変えずに正面を向いた。
 その瞬間、男がどうしてそこにいて、何ゆえ不機嫌そうかを思い知るのだ。
 ――おじさん、どうして……?
 まるで別人になっていた。血色のよかった顔は浅黒く、シャツから覗く腕は骨と皮だけになっている。男は智子の父親で、桐島勇蔵という名の弁護士だった。ただきっと、もう弁護士の仕事はしていない。現在の彼を目にすれば、誰もがきっとそう思うだろう。
 確か正一と同い年のはずなのだ。なのに見た目が一気に年老いて、老人と言ってもいいように映る。そんな彼が岩の上で立ち上がり、剛志に向かって大声をあげた。
「おい、おまえ! おまえもどこかの雑誌記者か!?」
 恐ろしい形相でそう言うと、あっという間にすぐそばまでやってきて、剛志の胸ぐらを力任せに両手でつかむ。それからさらに顔を突き出し、彼は次から次へとまくしたてた。
「おい! 何が聞きたい!? うちの娘が凌辱されているシーンを夢に見るかって聞きたいか? それともあれか? 殺されちまったところを、想像することがあるかって聞きたいのか? え? いったい何が聞きたい! なんでも答えてやるから言ってみろ!」
 そこまでは、まさに鬼の形相だった。
 ところが徐々に力みが抜けて、深い悲しみだけが滲んで残る。
「その代わり、その代わりにだ! 俺が話したことは絶対ぜんぶ記事にしろ! もし、適当なことを書いてみろ? 俺はおまえを許さない! どこまでも捜し出して、二度と嘘の記事が書けないようにしてやるぞ。だから書け。書いていいから、警察は何をしているって、何をやっているんだと書いてくれ。たった小娘一人捜し出せないで、何が警察だって……頼む! 頼むから……そう書いてくれ、頼む……」
 そこまでが、きっと限界だったのだ。急に黙ったかと思えば、彼はいきなりしゃがみ込んで苦しそうに咳き込んだ。
凌辱されているシーンを、夢に見ますか?
殺されたところを、想像したりしますか?
 きっとそんな問いかけは、実際にあったことなのだろう。
 剛志はこれまで、一切考えてもみなかったのだ。
確かに、智子は生きていた。しかしそんな事実を知らなければ、彼女と近しい人々の苦しみは解消されずにずっと続く。剛志が児玉亭で飲んでいる時間も、ミニスカートだなんだと動き回っている時だって、智子の母親は心晴れないままでいたはずだ。
 ――俺はどうして、あの家を訪ねてみようと、これまで一度も思わなかったのか?
 父親でさえこうなっている。ならば智子の母親は、今頃いったいどうしているか?
 無性にそんなことを知りたくなって、
「ぜひ、お話をお聞かせてください。できる限りのことは、やらせていただきますから」
 気がつけば、そんな言葉を口にしていた。そうして彼の後ろにそっと立ち、剛志はその背中に優しく手を置いたのだった。

 昭和三十九年六月、あと三ヶ月ちょっとで、待ちに待った東京オリンピックが開催される。しかし東京中が沸き返っていようが、勇蔵にはまるで関係のない出来事となるだろう。
 最初剛志はタクシーに乗って、成城に出ようと思ったのだ。まだ陽は高かったが、寿司屋に入れば酒は飲めるし、落ち着いて話を聞くことだってできる。
 ところが林を出たところで、「うちに、来ないか?」とポツリと言った。それから返事を待つこともなく、勇蔵はよろよろ自宅方面に歩き出した。
 剛志は一瞬戸惑ったが、ついて行けば智子の母親にだってきっと会える。
 ただ一方で、こんなにすぐ会ってしまうことに、多少の恐れを感じたりもしたのだ。
 ――きっと父親以上に、その苦しみは大きかったはず……。
 そうしてそんな恐れは、予想以上の現実となって剛志の前に現れた。

 思った以上に、家の中はきれいに片づけられている。
 ただテーブルに、ウイスキーの瓶と飲みかけのグラスが置かれたままで、酔った勢いで林にやってきたことがうかがえた。
「あの、奥様は……?」
 リビングに通され、いきなり出されたウイスキーをひと舐めしてから、剛志は黙ったままの勇蔵へそう切り出した。
「奥様は、お元気ですか?」
「あいつは……寝ている」
「具合が、悪いんですか?」
「悪いと言えば悪いし、そうでないと言えばそうではない。なんだ? 今度はうちの女房のことを載せるつもりか?」
「いえ、違います。そういうつもりじゃないんです。えっと……実は……」
 その瞬間、不思議なくらいスラスラと、頭に大嘘が浮かび上がった。
 昔から、奥様を存じ上げているんです――そこだけは、唯一本当のことだったが……。
「わたしの娘が、行方不明の智子さんと中学まで一緒でした。そしてあの事件の後すぐ、わたしらは仕事の都合で、この土地を離れることになったんですが、つい先日、転勤でまた戻ってくることになりまして……」
 そう続けて、剛志は深々と頭を下げる。するとすぐ、勇蔵の目つきが明らかに変わった。突き刺すような印象が消え、僅かながら目元までが大きくなったように見えるのだ。
雑誌の記者でないと知って、この時間を意味ないものと切り捨てるかとも思ったが、そんな心配はこの瞬間に杞憂となった。
 それからは、多少気を許したようで、勇蔵自らいろんなことを話してくれた。途中、家政婦だという女性が二人して、いきなりリビングに現れる。ところがチラッと目を向けただけで、勇蔵は二人になんの反応も見せなかった。
 家政婦を二人も雇う。となれば、やはり佐智は病気なのか?
 何気なくそんなことを思って、ふと、軽い気持ちで剛志は尋ねた。
「家政婦も二人だと、けっこうお金がかかるでしょう」
 すると、そんなことは知らんと言ってから、あらぬ方へ目を向ける。そうして視線を動かしながら、彼は剛志への答えを口にした。
「なんだかよくわからんが、昔、うちのに世話になったという女が来て、そうそう、ちょうどあんたと同じくらいの年頃だ。確か、役所に勤めているとか言ってたな。そいつがいきなり、ここにやって来てな……」
 身の回りの世話をさせてほしい、ぜひ、家政婦を受け入れてくれと言ってきたらしい。
にわかに信じ難い話だが、さらに費用もいらないからと、床に額を擦りつけんばかりに頼み込んだと言うのだった。
 そうして当初拒んでいた勇蔵も、そこまで言うならと受け入れる。すると今では、食事の世話から何から何まで頼むようになっているらしい。
 昔世話になって、その恩返しがしたい。
 父、正一にもそんな人がいて、そのおかげで剛志もずいぶんと助かった。
 ――この時代にはこの手の話、けっこう多かったのかもしれないな……。
 なんと言っても戦争があったし、きっと多くの人が誰かに助けられていたのだろう。そして、それから三十分も経たないうちに、勇蔵は酔いが回って目を開けていられなくなった。なんとか出ていた声も聞こえなくなり、気づけば完全に寝入ってしまう。
 だから剛志は仕方なく、起こさぬようにしてリビングを出た。それから家政婦に声がけしようと、長い廊下に立って「家政婦さん」と呼んでみる。
 ところが一向に返事は返らず、代わりに妙な物音が耳に届いた。
 見れば奥にある扉が開けっぱなしで、そこから聞きなれない音が響いている。さらに耳をすませば、物音に交じって唸り声のようなものまで聞こえてくるのだ。
 動物でも飼ってるのか? 一瞬そう思うが、決して犬猫の鳴き声なんかじゃない。
 ただ少なくとも、扉が開いているからには、そこに家政婦がいるのだろう。そう思うまま扉に近づき、彼は開け放たれた扉の先を覗き込んだ。
 ――ああ、やっぱり、ここにいたんだ。
 最初、目に飛び込んだのは、やはりさっき目にした家政婦の背中だ。その奥側にももう一人いて、同時に視界の隅に見知った顔が映り込んだ。
 その瞬間、剛志の心はあっという間に凍りつく。
 声をかけることも忘れ去り、ただただ目の前の光景に釘付けとなった。
 ずいぶん、変わり果ててしまっていたのだ。一見すると別人のようだが、それでもそれは、紛れもなく智子の母、佐智の顔だった。
 ベッドに寝かされ、家政婦が細長い管を彼女の口へ押し込んでいる。
きっと、相当苦しいのだろう。さっきの唸り声こそ佐智のもので、もう一人が彼女の両腕をしっかり押さえ込んでいた。
 少なくとも片方は、きっと本当の家政婦じゃない。
漠然とそんなことを考えながら、しばらく部屋の入り口からその様子を見守った。やがて喉から管が外され、と同時に佐智の呻き声もピタッと止まる。そうしてようやく、二人は入り口に立っている剛志のことにも気がついた。
 喉に詰まった痰を、取って差し上げてました……。
 そう言ってきたのは、やはり正真正銘の看護婦だ。
「ただここでは、二人とも家政婦ということになっていますから……」
 だから余計なことは口にするなと、無表情のままそんな意味合いを匂わせる。
 桐島佐智が、恍惚の人になっていた。
 恍惚の人――確か作者は有吉佐和子だったか……。
 剛志が就職してしばらくした頃、母恵子が真剣に読んでいたのを覚えていた。
 ドラマにもなったから剛志もストーリーは知っていて、痴呆の進んだ主人公があれ以降も生き続けていれば、いつの日かこの佐智のようになったのだろうか?
 声をかけても返事はなくて、もちろん話などできるはずがない。起きていることすべてを理解せずに、寝たきりで、時に探し物でもするように両腕だけを動かしたりする。
 歩けなくなってから、ここまではあっという間のことだったらしい。
「娘さんが行方知れずになる前から、きっと、徴候くらいはあったんだと思います……」
 さらにこんなことを告げられて、
 ――神に誓って、兆候なんかなかったさ……。
 心だけで、剛志はそう言い返すのだ。
 それからすぐに、勇蔵が寝てしまったと告げて、彼は逃げるように智子の家を後にした。
 外はまだまだ明るかったが、時刻は夕方五時を過ぎている。いつもならとっくに児玉亭にいる時間だが、どうにもそんな気分にぜんぜんなれない。
 もちろん、智子の母親のことも影響していた。ショックだったし、智子が知れば剛志以上に苦しむだろう。
 ただこの時、剛志の心を覆っていたのは、勇蔵が語った驚きの真実に他ならない。
きっと彼は途中から、話している相手さえ理解していなかった。でなければ赤の他人に話すはずはないし、話したところで意味があるとも思えない。
 ただなんにせよ、それは本当にあった過去の事実であるのだろう。そしてほんの一部に過ぎないが、正真正銘、智子の人生でもあった。

 終戦、間もない頃だった。
 桐島勇蔵は二十八歳。彼には心密かに、結婚したいと願う女性がいたのだった。
 それは住み込みで働く女中で、身寄りもなく、年もずいぶん若かったらしい。当然のように母親は猛反対で、勇蔵の知らぬ間に女性は他所へやられてしまう。
 仕事から帰ってその事実を知った彼は、その日から必死になって愛する女性を捜し回った。
 しかしなんと言っても昔の話で、さらに国中が大混乱という時だ。とうとう女性を見つけることは叶わず、失意のうちに母親の勧める藤間家の長女、佐智と結婚する。
 ところがそんな結婚から数年後、勇蔵は妻から驚きの告白をされるのだ。
「子供がな、できない身体だって言うんだよ。理由なんかは知らないが、ただ申し訳ない、離縁してくれって言ってな、くしゃくしゃな顔してわんわん泣くんだ。どうして急に、そんなことを言い出したのか、わしにはわからん。ただもしかしたら、わしが薄々そんなことを悟っていて、そのせいで冷たい態度を取っていたと、あいつは勘違いしたのかもしれん、な……」
 そこで勇蔵は言葉を止めて、遠くを見るような目つきを見せた。
 そうして再び剛志の方を見た顔は、ほんの少しの笑みさえ浮かぶ。
「ただな、それを聞いてわしは、逆にやっと、あいつと本当の夫婦になれるって思ったんだ。心の底では、母親にざまあみろと思いながらな。孫の顔は、一生涯拝めないぞって、笑い出しそうになって困ったくらいだったさ。ま、わしが弁護士になったのも、そんな母親の言いつけでね、あの人は姑が死んだ後は特にひどくて、何から何まで自分の思い通りになると、きっと本気で思っていたよ……」
 ところが妻からの告白で、母親の思い通りになりようもない現実を知った。
「まあ、それからだな……あいつにやっと、優しくできるようになった。きっとそれで、あいつも思っていたことを、わしに言い出せるようになったんだろう。それからしばらくして、また今度もいきなりだったよ。子供を育てたい、だから養子を取ろうと言い出してな。しかしあまりに突然だったし、他人の子供を育てるなんて、当たり前だが考えてもいなかったから、当然、わたしはすぐに断った……」
 ところがなかなか引き下がらない。
 一生のお願いだ、訪ねてみるだけでいいと泣きつかれ、勇蔵は結局、佐智の告げる孤児院まで付き合うことになったのだ。
「養子を取るつもりなんてさらさらなかったし、どうせ戦災孤児だらけの孤児院だ。ダニだらけシラミだらけで、近寄るだけで臭うようなのばかりだろうし、あいつだって、そんな現実を目の当たりにすれば、すぐに諦めるだろうくらいに思ってたよ。ところがだ。なんだろうかなあ……きっとこんなのが、運命とかっていうことなのかもしれんが、一目見て、この子だって思ったんだ。不思議なくらい、わしの心がざわついて、気がついたら、知らぬ間にその女の子を抱き上げていたよ、この、わたし自身でだ……」
 そんな勇蔵と同様に、その二歳になる女の子が佐智にも光り輝いて映ったらしい。
それからすぐに、二人はその子と養子縁組を結んだ。当然、勇蔵の母親は大騒ぎだ。約束が違う、子供ができないなんて聞いていないと、佐智の実家、藤間家へ怒鳴り込む寸前だった。
 しかしすんでのところで実行には至らない。それは勇蔵による宣言≠ノよってだったが、女の子の天使のような可愛らしさも、少なからず影響していたように思われた。
「あれだぞ、智子が一緒に住むようになってな、結局、一番嬉しそうだったのが母自身だったよ。もちろん最初の一週間くらいは、自分からは決して近寄ろうとはしなかった。しかしな、すぐにそんな抱き方はダメだとか、まあいろいろと言ってくるようになってな、それから、亡くなる寸前までずっと、何かと言えば智子、智子だ。最期の最期には、取り囲んだ親戚たちには目もくれず、うっすら目に涙を浮かべてな、佐智に向かって、ありがとうって、言ったんだ……」

 佐智を追い出すというのなら、わたしもこの家から出て行きます
 そんな勇蔵の宣言に、母親はすべてを受け入れていた。そして彼女の死後しばらくして、勇蔵は実家である屋敷を売り払う。その金で二子玉川と用賀に挟まれた住宅街に土地を買い、そこそこ大きい家を建てるのだ。
 その後智子は、自分が養子と知ることもなく、新しい土地ですくすく元気に育っていった。
 勇蔵も最初は、捨て子だったということから、
 ――変な血が流れている……なんてことはないだろうか?
 内心そんな心配をしたこともあった。しかし日に日に可愛らしさは増していき、小学校に上がる頃には圧倒的な賢さも明らかとなる。
 その後ますます養子という意識は希薄になって、彼の唯一の心配といえば、家にしょっちゅう出入りする悪ガキ≠セけになっていた。
「おい、あんな不良と一緒にいると、おまえまでおかしな目で見られるんだぞ」
「剛志くんは不良じゃないわ。それに、本当は頭だっていいのよ。今はちょっと口も悪いし……確かにあれだけど、いずれきっと、勉強だってするようになるんだから」
 そんな言葉を言い返したという智子は、今この時を、いったいどこで過ごしているのか?
 剛志は門を出て振り返り、昔から何度も見上げた屋敷に目を向ける。
そして智子の今を思いながら、やはり児玉亭とは反対方向へ歩き出した。


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