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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第32回   第4章  1963年 プラスマイナス0 - すべての始まり ― 6 剛志の勝負
 すでに八月が終わりを告げようとしていた。それなのに、夏は去りそうな気配を見せずに、夕方になっても優に三十度以上はありそうだった。
 あれから、二子玉川にある旅館に一週間ほど世話になって、その間に名井良明として住民票も手に入れた。アパートは児玉亭から少しばかり遠かったが、逆にあの林にかなり近く、急坂のすぐそばというところにあった。
 事件については、以前経験した通り、何もかもが闇のままで何の進展も見られない。事件のあった現場も今や自由に行き来できるが、以前のような人通りはなくなっていた。
 ただその代わりに、若い剛志がやたらと現れるようになったのだ。
 そうなると徐々に、児玉亭の息子がウロウロしている――そんな噂が囁かれ、名井良明となった剛志の耳にもあっという間に届くのだ。
児玉亭で呑んでいると、隣の客がヒソヒソ話しているのを耳にする。その瞬間、すうっと身体が沈んでいくような感じがして、自分でも信じられないくらいのショックを受けた。
 あの頃は、ただただ必死に智子の行方を探しただけだ。そんな彼を恐怖の目で見つめ、てんで的外れな噂話まで信じ込む。世間という現実を、彼はこの時、初めて思い知った気になった。
そしてきっとこの頃が、これまでの人生で一番キツかった時期だろう。
 そんなことを知ってはいても、彼にできることは何もない。だから自分のことだけ考えて、生活の基盤を整えるために日々行動していったのだ。
 そうして紹介されたアパートは、かなり年季の入ったトタン造りの建物だ。それでも前を通る道路は舗装され、この道を走って坂を上がれば林に続く道に出る。
 家賃だってべらぼうだ。剛志は最初その金額を、まさか家賃だとは思わなかった。
「で、あれだあ、ボロいのになんなんだけど、一応、二千円ってことなんだけど、いいかな?」
「もちろんけっこうです。わたしはもともと、どこの馬の骨ともしれないやつなんですから、手付けならもっとだって支払いますよ。ぜひとも、よろしくお願いします」
 申し訳なさそうな正一に、剛志は素直にそう言った。すると一瞬驚いたように、
「旦那、バカ言っちゃいけないよ、ここ一週間の旦那を見てりゃわかるんだ」
 正一はそう言うと、すぐに得意げな顔つきになる。
「旦那はね、きっとどこかのお坊っちゃんだ。きっと何か事情がおありで、ご両親のところを飛び出して、独り住まいをなさろうってんでしょ? それくらいね、このわたしにだってわかりますよ……あ、それと旦那、二千円ってのは手付けじゃない。家賃ですよ、あの野郎、あんなボロアパートなのに、頑として二千円から負けようとしないんだ。申し訳ないね、俺もここんとこ、剛志のことでいろいろあってさ、以前のようにね、そうそう強気に出れないんで……」
 女子高生の行方不明。それだってずいぶん足かせだろうに、さらに殺人事件となれば、どうしたって近所にあるアパートには大打撃だ。若い女性ならもちろんだし、元の時代で似たような物件に出くわせば、きっと剛志も二の足を踏んだことだろう。
 ただなんにしても、彼にとっては文句なしだ。だから一目で入居を決める。それからいろいろ考えた結果、やはり得意な世界で勝負をしようと思うのだった。
 剛志が働いていたアパレル産業は、けっして潰しが利くような業界ではない。
元いた時代では、DCブランドこそ注目され始めていたが、どちらかと言えば衰退期に向かい始めた業界だろう。しかしこの世界では、まったくもって事情が違った。
 昭和三十四年にレナウンが、業界で初めてテレビCMを放送する。そしてその数年後、まさしく剛志がいるこの年に、プレタポルテ時代が到来したと言われていた。この年から女性の既製服率が一気に上昇。それとともに、アパレル企業や婦人服専門店などが急成長していったのだ。
 ――この時代なら、上手くいくかもしれないぞ……。
 そう考えつつも、まったく新しいものは生み出せないと思う。ただ過去に流行ったトレンドについては、今でもしっかり頭の中に入っていた。ただしそんな記憶は会社に入ってからがほとんどで、今いる時代についてはかなり怪しい感じとなるのだ。
 それでも、何かあるはずだ。そう必死に考えて、彼はミニ丈のスカート一本で勝負をしようと決めるのだった。
もちろんそれ以外にも、アイビーやタートルが流行したなんて記憶もあった。ところがその時期自体がはっきりしない。ところが一方、若き日に流行ったミニスカートだけは、その時代も鮮明に記憶の中にあったのだ。
 暑い夏の日、まだパンティストッキングなど発売される前だから、スカートから伸びる生足にドキドキしたのを覚えている。
そしてこの時代に来てからも、ミニスカート姿の女性を一度も見かけていなかった。
 きっと流行り出したのは、東京オリンピックが開催された年。剛志の記憶が正しければ、来年の秋から冬にミニスカートは流行する。となればそんなに時間は残されておらず、彼は慌てて元の時代で付き合いのあった婦人服メーカーを訪ねるのだ。
 ところがだ。一代で築き上げた大きなビルが、そこには影も形も見当たらない。
「ミニスカートが大当たりしてね、おかげでその翌年、ここに今のビルを建てたんだ。とにかく飛ぶように売れたんだよ。お宅の店でサークルハンガーにぎゅうぎゅう詰めても、あっという間に空になっちゃう。あの頃、値入れが下がってキツかったけど、あれはなんといっても生地が少なくて済むからね、当然だけど利益もでかい。だからもしもあのヒットがなかったら、自社ビルどころか、会社自体がどうなっていたかわからんだろうなあ……」
 そこの社長が酔うたびに、剛志に向かってそんな話をしてくれた。
 だからこそ、この企画を持ち込もうと思ったのだ。しかしよくよく考えてみれば、ミニスカートのヒット前にビルが建っているはずがない。
 ――ミニスカートどころか、小柳さんはまだサラリーマンじゃないか……。
 ミニスカートが流行する少し前だ。社長だった小柳氏は、脱サラして小さなアパレル会社を立ち上げた。そして剛志が出会った頃には、大きな会社の社長として六十歳になっている。
さらに彼が会社を立ち上げた場所を、幸い剛志も本人から聞いて知っていた。
 小柳の家は千駄ヶ谷と原宿の中間辺りにあって、ごく一般的な住まいの割に庭だけがやたらと広かった。そんな住まいに剛志も何度か招かれていて、
「ほら、庭の奥に小さな小屋があるだろう? あそこが、俺の会社の原点だ」
 小柳社長が指差す先に、掘っ立て小屋のような建物がポツンとあった。
 剛志はそんなことすべてを思い出し、それから毎週彼の家まで通い始めた。
 もちろんチャイムなどは鳴らさない。今は影も形もないあの建物が、いつ出現するかが知りたいだけだ。そうして外出するたびに、この際だからといろいろなものも見て回った。
 そんな街歩きの最中に、彼は衝動買いでテレビを購入。始まったばかりのカラー放送対応で、二十一インチある最新式の価格はなんと二十万円という高額だ。
 十倍ということで考えれば、元の時代なら二百万だってことになる。なんとも恐ろしい金額だったが、とにかく剛志はテレビを通じて、この時代を何から何まで学んでいった。
 そうして半年近くが経った頃、小柳邸の庭に見覚えのある建物が現れる。あとは彼の会社が動き出すのを待って、信じてもらえるよう必死になって訴えるだけだ。
 普通に考えて、見ず知らずの男がどう説得しようが、ミニスカートが流行るなんて信じるとは思えない。
ただ、あの社長は違ったのだ。少なくとも信じた結果が、あの大きなビルになるはずだった。
 ――俺が高校生だった頃にも、もう一人の俺が存在していた。
そんな自分が小柳社長に掛け合った結果、ミニスカートが大ヒットして、彼の会社も急成長を遂げる。そこまで思って、剛志はやっとのことで気づくのだった。
 ――あの頃、あそこにいたのが、俺だったのか……?
 あの事件の後から見かけるようになって、店の奥でいつも一人静かに飲んでいた男。
 顔は浮かんでこなかったが、あれが今の自分だとここで初めて思い当たった。
するとそんな気づきに押し出されるように、記憶の端っこでくすぶっていたシーンが一気に脳裏に浮かび上がった。
 ――じゃあ、あれはいったい……いつのことだった?
 そこまで思って、部屋でいきなり立ち上がる。慌ててカレンダーに目をやって、
 ――そうだ。あの日も今日のように、真夏のような暑さだった。
 そう思った時には畳を蹴って、靴のかかとを踏みつけながら外階段を駆け下りる。
 その時ちょうど、一台の自転車がアパート前を通りかかった。
 いきなり飛び出た剛志を避けようとして、慌てて中年男がハンドルを切った。
 あ! と思った時には自転車は倒れ、男も地面に勢いよく転がった。
「この野郎! 気をつけやがれ!」
 と、背中から聞こえたが、立ち止まることなく走り続ける。そうして到着した先は児玉亭で、幸い常連たちもまだ来ていない。剛志は胸を撫で下ろし、いつもと一緒の一番奥に陣取った。
 それから普段より少し大きな声を出し、
「親父さん、瓶ビールください。もう、暑くて暑くて……」
 噴き出す汗を必死に両手で拭うのだった。
 それからいつものメンバーが一人二人とやって来て、ほどなく全員が顔を揃える。
 さらに何事もなく三十分くらいが経った頃、
 ――今日じゃ、なかったか……?
 そう思い始めたそんな時だ。
「おお! ムラさんじゃないか! 何そんなところに突っ立ってんだよ、早く入れって、そんなところに立たれてちゃ、またこの店、閑古鳥が鳴いちまうぜ!」
 そんなアブさんの声が響いて、剛志は慌てて顔を上げた。するとムラさんが店に入ってくるところで、伏し目がちに店の奥へ視線を向けて、さもバツが悪そうに呟いたのだ。
「正一さん……久しぶり……」
 そこからは、剛志の記憶にあるままで、すぐに厨房から高校生の剛志が現れる。
「何が久しぶりだよ! 今頃ノコノコとよく来れたもんだぜ!」
「よさねえか剛志!」
 後ろから響いた正一の声にも、彼の勢いは止まらなかった。
「金はちゃんと持ってきたのかよ? まさか殺人容疑者のいる店から、またタカロウって魂胆じゃねえだろうなあ?」
「よせって言ってるだろ!」
 ここでやっと確信に至った。
間違いない。もうすぐこの場で、ずっと後悔し続ける事件が起きる。
 ――この後すぐに親父の手が出て、俺は思わず、「何しやがんだよ!」って叫ぶんだ。
 それからたった数秒後、記憶通りのシーンに思わず身体が勝手に動いた。
 顔にガツンと衝撃があって、気づけばテーブル席に突っ込んでいる。
「こら! 剛志! なんてことしやがるんだ!」
 そんな声で一気に、失いかけた意識が我に返った。途端に店の客たちが集まってきて、剛志は何人かに抱き起こされる。そしてその時客たちは、「ミヨさん」「ミヨさん」と口を揃えて、大丈夫かと呼びかけた。
 あれは、剛志がこの時代にやって来て、まだ三日目くらいのことだった。
「考えてみりゃさ、剛志の事件騒ぎなんかもあったから、旦那の名前、ちゃんと聞いてなかったんだよな」
 なんて呼んだらいいのかと、正一が覗き込むようにしてそう聞いたのだ。
 だから剛志も一旦は、素直に名井と言いかける。ところがまさにその瞬間、なぜだか不意に言ってはダメだという気になって、剛志は急に口ごもり、それでも言葉を続けてしまった。
「みょ……、ミヨ、とでも、呼んでください」と誤魔化して、かなりぎこちない笑顔を見せたのだった。
「へえ、ミヨさんか。なんだか変わった名前だね、ミヨさん、ミヨさんね、よし! これから旦那はミヨさんだ!」
 そうして正一はその日から、彼のことをミヨさんミヨさんと呼ぶようになった。
 そのうちに、年の頃が同じくらいのフナが彼と話すようになる。そうなるとあっという間に、例のメンバーからもミヨさんミヨさんと呼ばれるようになっていた。


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