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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第31回   第4章  1963年 プラスマイナス0 - すべての始まり 〜 5 常連客と「おかえり」(2)
 旅館に着いて部屋に入ると、部屋の中央にポツンと小振りのお膳が置かれていた。見れば焼鮭に味噌汁、小鉢に煮物と漬物が載っていて、その横には小さな米びつまでがある。
 はて? と思い、女将を呼んで確認すると、
「こんなものしかできませんが、もしよかったら、お召し上がりくださいませ」
 そう言って、女将が深々と頭を下げた。
 朝食だけ、と言ってあったが、今夜はあんな大騒ぎで気づけば何も食べていない。当然腹は減っていたから、彼はその申し出をありがたく頂戴することにした。
 思えば昔の食事とは、どこの家庭でも多かれ少なかれこんな感じだったろう。
 もう一人の剛志もそうだったが、この時代の子供たちはまず痩せていた。あばら骨がくっきりなんてぜんぜん珍しいことじゃない。腹いっぱい食べてはいても、摂取カロリーがそれほどじゃないのか? あるいはきっと、それ以上に走り回っていたからだ。
そしてそんなことは、子供だけに限ったことではないのだと思う。
 朝からあちこち歩き回って、いわゆる肥満を見かけなかった。もちろん偶然そうだった可能性はあるが、それだって飲食の幅は決定的に違うだろう。
 牛丼どころか、ステーキハウスなんてどこにもない。
銀座辺りにはあるのだろうが、なんと言ってもこの時代だ。出入りしようとする人間は限られるし、店の数だって数えるほどしかないはずだ。智子が喜んだハンバーガーショップや、あっちの時代で隆盛を誇っているファミリーレストランもここにはない。あと十年近く経ってからやっと誕生するはずだった。
 幸か不幸か、お菓子だってなんだって二十年後とは大違い。
 剛志はふと箸を置き、隅に置かれている鏡台の前に行く。鏡に顔を映し見て、さらにこの時代で出会った顔々を思い浮かべた。
 もちろん剛志は肥満ではないし、三十六歳の顔にもそれほどくたびれた印象はない。かえってこの時代の同世代より、断然若々しく見えるくらいだ。
 それなのに、なぜか不健康であるような気がした。外見的なものとは別に、目に見えない何かが巣食っている。それが徐々に蝕んでいき、いずれ一気に身体の中で暴れ出すのだ。
 ただ、この時代は寿命だって短いし、何かにつけ不衛生に感じることも多かった。それでもなぜか、ここの人々の方が健康そうに思えてしまう。
 だからと言って、この時代に居たいというわけではもちろんない。会社の休みも今日までで、明日出社しなければ無断欠勤となってしまうのだ。
 さらに言えば、もしもあのマシンがこのまま戻ってこなければ……?
 ――俺はずっと、この時代で生きていくことになる。
 そんな覚悟などまだなかったが、もしそうなったらどうやって生きていくか? くらいのことは、今から考えておくべきだろう。そんなことを剛志は思って、小鉢に残ったたくあん一切れを口の中に放り込んだ。それから再び座り込み、さっき眺めた児玉亭の品書きを思い浮かべる。
 元の時代とこの時代、貨幣の価値はどのくらい違うのか?
 そんなことを意識しながら、彼は今日一日を過ごしていたのだ。
 渋谷で見知った商品の価格、そして児玉亭でじっくり眺めた品書きによって、彼はこの時代の価値を十倍くらいと当たりをつけた。
つまりこの時代で十円ならば、二十年後は百円ってことだ。
ただし児玉亭の品書きの中には、十倍どころか三倍にも満たないものだってあった。
昭和五十八年なら三百五十円とか四百円なのに、児玉亭では生ビールが百四十円もする。これで十倍だってことなら、ビール一杯が千四百円ってことになるだろう。
 そりゃあいくらなんでも高すぎるし、彼は学生時代実際に、耳にしたことがあったのだ。
「昔、ビールってのはさ、ホント、高嶺の花だったんだぜ。だからこうして、ビールと同じように麦芽とホップで作られたホッピー炭酸を、安かった焼酎の中に入れてさ、ビールっぽい感じを楽しんだってわけよ……」
 なんてことが本当かどうか知らないが、大学の先輩が自慢げに話していたのを覚えていた。
 確かに児玉亭では昔から――三十六歳になった剛志が覚えている限り――ビールを飲んでいる客は少なかったように思う。
 きっとまだまだこんなふうに、十倍からかけ離れたものだってあるのだろう。
しかし今この状況で、細かく考えたって始まらない。だからまずは少し多めに、ひと月四万円くらいは必要だろうと考える。となれば一年でざっと四十八万。十年ならば五百万近い金が必要だということだ。
 剛志はそこまで考えて、脱ぎ捨ててあったジャケットから革袋を引っ張り出した。
 中には一万円札の束が四つと、バラの千円紙幣五枚ほどが入っている。まだ三万と数千円程度しか使っておらず、残りのジャラ銭はポケットの中だ。
 厚さの感じからして、元はひと束百万円ってところだろう。
 そう思いながら、まだ手つかずのひと束を剛志は数えてみることにした。
 ところが何度数えても、百万には五枚ほど足りない。念のためもうふた束も数えるが、やはりどれも同じで一万円札が九十五枚だ。
 最初に使った束も九十五万だったのか? そう思うまま残った札を数えてみるが、やはり九十一万しか残っていない。つまり最初に使った束も、きっと九十五枚だったのだろう。
 ――なんとも、中途半端な金額だな……。
 そう思ってよくよく見れば、ずいぶん変わった帯封だ。白い無地でロゴ一つないし、そんな帯で巻かれた紙幣も新品ではまったくない。きっとこれは、銀行で用意された紙幣ではないのだ。
普通なら、帯に金融機関名が印字されているはずだし、もしかするとこの金は、伊藤がどこかの時代でかき集めたものなのか……そして理由はともかく、九十五枚ずつを手製の帯封でしっかり巻いた。
 実際昭和五十八年でも、まったく同じ紙幣が流通している。
そこから百万持ち込めば、この時代なら一千万ぐらいの価値になるだろう。だから未来から紙幣を持ち込んで、伊藤はこの時代で一攫千金を狙ったか?
 ――いや、違う。それならどうして、腹ペコの状態で智子の前に現れたんだ?
 それさえも演技だったか――などと、考えれば考えるだけ新たな疑念が浮かんでは消えた。
 ただとにかく、そんなわけで当分の生活費には不自由なかった。
 一年で四十八万なら、ざっくり八年間は何もしないで生きていける。
 ――でも……その後は、その次の八年間、俺はいったいどうすればいい?
 なんにしても、このままプラプラだけはしていられない。本当のところ考えたくはないが、長期戦に備えて住むところを探し、働き口の目安くらいは考えておきたかった。
 そしていざという時のために、革袋の金はできるだけ残しておこうと思うのだ。
 ――さっそく明日、児玉亭に行って、それとなく親父に聞いてみよう。
 新しい戸籍はあったが、できるだけ事をスムーズに進めたい。だから見ず知らずの不動産屋には頼まずに、まずは顔の広い正一に聞いてみようと素直に思った。
とにかくあの辺りから離れなければ、智子が戻った場合、その情報はすぐに伝わってくるだろう。そうなったら、何を差し置いてもあの林に駆けつける。そのためにも、できるだけ林に近いところにしたかった。それにしても……、
 ――今頃、あの時代でどうしてるんだ?
 岩倉邸に残った智子は、果たして無事でいるのだろうか? どう頑張ったって知り得ないそんなことを、剛志は旅館の一室で夜も更けるまで考え続けた。


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