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作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第30回   第4章  1963年 プラスマイナス0 - すべての始まり 〜 5 常連客と「おかえり」
    5 常連客と「おかえり」

「それじゃあ、わたしこれで、そろそろ失礼します」
 剛志がそう切り出したのは、まさに日が暮れかかろうというときだった。太陽が西の空に沈みかかって、それでも東方向には青空がしっかり見えている頃だ。
彼は五時ぴったりに児玉亭にやって来て、昨晩のお礼にと、スカーフやジョニ黒の入った袋を差し出した。
 二人は予想以上に驚いて、特に正一はジョニ黒を手に目を白黒させる。
「こりゃあたまげた。あんたって、本当はお金持ちだったんだねえ。だけどさ、これは受け取れねえよ。そうだな、かあちゃんのスカーフとまんじゅうの方は頂いとくけど、これはいい、これはいくらなんでも高すぎるよ。だから、あんたの気持ちだけ、有り難くもらっとくから……」
 正一はそう言って、手にしたばかりのジョニ黒をそのまま剛志に差し出した。
「あんた、紙袋に入れて差し上げないと、裸じゃおまわりさんに注意されちゃうわよ」
「おっとそうだな。おい、そっちの袋を旦那に差し上げてくれ」
 恵子に言われて、正一がテーブルに置かれた袋を指差した時だ。いきなり店の扉がガラガラっと開いて、アブさんがニョキッと顔を出した。
「よかったな! やっと剛志、釈放されるんだって? っていうか遅すぎるよなあ! だいたいあいつがさ、人殺しなんてするはずがないんだからよ」
 顔を見せるなりそう言って、
「今日は酒もツマミも、みんなで持ち寄ってやろうってさ、この辺りの連中に言いまくったからよ、だから店なんかさっさと閉めて、剛志の釈放祝いをパアッと盛大にやっちまおうぜ!」
 そう続けた時にはすでに、持ち込んだ一升瓶から酒をコップに注いでいる。アブさんの後ろにはエビちゃんやスーさんもいて、店はそれからあっという間に満員となった。
 結果、テーブル周りには立ち飲みまで出る始末。皆が皆、剛志が釈放されると聞いてやって来たご近所さんばかりだった。
 ただ唯一、店奥の二人掛けテーブルだけが例外だ。
 見知らぬ男が座っているせいで、そこには誰も近寄ろうとしない。
 もちろん男とは三十六歳の剛志のことで、彼だけが一人静かに飲んでいるのだ。
「なんかよ、派出所のオヤジが触れ回ってたらしいぜ。剛志が今夜釈放されるって。あれ? ここには連絡ないのかい? おかしいな……ガセってこたあないと思うけどなあ」
 聞いていないという正一に、アブさんが少しだけ不安な顔を見せた時だ。いきなり黒電話が鳴り響いて、厨房にいた恵子が慌てて駆け寄り受話器を取った。
 いつも通り「毎度ありがとうございます」と告げてから、続いて店名を口にしたところでだ。恵子の顔が一瞬固まる。みるみるその目に涙が溜まり、
「ありがとうございます。はい、はい、ありがとうございます……」
 何度もそう繰り返し、恵子はそのたびに頭を下げた。
 それは剛志の釈放を知らせる電話で、恵子は受話器を置くなりレジに近寄り、そこから千円札を何枚か抜き取る。それから「迎えに行ってくる」とだけ告げて、前掛けも取らずに剛志を迎えに出ていった。
 それからはまさに大宴会だ。ご近所連中は皆それぞれ、惣菜やら缶詰などを持ち寄っていた。だから正一がやきとりを焼こうとすると、「そんなことしなくていい」やら、「自分も飲め飲め」などと言ってくる。
 それでもこの日の正一は、剛志の顔を見るまで飲まないんだと決めていた。だから何を言ってこようと受け付けない。ところがそんな頑張りも、今宵も長くは続かなかった。
「俺はさ、剛志が優しいやつだって知ってんだ! あいつはさ、じいさんばあさんにだってちゃんと挨拶するし、この前なんて、裏のばあさんの荷物を持ってあげてさ、急坂の階段を一緒に上がってやったりさ……」
「そうなんだって! それにだいたい、あいつが智子ちゃんをどうこうするはずがないんだ。あそこまでほ≠フ字の女の子をだぞ、そんなこと絶対にありえないし、そもそもさ、智子ちゃんの方がよっぽどしっかりしてるしな」
 いつもボソッとした口調のフナだったが、この時は妙に自信たっぷりだ。そして続いたスーさんの声にも、誰もがそうだという顔をした。
 ――ちょっと待ってくれ? それじゃあ、あれか、俺が智子を好きだって、みんな知ってたってことなのか?
 そんな心の声に応えるように、さらにエビちゃんが続けて言った。
「そうだよね、智子ちゃんはいい子だもん、剛志が惚れちゃうのも無理ないって。だからさ、早く元気に戻ってきてほしいよ……じゃないとさ、僕だって困っちゃうよ」
「何しんみりしてんのさ、だいたいさ、あんたが最初に、正一を盛り上げようって言い出したんだろ? 大丈夫だって、剛志は釈放で、智子って子もすぐに見つかって、いよいよ万々歳ってことになるさ!」
 その声の主は初めて見る顔で、その後自分からスナック「夢振舞」の由美子と名乗った。
 兎にも角にも、剛志の気持ちはバレバレだ。その後もさんざん二人についての言葉が続いて、店の客がどうしてここまで? というくらいに剛志のことをよく知っている。
 さらに彼の釈放を本当に喜んで、同時に智子の安否を心の底から心配していた。
 ――どうして俺はこの人たちを、あの頃あれほど嫌っていたんだろうか?
 顔も見たくないと思った常連客が、こうなってみればなんとも愛おしいと感じてしまう。
「僕はさ、剛志がこの店を継いで一丁前になるまで、ずっと通い続けるからね。だから正一、おまえさんはいつ死んでも大丈夫だよ!」
 さらに、この頃まだ顔を見せていたムラさんが、そう言ってケラケラと笑い声をあげた時だった。正一が勢いよく立ち上がり、顔をあらぬ方へ向けて大声をあげた。
「ええい畜生! どいつもこいつも嬉しいことばかり言いやがって、今夜は本当にもう店じまいだ! 酒代はいらねえから、みんな、とことん飲んでってくれ!」
 そう言うとコップ酒を手にして、それを高々と頭上に掲げる。それから感極まったという素振りいっぱい、下を向き、震える声で「乾杯」と言った。すると申し合わせていたように、一糸乱れぬ乾杯の声が店内中に響き渡る。
 この瞬間、剛志の心も震えまくった。熱いものがグッとこみ上げ、気づけば目を開けていられない。慌てて顔を両手で覆い、そっと涙を拭き取った。
 ちょっと酔っ払って眠くなったな……。まさに、そういう感じを意識しながら、目では周りの視線に気を配る。が、幸い誰も見てなどいない。正一も違う方に目を向けていて、店内はさっき以上に楽しげなのだ。
 思えば、自分だけが部外者だ。
 ここにいる誰をも知っているが、向こうは誰ひとり自分のことを知っちゃいない。そんなことまで思ってやっと、剛志はこの場に踏ん切りをつけた。
 日が暮れればあっという間に、この時代の剛志が帰ってくるのだ。
 そうなれば当然、十六歳の自分と対面することになるし、それだけはどうしたって避けたいと思った。だから背後から静かに近づき、正一の耳元でこそっと呟く。
「それじゃあ、わたしはこれで、そろそろ失礼します」
 そう言った途端、正一は驚いたように振り返り、
「ダメだよ旦那。もうすぐうちの息子が帰ってくるから、ちゃんと紹介させてくれよ。生意気な野郎だが、頭だってそう悪くねえし、俺にとっちゃ出来がいいってくらいの息子なんだ。だからぜひ、会ってやってくださいよ」
 なんて言いつつ、剛志の飲み残したビールをグイッと一気に飲み干してしまう。
 それから空になったコップに日本酒を注いで、
「ねえ旦那、いいだろ? 俺の息子のために、涙まで流してくれる人をさ、そう簡単に帰しちまうわけにはいかないんだって……」
 低い声でそう言うと、剛志の前にそのコップ酒を突き出した。
 息子のために、大の大人が泣いている。そんな姿を眺めてたとあっちゃ、とんと気の回らない野郎だ――くらいきっと思ったに違いない。だからすぐに視線を外して、正一は見て見ぬ振りをしてくれた。
 ただとにかく、このまま居続けたらどうなるか? 剛志はとっさに考えたのだ。
 その瞬間、同じ空間に同じ人間――もちろん三十六歳になった剛志の方は細胞だってくたびれている。だからまったく同じとは言えないだろう――が、同時に存在することになる。
 もしかしたら、そういった不合理を防ごうとして、
 ――爆発が起きるとか、まさか、どっちかが消えちゃうなんてこと、ないだろうな?
 なんて思うと同時に、さらに突拍子もないことを思いついた。
 ――まさかあの二人、どっちも伊藤博志! だったんじゃないか!?
 違う時代から来た伊藤博志二人が、どのような理由であろうとあの林で出会ってしまった。
 ――だからって、どうして殺すなんてことになる?
 過去を生きる伊藤が殺されたなら、さらに未来を生きていた方は、
 ――その瞬間、消えちゃうってことだ……。
 過去の存在がなくなれば、当然それ以降の未来など訪れない。だから写真の男は忽然と消え失せ、その足取りは未だ不明のままなのか? そんなことを思えば思うほど、いよいよここにいちゃダメだという気がしてくる。
 ――やっぱり出よう!
 だからそう決めて、正一が背中を向けている隙にソッと席を立ったのだ。
 人と会う約束がある。そう告げて、何を言われても無視すればいい。そんな決心を心に思い、彼が足を一歩だけ踏み出した時だった。
 まるで後ろにも目があるように、正一の顔が剛志を向いた。
 なんという偶然か、それからあっという間に近寄ってきて、
「旦那、トイレかい? トイレならあっちだよ」と、厨房脇にある扉の方を指差した。だから慌てて首を振り、そのままさっきの台詞を口にしようと思うのだ。
 ところが正一の声が先に響いて、思わずその台詞を呑み込んだ。
「それじゃあ旦那、ちょっといいかな……」
 正面の席にストンと座って、
「もうすぐ息子が戻ってくるだろ? 俺はそん時、なんて言って迎えてやればいいのかな?」
 小さな声でそう言ってから、大騒ぎしている連中に目を向ける。
「こんなことあいつらには聞けねえしさ、どうかな? 旦那なら、なんて言ってやる?」
 すぐに剛志の方に顔を戻して、そんな言葉を真顔で言った。
 あいつは最近むずかしい。何を言っても返事はせいぜい頷く程度。そんな息子にこんな時、どう言ってやればいいか? と、剛志の顔を覗き込んだ。
 その瞬間、剛志の脳裏に過去の記臆が浮かび上がった。と同時に忘れ去っていた感情までが蘇り、それからそんな記憶に引きずられるように、ただただ素直に思ったままを声にした。
「おかえりって、ただ、そう言ってあげれば、……いいと思いますよ」
 ――実際あなたは、俺にそう言ったんだよ。
「そうだね……、そうだよ。おかえりって、ただそう言ってあげればいいんだよな。うん、その通りだ。俺はごちゃごちゃ考えすぎだな、いやあ旦那、ありがとう! 助かったよ!」
 急に声まで明るくなって、剛志に握手を求めて手を差し出した。
 そうしてこの後すぐに、十六歳の剛志が恵子と一緒に現れる。当然店内は大騒ぎとなって、そのドタバタに紛れて剛志は店を抜け出した。テーブルに千円札を一枚残し、その上にジョニ黒を重石代わりに重ねて置いた。
 二十年前のうろ覚えだが、真っ先にアブさんがジョニ黒を見つけて、正一が気づいた時には半分くらいになっている。
 ――それでアブさんはその千円札を、十六歳の俺に、コソッとくれたんだ。
「出所祝いだから取っとけって、後でオヤジさんには、俺からちゃんと言っとくからよ」
 あの時そうは言っていたが、どうせ忘れてしまったに違いない。
 そんなことを考えながら、多少ほろ酔い加減で川沿いの道を歩いたのだ。すると次から次へと新たな思いが浮かび上がり、剛志は途中何度も立ち止まっては考える。
 この時代で千円といえば、握り寿司なら五人前だ。ラーメンだったら何十杯だし、もちろんやきとり屋の勘定としては不釣り合いも甚だしい。
 ――もし、アブさんが千円札のことを伝えていたら、きっとあの親父のことだから、今度会った時に何か言ってくるだろうな……。
 二十年前にも現れていた三十六歳の自分は、次の日に、正一から何か言われたんだろうか?
 そんな疑問が浮かび上がって、そうしてやっと剛志は気がついた。
 もし今夜、剛志が金を払わずに、さらにあのウイスキーを置いてこなければ、今この時こんなことを考えてはいない。同じように、あんな助言をしなければ、正一はきっと別の言葉を十六歳の剛志にかけたろう。
 ――結局、俺があれを言わせたんだ。
 ただおかえりと、伝えればいい。そんな助言をまともに信じ、そっくりそのままを口にした。
 そんな安易な言葉を受けて、今頃もう一人の剛志は思っているはずだ。
 やっぱり、あいつは俺なんかより、この客たちの方がずっと大事なんだと……。そうして彼はこれ以降、ますます店の客のことが嫌いになった。
 ちょうど正一の手が差し出されたあの時、いきなり扉がガラッと開いて、そこに十六歳の剛志が立っていた。想像していた以上にガリガリで、あれが俺か……? そう思って正一を見ると、彼はチラッとだけ息子の方に目を向けてから、
「あれが、俺の自慢の息子、剛志ですよ、旦那……」
 そう言ってすぐ、また正面にいる剛志の方に向き直った。それからはまさに記憶の通りで、大騒ぎの中、彼は店からコソッと抜け出したのだった。


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