第1章 1963年 プラスマイナス0 - すべての始まり
カスリーン台風から十六年後、 時はすでに昭和三十八年なっていた。 世田谷区の外れで大火事が発生し、そこへ向かおうとする記憶を失った男と、少女……。
1 二年前
昭和三十六年も終盤となり、これからどんどん寒くなる、十一月初旬のことだった。 世田谷区の外れも外れ、多摩川を越えれば川崎市という辺り、まだまだ人々の生活は貧しく、皆食べるために一生懸命働いていた。 丘の上には、裕福そうな住宅もあるにはあった。しかしそこから坂を下れば、バラックのような小屋も散見され、まだまだ戦後の匂いを色濃く残す時代だった。 雨が降れば土の道はぬかるみ、日が暮れると月明かりなしでは辺りは真っ暗。 もちろん道のところどころを笠付きの裸電球が照らしはする。ところがそんな光は弱々しく、辺りをぼうっと浮き上がらせるだけなのだ。 しかしながらそんな時代にも、明るい話題はけっこうあった。 ファイティング原田がボクシングで世界チャンピオンに輝き、東京が世界初の一千万都市になった。大東亜戦争によってへし折られた人々の気持ちは、世界という価値観の中で、徐々に元気を取り戻していく。そしてさらに、二年後に迫った東京オリンピックは、日本人に未来への希望を思う存分感じさせた。 この時代、スーパーマーケットなどはなく、何日分もの食材を車で買いに行くこともない。それどころか、車を所有している家庭自体が珍しい頃だ。 そんなだから、午後になって気温が上がってくると、一斉に買い物かごを提げた主婦たちが姿を見せる。それから一、二時間くらいが、町が一番活気づく時間となるのだった。 そんな賑わいも終盤という頃、ふらっと一人の男が商店街に現れた。雲一つない晴天ではあったが、誰もが厚手のセーターやオーバーコートを着込んでいる。 そんな中、男は防寒着の類を一切着ていなかった。 ハイゲージのセーターなのか? はたまた地厚のカットソーか? 身体にフィットしたハイネックを着て、ズボンもまとわりつくように細いものだ。それでいてやたら身長が高く、さらにガリガリに痩せているから、まるでかとんぼ≠ェ歩いているように見えてしまう。 しかしそれだけのことなら、「あら、変わった格好……」なんて思われるか、「寒くないのかしら?」と、心配されるくらいのことだろう。 ところがそんなことではぜんぜんないのだ。 男はまさにトボトボと歩き、時折立ち止まっては店先に目を向ける。それからジッと売り物を凝視するもんだから、気づいた主婦たちはことごとく距離を取った。そんなことが八百屋、肉屋と続いて、やきとり≠ニ書かれた赤提灯の前でまた立ち止まる。 そこは昼間こそ定食屋だが、夜になるとそこそこ人気の呑み処となる。そしてちょうどその時間、夕食の惣菜用に焼き始めたところで、換気口から芳ばしい香りが流れ出していた。 一見、ただ立って、考え事をしているようにも見えるのだ。 しかしここ十分眺めていれば、そうではないことは一目瞭然。 ――やっぱり、お腹が空いてるのかしら? そんなことを思ったのは、ここ数分、男の様子を見守っていた中学三年生の桐島智子だ。 やきとり屋の先にある公園入り口で、彼女はやって来るはずの幼なじみを待っていた。 いつもなら今時分、とっくに現れている頃なのに、 ――まったく! 何してるのよ! そんなイライラの最中、智子はふと、男の存在に気がついていた。 初めは単に、その背の高さに驚いたのだ。二メートルとまではいかないが、幼なじみより頭一つ分は高く見える。そんなノッポの男がフラフラ歩いては立ち止まり、物欲しそうに目を向けるのが店先に並んだ食べ物ばかりだ。 そんなのを見ていて、智子はすぐに幼なじみのことを思い浮かべた。 この時期だと肉屋の揚げたてコロッケや、店先のケースに並んだホカホカ中華まんだ。そんな熱々たちをジッと見つめて、「腹減った!」やら「これ食いてえ〜」だなんて大声を上げる。 そんな幼なじみが、立ち尽くす男の姿に見事ダブって見えたのだ。 男は智子が見守る中、名残惜しそうに提灯の前からゆっくり離れ、再びヨタヨタ彼女の方に歩き出した。やきとり屋は商店街の端っこにあって、そこから先は公園や住宅だけが立ち並ぶ。 だから、まさかと思っていたが、 ――え! まだこっちに来るの? さらに近づこうとする男の姿に、そこで初めて少しばかりの恐怖を感じた。 ところが次の瞬間だ。そんなヒヤッとが消え去る寸前、男の脚がカクンとなった。 ――何! なによ!? 何事が起きたかと、道路の真ん中に走り出る。そうして初めて、智子は男を真正面から眺めることになった。 男は地面に両膝ついて、顔は天へと向けている。これで両腕を掲げていたら、まるでお天道様に祈りでも捧げているようだ。しかし腕は垂れ下がったままで、さらに今度は顔がストンと真下を向いた。その瞬間、智子は一気に覚悟を決める。 男の目の前まで走って行って、心に浮かんだままを口にした。 「あの、よかったら、わたしのお弁当食べませんか?」 膝をついているのに、男の顔は智子とそうは変わらない。そんなすぐそばにある顔が、その一言で智子の方をパッと向いた。 この瞬間、智子の驚きだってそこそこだ。 ところが男の驚き方は、それ以上にものすごかった。 まるで化け物でも見てしまったように、大声を上げ、そこから一気に飛び退いてしまう。 似ている女性を知っていて、どうしてこんなところに? と驚いた。 この時のことを、彼は後々こんなふうに言い訳をする。 それから智子は公園のベンチに男を座らせ、幼なじみのために用意した手弁当を男の前に差し出した。 もしもこの日、幼なじみがいつも通りに現れていたら、この男の今後は大きく変わっていただろう。 幼なじみはその日、補習授業があることを智子に伝え忘れていた。だから必死になって走ってきても、当然智子の姿はいつものところに見当たらない。 「くそっ! いないんなら走ってくるんじゃなかった! 走った分、余計腹が減っちまったじゃないか!」 などと、彼は誰もいない公園で、なんとも悔しげに大声をあげた。
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