「あんたの名前は、名井良明≠ネんだよ……」 そんな最後の台詞は、まったく意味不明なものだった。その後、何が何だかわからないうちに釈放となり、見ず知らずの男が剛志のことを待っている。 「そう、これからあんたは、名井良明になるんだよ。もしこの名前が気に入らないなら、それはそれで構わないがね。ただそうなるとあんたは、この日本で生きていくのが難しくなるんじゃないか? まあもっとも、この名前も決して、安全ってわけじゃあないんだがな……」 警察署を出るとすぐ、男はいきなりそんなことを言ってきた。署内での口調とガラッと変わって、なんとも唐突に感じが悪い。病院関係者だと紹介されたが、すぐに自分から大嘘なんだと言って笑った。 「あんたには、重度の精神病患者になってもらったよ。今はまだ薬が効いてるけど、これが切れたら、まあ大変なことになるってね、担当の刑事さんたちをさんざん脅かしたんだ。それから、刑事さんが病院に電話を入れたりして、それでなんとか、ちゃんと信用してもらえたよ」 男は早足に歩きながらそう言って、スーツのポケットから白っぽい何かを取り出した。 「まあ実際にはこの写真と、額に古傷ってのが一番、効いたんだろうけどねえ〜」 妙にもったいつけた言い回しとともに、手にあるものをチラッとだけ剛志に向ける。 それは、ほんの一秒くらいのことだった。 それでもたったそれだけで、それがなんだかすぐにわかった。 「ちょっと待ってくれ! いったいどうして、それをあんたが持ってるんだ!?」 思わずそう声にして、どうしてこいつが手にしているか? 頭で必死に考える。 そもそもこれは、この時代にあってはならないものなのだ。 「どうして、俺の写真を持っている!」 葬式の時の写真だった。上半身だけを引き伸ばしたせいで、見るも無残なくらい画質が荒れてしまっている。それでも確かに、つい数年前の自分の顔には違いない。 ところがこの時代では、数年前でもなんでもないのだ。 ――俺はこの時代で、まだ高校生にもなってない。 それどころか、母親の恵子だってピンピンしている。本当ならこの写真には、周りに人がたくさん写っていて、腹辺りには恵子の遺影があったはずだ。 「あんたはいったいなんなんだ? 身分証を見せてくれ。あるんだろ? じゃなきゃこんなにあっさり、警察が釈放なんかするはずがない」 「身分証? そんなものあんたが見てどうするんだ? それともあれか? 身分証が偽物だから、もう一度捕まえてくれって言いにいくか? まあ俺としては、ほんとのところどっちでもいいんだけどな……」 そう言って鼻で笑う男は、明らかに剛志よりも年下だった。三十歳になっているかどうか、長身で体格も良く、この時代にしては珍しいくらいにスーツ姿が決まっていた。 きっと黙って立っていれば、弁護士やエリート証券マンくらいにきっと見える。 そんな男がどうして、危険を冒してまで剛志を助けてくれたのか? その辺の問いには一切答えず、男はしばらく黙ったまま剛志の前を歩き続けた。一方剛志もこの段階で、男について行く以外に選ぶべき道はない。そうして五分くらいが経った頃、男が唐突に立ち止まる。それからゆっくり振り返り、不機嫌そうに声にした。 「まずはこれに乗ってくれ。くわしい話は、それからだ……」 そこは住宅街の一角で、そう言う男のすぐ横には、この時代には珍しい高級外車が停まっていた。元の時代のものより大きく見えて、これこそ外車だっていう重厚感が感じられる。 剛志が助手席に腰掛けるなり、男は膝の上目がけて茶封筒を放ってよこした。そこから中身を取り出すと、男は打って変わって静かな口調で話し出した。 「それが、あんたの新しい戸籍謄本だ。もちろんそいつは生きちゃいない。ただ、その死に方がちょいと問題でね。そいつの地元には近づかないってのは当たり前だが、派手なことにも、あまり首を突っ込まない方がいいだろうな。この名井ってのに、息子を殺されちまった野郎が、憎っくきその名前を忘れるはずがないからね。まあこんなのは何十年も前のことだから、静かに暮らしている分には問題ないと、思うけどな……」 広島のヤクザ抗争が関東に飛び火。その煽りを食らって殺されたのが、関東で急成長を遂げていた新興組織、荒井組組長の一人息子だったらしい。 「ちょうどけっこうな台風が関東を直撃してな、広島から派遣されたそいつは、その日、多摩川をずいぶんと流されたって話だ。まあ結局、どこからも死体はあがらなかったらしいから、この際、名井って奴になりきって生きてやれば、死んじまったそいつだって、きっと少しは喜ぶんじゃないかね……?」 「ちょっと待ってくれ……そんな人の戸籍が、どうしてここにあるんだ?」 「どうして? その辺はさ、あんたが知ったからって意味はないだろう? どっちにしろ今のあんたは、その戸籍が必要に決まってるんだから。なあ、そうだろ?」 そこで剛志は我慢できずに、 「知ってるのか? 知っていて、あんたはこんなことを?」 ずっと頭にあった言葉をここぞとばかりに口にしてしまった。 ところが男は答えるどころか、 「さあ、これで話は終わった。さっさと降りてもらおうか……」 前を向いたままそう言って、いきなり車のエンジンをスタートさせる。 「ちょっと待ってくれって……せめて、あんたの名前を教えてくれないか?」 そう訴えても、男は前を見つめたまま微動だにしない。 結果剛志は、それから一分もしないうちに車から一人降り立った。そして走り去る外車を見送りながら、謄本を戻そうと茶封筒を持ち変える。するとそこで初めて、まだ封筒に何か入っていることに気がついた。逆さまにして二、三度振ると、薄汚れた名刺がストンと落ちる。 名井良明。たったそれだけ大きくあって、あとはなんにも書かれていない。 ――いったい何が、どうなってるんだ? そんな思いに支配され、剛志は暫しその場に立ち尽くした。
そうしてちょうど同じ頃、男の乗っていた外車がバスのロータリーに停車する。 男は車から降りると、最近設置された電話ボックスへ一直線に向かった。クリーム色のボディに赤い屋根のボックスに入って、十円玉を入れると何も見ないままダイヤルを回す。 するとすぐに相手が出たらしく、男は受話器を握ったまま頭を何度も下げるのだ。 そんな態度は剛志へのものとは大違い。よほど大事な相手であるのか、その言葉遣いもまるで別人のようだった。 「……はい、病院の方も問題なしです。いえ、元気いっぱいという感じじゃないですが、それでも、それほど混乱している印象はなかったですね。はい……はい……わかりました。それでは、この後も予定通りで……」 そう言って、男はふた呼吸ほど待ってから、手にしていた受話器をフックに置いた。 ポケットから煙草を取り出し、ダンヒルのライターで火をつける。そのまま煙をひと息吸い込んでから、男は美味そうに白い煙を吐き出した。 そうしてようやく扉を押し開け、彼はその電話ボックスから出ていった。
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