まるで学者のような見識かと思えば、ごくごく一般的な知識が欠けていたりする。 彼の時代には呼び方自体が変わったのか、沖縄という地名さえ出てこなかったらしいのだ。 もしかしたら、現代とは比べものにならないくらい専門性が進んでいて、そんな常識など必要としないのか……。 どちらにしても、伊藤が未来人であるのは疑いようがないだろう。 それでも、どうにもおかしいと感じることがある。 中止にならないオリンピックを、どうして中止になると言ったのか……? あの事件の翌年、確か十月の土曜日だったと思う。剛志は開会式の中継を一目見ようと、珍しく寄り道せずにまっすぐ家に帰っていた。まだまだ事件のショックを引きずってはいたが、日本で開かれるオリンピックにワクワクしていたのも事実だった。 家に帰るなり14インチテレビにかじり付き、開会式が始まるのを今か今かと待ったのだ。 この時の興奮を、剛志は一生忘れないと思う。 昭和天皇の開会宣言の後、国立競技場の上空に五輪の輪っかが浮かび上がった。 スタジアム上空三千メートルに、五色のスモークによって五輪の輪が! ――と、こんな感じのアナウンスを聞いて、彼は矢も盾もたまらず表に飛び出したのだ。母親の草履を突っかけて、商店街を抜け川土手までを必死に走った。そして土手の上から目を凝らし、遠く空の向こうに確かに見えた。 見えた! 見えた! この喜びを早く誰かに伝えたい。 そんなワクワクいっぱいで、剛志は来た道をさっき以上に慌てて戻った。 店の方から飛び込んで、仕込み中だった正一へ喜び勇んで告げたのだった。 「見えた! 国立競技場の輪っかが、土手の上からもちゃんと見えたよ!」 この時、店のテレビも点いていて、剛志の言っている意味がわかったのだろう。正一はほんのちょっと顔を上げ、「ほお、そうか」と嬉しそうに声にした。 今になって思えば、高校二年生の割にずいぶん純粋だったと思う。しかしあの頃は剛志だけでなく、学校中みんなが同じように興奮していた。日本中の老若男女が、オリンピックに酔いしれていたように思うのだった。 それでも国立競技場の上空は、剛志の住んでいた町から二十キロ以上離れている。 ブルーインパルスが描き出したスモークの五輪が、あの時本当に見えたのかどうか、今となってはかなり怪しい感じがした。 だとしてもだ。あの年に、オリンピックは開催された。 昭和三十九年、西暦1964年に東京オリンピックは開催され、日本はアメリカ、ソビエトに続いて金メダル十六という偉業を達成。たった十五日間のことだったが、日本中が本当に盛り上がっていたのだ。だから金メダルの獲得数は知らなくても、オリンピックがあったという事実を知らないなんて、普通はない。 一方確かに、昭和十五年に予定されていたオリンピックは、支那事変の影響やらで中止にはなった。彼はそれだって知っていたろうに、その後のオリンピックまでが中止になるとなぜ言ったのか? 支那事変は確か、昭和十二年の七月に始まった。 それからちょうど一年後、昭和十三年にオリンピック中止が決定する。 剛志はそんな史実を心に思って、昭和十三年とは、終戦年の何年前かを思い浮かべた。 戦後二年でこの世に生を受けたせいで、剛志は何かというと、終戦年を基準に考えてしまう癖がある。 終戦は昭和二十年夏のことだから、つまり中止になったのはその七年前だ。 そう思ったのに続いて、慣れ親しんだ西暦がフッと頭に思い浮かんだ。1945年の七年前、そんな数字が浮かんだその時、ストンとある想像が降って湧いた。 ――まさか勘違い、だったのか……? あの火事は、昭和三十八年の三月だ。だから伊藤がオリンピックを話題にしたのも、同じ三十八年だということになる。 戦前のオリンピックが中止になったのが、昭和十三年である1938年。 ――もしも1938年と、昭和三十八年を取り違えたんだとしたら……。 戦前の騒ぎと混同したなら、中止と言い切ったところで不思議じゃない。 そして、彼はさらに言っているのだ。 「でも大丈夫、日本ではあと四回も開催されるからね。二回は東京で……」 その後の二回は、なんと東京以外で開催されると断言する。 つまり四回のうちの一回は、きっと三十九年に行われたものだ。そしていつのことかはわからないが、少なくとも智子が年老いてしまう前に、もう一回東京オリンピックが開かれる。ならば剛志だって生きているだろうし、今度こそ、二度目のオリンピックを間近で観戦できるのかもしれない。 きっと、そういうことなのだ。 伊藤は大いなる勘違いを犯した。 となれば、智子が昭和五十八年にやって来たのも、同じようなミスを犯したんじゃないか? 火事から智子を救おうとしたなら、昭和三十九年だってよかったはずだし、さらに言うなら、次の日くらいにしておいてくれれば、智子もこんな経験せずに済んでいる。 彼女によればあの時、あの辺りは見渡す限り火の海だったらしいのだ。さらに伊藤自身にも危険が迫っていたろうし、どちらにしても余裕のあるような状況じゃない。 そもそも伊藤は、どうして殺されなくちゃいけなかったのか? ――あいつはいったい、何者なんだ? そして火事の日、ナイフを振りかざしていた写真の男も、やはり未来から来たのだろうか? すべてが謎で、断言できるところなどほとんどない。それでも……唯一、 ――遠い未来では、日本人もあんなに背が高いんだ……。 そんなことだけは、素直にそうなんだろうと思うことができた。 一方剛志は残念ながら、いわゆる現代の日本人を代表するような体型だ。 身長は一メートル七十センチギリギリあるが、脚はお世辞にも長くない。最近は腹に肉も付いてきて、まさに中年オヤジに片足以上突っ込んでいる。 それでも同世代の平均身長より五センチ高いし、幸い髪の毛だってフサフサだ。とはいえ十六歳だった自分と比べりゃ、お世辞にも若いだなんて言えやしない。 もちろん智子の方だって、あの頃の剛志の方が百倍いいに決まっていた。それになんと言っても、あの時代の剛志も、智子が戻ればどんなに喜ぶことだろう。 ――そうなれば、俺の人生だって違ったものになっているかも……? 彼女が過去に戻った途端、三十六歳の智子がこのマンションに現れるのか? それとも有名デザイナーとかになっていて、バリバリの独身だなんて方が断然可能性高そうだ。 さらにそんな時、新しく生み出された記憶は一瞬にして入れ替わるのか? ただ、どうなってしまうにしても、剛志の思うベストは一つだけだ。 智子を元の時代に送り届けて、本来あったはずの時の流れに戻したい。 そう思い至って、剛志はそれ以上考えるのをやめた。そして眠そうな目をしている智子へそろそろ寝ようと告げたのだった。
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