20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら 作者:杉内健二

第19回   第3章  1983年 プラス20 - 始まりから20年後 ~ 4 十六歳の少女
4 十六歳の少女

 かなり動揺していたが、成城に到着する頃にはずいぶんと落ち着きを取り戻していた。
 もちろん本当は、今でも不安でいっぱいだろう。それでも智子はタクシーを降りると、
「すみません、お借りしたハンカチ、どこかでちゃんと洗って返しますから」
 元気よくそう言って、剛志にチョコンと頭を下げた。
 そこは駅前、街灯のすぐ下だ。剛志はそこで改めて智子の立ち姿に目をやった。
 元はきっと白かったのだ。しかし乾いた泥で覆われて、運動靴に白いところは残っていない。セーターにもあちこちに草木と擦れた跡があり、さらに転んで付いたのか、スカートには茶色い土がしっかりこびりついている。
 そんな自分の姿に、智子はきっと気づいていない。
 ――まずは、彼女の格好をなんとかしなきゃ……。
 剛志はすぐにそう考えて、思ったままを智子へ告げた。すると彼女も自分の姿に十分驚き、
「さっきのタクシーの座席、きっと汚しちゃったわ……どうしよう……?」
 そんなことを呟きながら、スカートに付いた土を必死になって擦り始める。
 剛志はそんな仕草が愛おしく、智子を思わず抱きしめたいなどと思ってしまった。
もちろんそんなことをしてしまえば、智子はきっと大声をあげ、その後はどうなってしまうか見当もつかない。だから己の感情をグッと堪え、平静を装い智子に言った。
「服を買いましょう。このすぐ近所に、昔会社で一緒だった女性がやってるブティックがあるんですよ」
 ただし店では、今日あったことは内緒だと続けて、
「親戚だってことにしましょう。僕が適当に説明しますから、あなたは黙って、ただ笑っていれば大丈夫……」
 そう言った後、財布にいくら入っていたかを思い浮かべた。
 こんなこともあろうかと、十万ちょっとくらい入れてあったはずだ。しかし成城にあるブティックの中で、その店は十分高級な部類に入るのだ。
 ――十万じゃ、足りないか……?
 三月とはいえまだまだ寒い。していたはずのマフラーも消えて、智子はコートさえ羽織っていない。
 ――もし足りなければ、明日、持ってくるからと頼んでみよう。
 彼は素直にそう思って、人通りの少ない道を選んでブティック目指して歩いていった。
 前触れなしの登場に、店主はその目を白黒させる。それでもすぐに、入り口に立つ剛志を見つめて嬉しそうに笑って見せた。それからひと通りの挨拶を交わし、いよいよ智子のことを切り出そうとした時だった。
「あら、可愛い……こちら、児玉さんのお嬢さんです? あれ? ちょっと待って、児玉さん、結婚してましたっけ?」
 五年前まで、剛志のアシスタントだった店主、藤本早苗が、真剣な顔でそんなことを言ってくる。だから剛志は慌てて、用意していた言葉を捲し立てた。
「違う違う! 昔世話になった親戚の娘さんだよ。ここにくる前にね、彼女つまずいて転んじゃって、服を上から下まで汚しちゃったんだ。だからすまないけどさ、彼女に似合いそうなやつを見繕ってもらえるかな……?」
 すると店主は、智子の姿を上から下までササッと眺める。
「ふーん、親戚の娘さん……そうですか、了解です。それじゃあとにかく、上から下までぜんぶってことで、いいんですね?」
 藤本早苗はそう言ってから、
「下着はどうします? うちの下着って、どれもセクシー系になっちゃうんですよ……」
 スッと耳元に顔を寄せ、そんなことまで聞いてきた。
 正直、下着のことまで考えてはいなかった。だがなんにせよ、彼女のセンスは信用できる。だからすべて任せるからと、
「とにかく、彼女と二人で決めてください。たださ、これで足りなかったら、明日にでも払いにくるから、不足分は一日だけ、ツケにしといてもらえるかな?」
 剛志はそう言って、札入れごと店主に預けようとした。
 そんな彼に、彼女は明るく言って返す。
「いいですって、児玉さんから儲けようなんて思っていませんよ。後日、仕入れ原価を計算してお知らせしますから。さあ、お財布なんてしまってください……」
 請求書を送ってくれると言って、一切金を受け取ろうとはしなかった。
 それから近所の本屋で時間を潰し、三十分ほどしてからブティックに戻る。すると智子が新しい服に着替えて、ちょうど鏡の前に立っているところだ。
 さすがに、十六歳にはちょっと大人っぽい感じはする。それでもラベンダーピンクのセーターに真っ白なコートは、十分智子に似合って見えた。それからニットの手袋と同系色のベージュのスカート、その下には、いかにも学生らしいペニーローファーを履いている。
 やがて後ろから見られていると気づき、智子が慌てて振り返る。そして剛志を見るなり何事かを言いかけるが、それを制するように剛志が先に口を開いた。
「いいじゃない、よく似合ってるよ」
「でもこれって、いくらなんでも高すぎます。このコートなんて……」
 きっと途中で、傍に立っている藤本早苗を気にしたのだろう。そこで息を吸い込んでから、智子はそのまま下を向いた。
 もともと智子の家は裕福で、普段から剛志とは段違いにいい服装を身につけていた。
 それでも二十年という歳月は、智子の想像を超えて貨幣価値を変えている。だからコートの値札に目をやって、彼女もたいそう驚いたに違いない。
 そしてちょうどそんな時、さらなるものが目についた。
「それ、どうしたの?」
 思わず声が出て、剛志の視線が智子の右手に向けられる。
 そこに、風呂敷包みがあったのだ。着物にあるような和柄のもので、最近では滅多に目にすることはなくなった。
しかしそんなこと智子が知るはずもなく、だからなんとも素直な返事が返る。
「あ、これに、さっき着ていた服を包みました」
 智子はすぐにそう言って、提げていた包みをほんの少しだけ持ち上げた。
「そうなんだ、風呂敷なんて、よく持ってたね」
「伊藤さんに届ける、ちらし寿司を包んでいたんです。だけど途中で落としちゃって。それで風呂敷だけ、スカートのポケットに入れてあったのを思い出したから……」
 そうして彼女は、脱いだ洋服をささっと畳んで、風呂敷に四つ結び≠ナ包み込んだ。
 思えばあの頃、風呂敷ってのはまさしく日々の生活に溶け込んでたと思う。どこであろうと何か買って、手提げや袋がもらえるようになったのはいつ頃からか?
 あの時代、何かをちょこっと持っていく時、誰もが普通にこんな風呂敷を使っていた。
 ――正真正銘、あの頃のまんまの智子なんだ。
 この瞬間、剛志は改めてそんな事実に感じ入った。
 きっと今どきの十六歳であれば、まずこんなふうには包めない。万に一つできたとしても、この場で包もうなどとは思わないだろう。
 そして実際、その手際の良さに別れ際、藤本早苗が剛志の耳元で囁いたのだ。
「親戚のお嬢さんって、十六歳なんですよね? 何だか、こっちが照れちゃうくらいに礼儀正しくて。普段からやり慣れているんでしょうけど、洋服を畳んで風呂敷に包むところなんて、あまりに手慣れててびっくりしちゃいました」
 そう言った後、彼女は智子へ向き直り、
「智子さん、またぜひ来てくださいね。支払いはぜんぶこのおじさんに付けときますから、いつでも、大船に乗った気でね……」
 そう続けて、満面の笑みを浮かべたのだった。
 それから藤本早苗に礼を言い、剛志は見違えた智子と一緒に店を出た。辺りはずいぶん暗くなっていて、彼は時刻を知ろうと腕時計のライトを点ける。
すると偶然見ていたのだろう、智子がいきなり大声をあげ、
「え! それって、夜になると明かりが点くんですか?」
 驚いて立ち止まった剛志の横で、目を丸くして腕時計を覗き込んできた。そこで智子の顔の前まで持っていき、すでに消えてしまった照明を再び点灯させてみる。
「ほら、ここを押すとね、時計の中のライトが点くんだ。これ、ぜんぜん最新式じゃないんだけど、いろんな機能が付いててね、けっこう便利な腕時計なんだよ」
 八年前、国内大手から発売された世界初のストップウォッチ付きデジタル時計。西暦からカレンダーまで確認でき、発売当時としてはかなり画期的なものだった。
 そんなデジタル時計のライトが点いて、暗い夜道にくっきり時刻が浮かび上がった。
「暗い中でも、しっかり時間がわかるんですね……。へえ、針じゃなくて、数字がそのまま出るんだ、すごい……」
 デジタル表示であることはもちろん、それ以上に、塗料によって針がぼんやり光るくらいしか知らない彼女は、その明るさにもかなりびっくりしたようだった。
「これって、日付も曜日もわかるんですね。すごいなあ……」
 こんな智子の食い付きに、剛志はどんどん嬉しくなった。
「ちょっと、してみるかい?」
 そう言いながら、さっさと時計を外して智子の手首に持っていく。
「やっぱり緩いね、でもまあ、抜けちゃうほどではないからさ、もし良かったら、未来訪問記念にあなたにあげるよ。ちょうど僕もそろそろ、アナログ式の時計に戻ろうかなって思い始めていたからさ……」
「え、こんな高そうなもの頂けません。このお洋服だって、ものすごく高いんですよ」
「大丈夫、大丈夫……あなたのいた時代とは、お金の価値が違ってるんだ。だからきっと、あなたが考えているほど、この時計だって高いもんじゃないんだよ」
 そう返したものの、五万円以上する国産時計は今だってそこそこお高い方だ。
 それでもそんな剛志の言葉に、智子も少しだけホッとしたのか、
「じゃ、ここにいる間だけ、お借りしてていいですか?」
 この時代で初めて嬉しそうに笑って、
「あとで、使い方を教えてください」なんてことまで言ってきた。
 もともと、智子は物怖じしない性格だ。そしてブティックあたりから、少しは信用してもいいか、くらいに思い始めているのだろう。ずっと居座っていたぎこちなさが、ここにきてかなり薄れてきたようだ。
 そしてコンビニに着いた智子は、何よりも店内の明るさにびっくりするのだ。
 剛志に続いて店内に入り、いかにも眩しいんだという顔をする。それでもそんなのにもすぐ慣れて、智子はまさに十六歳らしいハシャギようを見せた。
 普通なら、昭和三十八年に存在したかなんて、ちょっと考えたくらいじゃわからない。ところが智子はひと目見て、それが未知のものだとすぐわかるのだ。これは何? あれは何に使うのかと、次から次へと剛志に質問を浴びせかけた。特に、お菓子の棚には驚いたようで、
「これって、ぜんぶ日本のお菓子なんですよね……種類もいっぱいで、なんだか、アメリカのお菓子とかみたい……」
 そう言ってから、剛志も知らないチョコレート菓子を手に取った。
 確かに、二十年前の駄菓子を思えば、智子の感想は実に的を得ている気がする。
 あの頃、今のような箱入り菓子は少なくて、剛志が覚えているのはキャラメルと、プリッツやアーモンドチョコレート、そしてココアシガレットくらいのものだ。それに加えて、今は菓子袋だって色とりどりで、菓子自体のバリエーションも段違いに増えている。コンビニでさえこうなのだから、スーパーや食料品店だったらどんなに驚いたことだろう。
 剛志はさらにその奥に行き、ふと目についたカップラーメンを手に取った。ニコニコしながら手招きをして、やって来た智子の前にここぞとばかりに差し出し告げる。
「これはね、お湯を注いで三分待てば、このまま食べられるラーメンなんだよ」
 彼はこの時、時計のときのようなリアクションを期待していた。ところが差し出されたカップ麺を手にして、智子は驚いた様子をぜんぜん見せない。
「へぇ、このまま食べられるなんて便利だけど、熱いお湯を注いで、持っている手が熱くならないのかしら?」
 そう言いながら、数種類だけ置かれた袋入り即席麺に目を向ける。続いてその左右にまで視線を送り、剛志を見ないままポツリと言った。
「チキンラーメンっていうのがあって、それもお湯を入れて三分で食べられたんですよ。でも、ここにはないみたい。もう、売ってないのかな……?」
 そう言ってから、ちょっと残念だという顔をした。
 言われてみれば、カップのまま食べられるという新しさはあるが、その中身は袋入りのチキンラーメンと似たようなものだ。
 ――そうか、チキンラーメンって、あの頃からあったんだな……。
 などと、かなり拍子抜けした剛志だが、その頃の自分だって食べていたに決まっている。
 それからも、予想もしないところで智子は何度も驚きを見せた。
今でいう、自動販売機などなかった時代だから、缶入りと言えばツナやらフルーツなどの缶詰ばかりだ。ところが今やビールやコーヒーなどは缶入りの方が多いくらいで、加えて缶切り≠ネんていらないと知って、智子はまさに目を丸くして驚いた。
そんなこんなで店内を見て回り、最後は通り沿いに並んだ雑誌のコーナーに立ち寄った。
 剛志はそこで、ずっと頭にあった言葉を智子に向けて声にするのだ。
「この中に、あなたが知っている雑誌ってあるかな? もしあったら手に取って、僕にそれを見せてほしいんだ」
 そんなことを言われて、智子は不審げに剛志の顔をチラッと見上げた。それからゆっくり雑誌コーナーに向き直り、ズラッと並んだそれらに目を向ける。
 ちょっと見ただけでも六冊くらいはあるように思える。ただしそれらは大人向けで、彼女が知っていたかどうかは微妙なところだ。
 ところが思いの外すぐに、智子は記憶にある雑誌を見つけ出した。
 手前に並んでいた女性誌を棚から抜き取り、続いて奥の方にも手を伸ばす。その先にあったものを見て、剛志は心から「意外だな」と思った。
 新たに手にしたのは二冊で、ほぼ同時期に創刊された大人向けの週刊誌だ。
 もしこの時代の女子高生に同じことを尋ねたら、きっとこの手の雑誌は挙げないと思う。この二冊については特にだが、剛志もこれまで読みたいなどと思ったことがない。
 結果剛志は、智子が選んだ三冊から女性誌だけを手に取った。パラパラっと捲ってからひっくり返し、広告の入った裏表紙を上にする。それから「見てごらん」と言わんばかりに、智子の顔の前まで持っていった。
 智子は不思議そうにしながらも、差し出された女性雑誌に目を向ける。しかしすぐに首を傾げて、手にある週刊誌を剛志に渡して、代わりにその女性誌を手に取った。
それから目を皿のようにして、裏表紙全体に目を向ける。すると突然、視線の動きがある部分でピタッと止まった。そのままじっと動かずに、
「昭和五十八年って……」と呟いて、智子はふうっと息を吐く。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 2907