第3章 1983年 プラス20 – 始まりから20年後
智子の失踪から二十年後、 剛志は奇妙な電話によって伊藤との約束を思い出す。 「二十年後、またこの場所に来てほしい」 そんな約束の実行のため、彼は岩倉家を訪れるのだった。
1 三月九日
「それじゃあ、わたしはこれから出かけますので、ご自分の庭だと思って自由になさってください。それから先日も申しましたが、わたしらは数日留守にしますので、ご用がお済みになればすべてそのままにして、お帰りいただいて構いませんから……」 やはり心配になったからと、岩倉氏は出かけるのを遅らせ、剛志の到着を待っていてくれたのだ。門を抜けると彼が現れ、なんとも親切そうにそんなことまで言ってくれる。 そして雪山に向かうのか? というくらいの厚着姿に、暖かそうなニット帽を目深に被って、彼はそのまま門の外へと出ていった。 三月の平均気温と比較したわけではないが、確かに暖かいという日ではない。きっと十度にも届いていない気温も、午後三時近くになってグッと下がってきたようだ。 ――三時ってのは、いくらなんでも早すぎたかな……? それでも、五時にはなっていなかったと思う。 あの日、家を出て林を目指したのは、きっと四時半かそこらだろう。ただ、もしそれが勘違いだったなら、取り返しのつかないことになってしまうかもしれないのだ。 『二十年後、きっかり同じ時刻に……』 伊藤は何度もそう言って、 『頼む、彼女のために、必ず……必ずだ』 息も絶え絶えに、そう言い残して死んでいった。 だから念には念を入れ、午後三時という時刻を岩倉氏に伝えた。しかしそのせいで、この寒空の中、優に一時間以上は待たねばならない。だから迷うことなく勧められた離れへ向かい、彼はしばらくそこから様子を見ようと決めたのだ。 離れは純和風の造りで、ちょっと小さめの平屋一戸建てという感じ。中に入って驚いたのは、格子戸を開けて入った先が、すでに暖かい空気で満たされていたことだ。 見たところ、暖房機らしいものは見当たらない。それでも二間続きの和室から、手洗いまでが眠気を誘うくらいに心地よかった。 先日、母屋のトイレから眺めた時、きっと死角になっていたに違いない。 あの時剛志は、この離れにまったく気づいていなかった。しかしここから眺めると、トイレ以上に岩の存在がはっきりとわかる。さらに窓一面に広がる庭をしっかり見れば、まるであの時目にした広場のようだ。 ところどころに苔くらいは生えている。それだってほんの僅かな部分だけだ。あとは黒々とした土剥き出しで、日々の入念な手入れがなければ普通こうはならないだろう。 となれば、これはたまたまこうなったのか? それともあえて、こうする理由があったのだろうか? 枯れ木一本見当たらない、そんな前方中央に、あの岩だけが当時のままに残されている。 ――こりゃあ、ありがたい……。 剛志は素直にそう思って、窓の方を向きつつ畳の上に腰を下ろした。 今この時、なんびとがあの岩に近づこうと、室内からだってはっきりとわかる。とにかくここで見張っていれば、岩に枯れ葉が落ちてきたって気づくだろう。 それからあっという間に、一時間くらいが過ぎ去った。ただ四時を過ぎ、いよいよという頃が近づくと、離れにいるのが徐々に不安になってくる。 伊藤の言葉通りにするなら、岩のすぐ横にいなければならない。 もちろん、ここからだってすぐ飛び出せる。しかしもし、それが一瞬で起きてしまったら、取り返しのつかないことになってしまうのだ。 ――なんにせよ、次のチャンスなどありゃしない。 そうなったらきっと、室内にいたことを一生悔やむことになるだろう。 だから剛志は決めたのだ。外の明るさからすればまだまだという気はしたが、万一のことを考えて岩の近くで待とうと思う。格子戸に手をかけ、もう一度トイレに行っておくか? ほんの一瞬だけそんなことを考えた。しかしすぐ、いざとなれば立ちションでもすればいい……と思い直し、彼はコートの襟を立てて寒空の中へ出ていった。 二十年前、剛志は岩の横に立ち、息絶えた伊藤を見下ろしたのだ。そして伊藤はその死に際に、岩を見張っていろと剛志に告げた。失血死寸前という時だから、意味不明の戯言だったということもある。 ただもしも、本当に何かが起こるとすれば、それはきっとこの場に誰かが現れるのだ。 とすればその誰かとは、遠くに見える門から堂々入ってくるか? あとは高い塀を乗り越えるしかないが、脚立でも使わない限り誰であろうと侵入は無理だ。 ――間違っても、空から降ってくるなんてこと、ないだろうしな……。 そんなことを思いながら、剛志が何気なく視線を上へ向けた時だ。 最初は、己の目の錯覚かと思った。見上げた先の風景が、いきなりグニャッと歪んだように見えたのだ。だから剛志は慌てて視線をあっちこっちに向けてみる。 ところが周りは至って普通。なのに頭上の空間だけが違って、まるで歪んだガラスに覆われてしまったようにいびつ≠ネのだ。もちろん風が吹いての揺れ≠ネどでは絶対ない。 直径三メートルくらいだろうか? そんな空間がゆらゆらと不自然に歪みながら、ゆっくり剛志に向かって下りてくる。 ――何か、あるのか? そうとしか思えなかった。 目に見えない何かがあって、その存在を辺りへ伝えようと景色を揺らめかせている。 ――まさか……これが伊藤の霊魂とか……? そんなことを思ってみるが、いくらなんでも大きすぎる気がした。 すでに手の届く辺りにまで降りていて、触れるのか……? ふとそう思い、近づきつつあるものに手を差し向けようとした瞬間だ。 揺らめいていた空間が、フッとその動きを消し去ったのだ。一気に周りの景色と同化して、もはや何かがあっただなんてどうしたって思えない。 やっぱり、目の錯覚か? そう思うまま目を閉じて、すぐに勢いよく見開いてみる。しかし視線の先には変化なく、もちろん上を向いても同様だった。 ――なんだよ、こんなことだったのか? 二十年後と訴えていたのは、こんなシーンのためだったかと、それまでの緊張感が潮が引くように消え失せる。そしてその隙間を埋めるように、喪失感のようなものがここぞとばかりに押し寄せた。 ――くそっ! 心でそう呟いて、剛志は握りこぶしを突き出したのだ。 それは何もない空間に向け、ほんのちょっとした苛立ちくらいのはずだった。 ところが拳の先に何かが当たった。コツンという音がして、指に痺れるような痛みが走る。 ――くそっ、やっぱり、ここに何かあるんだ。 そう思った途端だった。 ――え!? その瞬間、あまりの驚きに己の目を疑った。 ほんの少し見上げた先に、信じられないものが現れたからだ。 ――嘘だ……なんなんだよ、これ……? ただただ意味がわからずに、剛志は暫しその場に立ち尽くした。
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